八木幹夫『夜が来るので』(砂子屋書房、2008年04月09日発行)
八木幹夫の詩は不思議だ。ことばがどこへでも自在に行ってしまう感じがするのに、読み終わるとそんなに遠くへ行っていない。いや、遠くへ行かないどころか、近くへ帰ってくる。そんな感じがする。
「春の購買力」は「葱」とともにはじまる。
買い物(だろう、たぶん)。葱を買って家へ帰る人々。その描写。葱と、それを持つ人間が重なり合う。男の首筋が白くて、水がこぼれたらはじけそう、であってもかまわないけれども、八木はそこまでは逸脱しない。逸脱しないけれど、ほら、「威勢のいい男」「まっすぐに育つといいな」に比べると、葱を持つ女と葱の重なりあいが、男や少年のときとは違っているでしょ? 少しだけ「逸脱」してみせる。ことばが、ちょっとだけすけべ(?)な感じにずれて行く。あ、次は何が出てくるかな? どんな人間と葱が重なり合うのかな、と思うと……。
前の行につづけて。
「逸脱」から急に現実に戻ってしまう。あれ、白い首筋はどうしてくれるんだよ、ちゃんと決着をつけてくれよ、という気持ちになる。と、変な気持ちにさせて、そこから別な方向へ「逸脱」する。
「現実」を挿入することで、「逸脱」を「これは逸脱ではありません」と言い聞かせて、(言い聞かせるふりをして)、とんでもないことを書きはじめている。
葱って、山の斜面に発生する? しないんじゃないのか? ふつう畑で栽培している。特に首筋が白い葱は、首筋が白くなるように、土をかぶせている。人工的につくりだしている。山の斜面に異常発生なんかしない。
しかし、八木は「異常発生」ということばをつかいたかった。それがつかえる状況をつくりだしたかった。つくりだすといっても、想像力でだが。
道を行き交う人々。そのなかに葱を持つひとがいつになく多い。葱を持つひとが「異常発生」している。でも、人間について「異常発生」といわないので、八木は葱を異常発生させることで、辻褄をあわせようとした。状況を理解しようとした。
状況からことばをつむぎだすのではなく、ことばにあわせて状況をつくりだしてゆく。
「葱を持っている男が通る」と書いたときは、状況に沿う形でことばが生まれている。ところが「青々とした威勢のいい男だ」になるとすでに状況からことばが発生していない。「青々した威勢のいい」は男そのものから発生していない。葱の様子から発生している。葱から発生したことばを男に覆いかぶせ、男を葱のように仕立てている。ことばにあわせ、男の姿を辻褄が合ったものにしようとしている。
スーパーの袋から葱のはみ出させて、はみ出してしまった存在のように男が歩いている、とも書くことができるが、(そんなふうに書くと清水哲男の世界へ入っていきそうだが)、あくまで葱を主体に男を作り替えてしまう。葱と男の関係を辻褄が合ったものにしようとしている。
ここから、哀しみではなく(清水哲男ではなく)、ユーモアが(八木幹夫)が、さらにさらにあふれて行く。自在に動いて行く。
ふいに、最初の行にもどりたくなる。男と女、威勢のいい男、つやっぽい女をくっつけたくなる。触発と刺激。「色艶」「匂い」。それこそ、「美味しそう」じゃないですか? そんなふうに、誘っておいて、また。
「逸脱」が行ったり来たり。
その間に「ほのかに(この形容詞は臭い)」という自己批判(?)めいたものも登場して、奇妙にことばがくすぐったい。形容詞ではなく、葱そのものが「臭い」存在だが、「臭い」においを「ほのかに」(形容詞というより、形容動詞か)とずらし、「逸脱」した空想の世界を歩いているのか、現実そのものとむきあっているのか、あいまいにする。
いつでもことばは、現実と、現実から逸脱していく世界を往復しているのだ。
現実に軸足を置きながら、いつでも逸脱して行く。逸脱しながら、いつでも現実にもどってくる。
このことばの運動は、たぶん、八木の軸足の強さに起因する。八木は、軸足を架空に置くことはしない。ここから八木の詩の、不思議な安定感が生まれる。抒情に流されない愛しみ(かなしみ、と読んでください)が生まれる。八木は、いつでも現実を愛している。そして、その愛する現実をちょっとくすぐるために、ことばを利用して、現実を少しだけ乗っ取る。そんなふうにして乗っ取られ、変形した現実は、私たちの想像力をくすぐる。楽しくさせる。
こんなふうに、ゆったりと世界を眺められるのは、とても気持ちがいい。
*
新しい詩集はまだ「アマゾン」では手に入らないようなので、手に入る詩集を紹介しておきます。
八木幹夫の詩は不思議だ。ことばがどこへでも自在に行ってしまう感じがするのに、読み終わるとそんなに遠くへ行っていない。いや、遠くへ行かないどころか、近くへ帰ってくる。そんな感じがする。
「春の購買力」は「葱」とともにはじまる。
葱を持っている男が通る
青々とした威勢のいい男だ
葱を持った少年が走っている
まっすぐに育つといいな
葱を持つ女が笑う
首筋は白く 水がこぼれたらはじけそう
買い物(だろう、たぶん)。葱を買って家へ帰る人々。その描写。葱と、それを持つ人間が重なり合う。男の首筋が白くて、水がこぼれたらはじけそう、であってもかまわないけれども、八木はそこまでは逸脱しない。逸脱しないけれど、ほら、「威勢のいい男」「まっすぐに育つといいな」に比べると、葱を持つ女と葱の重なりあいが、男や少年のときとは違っているでしょ? 少しだけ「逸脱」してみせる。ことばが、ちょっとだけすけべ(?)な感じにずれて行く。あ、次は何が出てくるかな? どんな人間と葱が重なり合うのかな、と思うと……。
前の行につづけて。
出会う人は葱をかかえて
同じ方向からやってくる
葱は安いんだろうか
「逸脱」から急に現実に戻ってしまう。あれ、白い首筋はどうしてくれるんだよ、ちゃんと決着をつけてくれよ、という気持ちになる。と、変な気持ちにさせて、そこから別な方向へ「逸脱」する。
向うの山の斜面に葱が異常発生したのだろうか
「現実」を挿入することで、「逸脱」を「これは逸脱ではありません」と言い聞かせて、(言い聞かせるふりをして)、とんでもないことを書きはじめている。
葱って、山の斜面に発生する? しないんじゃないのか? ふつう畑で栽培している。特に首筋が白い葱は、首筋が白くなるように、土をかぶせている。人工的につくりだしている。山の斜面に異常発生なんかしない。
しかし、八木は「異常発生」ということばをつかいたかった。それがつかえる状況をつくりだしたかった。つくりだすといっても、想像力でだが。
道を行き交う人々。そのなかに葱を持つひとがいつになく多い。葱を持つひとが「異常発生」している。でも、人間について「異常発生」といわないので、八木は葱を異常発生させることで、辻褄をあわせようとした。状況を理解しようとした。
状況からことばをつむぎだすのではなく、ことばにあわせて状況をつくりだしてゆく。
「葱を持っている男が通る」と書いたときは、状況に沿う形でことばが生まれている。ところが「青々とした威勢のいい男だ」になるとすでに状況からことばが発生していない。「青々した威勢のいい」は男そのものから発生していない。葱の様子から発生している。葱から発生したことばを男に覆いかぶせ、男を葱のように仕立てている。ことばにあわせ、男の姿を辻褄が合ったものにしようとしている。
スーパーの袋から葱のはみ出させて、はみ出してしまった存在のように男が歩いている、とも書くことができるが、(そんなふうに書くと清水哲男の世界へ入っていきそうだが)、あくまで葱を主体に男を作り替えてしまう。葱と男の関係を辻褄が合ったものにしようとしている。
ここから、哀しみではなく(清水哲男ではなく)、ユーモアが(八木幹夫)が、さらにさらにあふれて行く。自在に動いて行く。
美味しそうな色艶
美味しそうな匂い
すれ違う別の男にや女にも
触発する
刺激する
ふいに、最初の行にもどりたくなる。男と女、威勢のいい男、つやっぽい女をくっつけたくなる。触発と刺激。「色艶」「匂い」。それこそ、「美味しそう」じゃないですか? そんなふうに、誘っておいて、また。
「葱が買いたいわ」
「葱は何にでも使えるからね」
公園のいたるところから
ほのかに(この形容詞は臭い)
葱が匂う
流され易いのだ
誰もが持っていると
「逸脱」が行ったり来たり。
その間に「ほのかに(この形容詞は臭い)」という自己批判(?)めいたものも登場して、奇妙にことばがくすぐったい。形容詞ではなく、葱そのものが「臭い」存在だが、「臭い」においを「ほのかに」(形容詞というより、形容動詞か)とずらし、「逸脱」した空想の世界を歩いているのか、現実そのものとむきあっているのか、あいまいにする。
いつでもことばは、現実と、現実から逸脱していく世界を往復しているのだ。
現実に軸足を置きながら、いつでも逸脱して行く。逸脱しながら、いつでも現実にもどってくる。
このことばの運動は、たぶん、八木の軸足の強さに起因する。八木は、軸足を架空に置くことはしない。ここから八木の詩の、不思議な安定感が生まれる。抒情に流されない愛しみ(かなしみ、と読んでください)が生まれる。八木は、いつでも現実を愛している。そして、その愛する現実をちょっとくすぐるために、ことばを利用して、現実を少しだけ乗っ取る。そんなふうにして乗っ取られ、変形した現実は、私たちの想像力をくすぐる。楽しくさせる。
こんなふうに、ゆったりと世界を眺められるのは、とても気持ちがいい。
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新しい詩集はまだ「アマゾン」では手に入らないようなので、手に入る詩集を紹介しておきます。
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