詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八木幹夫『夜が来るので』(1)

2008-04-01 22:21:56 | 詩集
 八木幹夫『夜が来るので』(砂子屋書房、2008年04月09日発行)
 八木幹夫の詩は不思議だ。ことばがどこへでも自在に行ってしまう感じがするのに、読み終わるとそんなに遠くへ行っていない。いや、遠くへ行かないどころか、近くへ帰ってくる。そんな感じがする。
 「春の購買力」は「葱」とともにはじまる。

葱を持っている男が通る
青々とした威勢のいい男だ
葱を持った少年が走っている
まっすぐに育つといいな
葱を持つ女が笑う
首筋は白く 水がこぼれたらはじけそう

 買い物(だろう、たぶん)。葱を買って家へ帰る人々。その描写。葱と、それを持つ人間が重なり合う。男の首筋が白くて、水がこぼれたらはじけそう、であってもかまわないけれども、八木はそこまでは逸脱しない。逸脱しないけれど、ほら、「威勢のいい男」「まっすぐに育つといいな」に比べると、葱を持つ女と葱の重なりあいが、男や少年のときとは違っているでしょ? 少しだけ「逸脱」してみせる。ことばが、ちょっとだけすけべ(?)な感じにずれて行く。あ、次は何が出てくるかな? どんな人間と葱が重なり合うのかな、と思うと……。
 前の行につづけて。

出会う人は葱をかかえて
同じ方向からやってくる
葱は安いんだろうか

 「逸脱」から急に現実に戻ってしまう。あれ、白い首筋はどうしてくれるんだよ、ちゃんと決着をつけてくれよ、という気持ちになる。と、変な気持ちにさせて、そこから別な方向へ「逸脱」する。

向うの山の斜面に葱が異常発生したのだろうか

 「現実」を挿入することで、「逸脱」を「これは逸脱ではありません」と言い聞かせて、(言い聞かせるふりをして)、とんでもないことを書きはじめている。
 葱って、山の斜面に発生する? しないんじゃないのか? ふつう畑で栽培している。特に首筋が白い葱は、首筋が白くなるように、土をかぶせている。人工的につくりだしている。山の斜面に異常発生なんかしない。
 しかし、八木は「異常発生」ということばをつかいたかった。それがつかえる状況をつくりだしたかった。つくりだすといっても、想像力でだが。
 道を行き交う人々。そのなかに葱を持つひとがいつになく多い。葱を持つひとが「異常発生」している。でも、人間について「異常発生」といわないので、八木は葱を異常発生させることで、辻褄をあわせようとした。状況を理解しようとした。
 状況からことばをつむぎだすのではなく、ことばにあわせて状況をつくりだしてゆく。
 「葱を持っている男が通る」と書いたときは、状況に沿う形でことばが生まれている。ところが「青々とした威勢のいい男だ」になるとすでに状況からことばが発生していない。「青々した威勢のいい」は男そのものから発生していない。葱の様子から発生している。葱から発生したことばを男に覆いかぶせ、男を葱のように仕立てている。ことばにあわせ、男の姿を辻褄が合ったものにしようとしている。
 スーパーの袋から葱のはみ出させて、はみ出してしまった存在のように男が歩いている、とも書くことができるが、(そんなふうに書くと清水哲男の世界へ入っていきそうだが)、あくまで葱を主体に男を作り替えてしまう。葱と男の関係を辻褄が合ったものにしようとしている。
 ここから、哀しみではなく(清水哲男ではなく)、ユーモアが(八木幹夫)が、さらにさらにあふれて行く。自在に動いて行く。

美味しそうな色艶
美味しそうな匂い
すれ違う別の男にや女にも
触発する
刺激する

 ふいに、最初の行にもどりたくなる。男と女、威勢のいい男、つやっぽい女をくっつけたくなる。触発と刺激。「色艶」「匂い」。それこそ、「美味しそう」じゃないですか? そんなふうに、誘っておいて、また。

「葱が買いたいわ」
「葱は何にでも使えるからね」
公園のいたるところから
ほのかに(この形容詞は臭い)
葱が匂う
流され易いのだ
誰もが持っていると

 「逸脱」が行ったり来たり。
 その間に「ほのかに(この形容詞は臭い)」という自己批判(?)めいたものも登場して、奇妙にことばがくすぐったい。形容詞ではなく、葱そのものが「臭い」存在だが、「臭い」においを「ほのかに」(形容詞というより、形容動詞か)とずらし、「逸脱」した空想の世界を歩いているのか、現実そのものとむきあっているのか、あいまいにする。
 いつでもことばは、現実と、現実から逸脱していく世界を往復しているのだ。

 現実に軸足を置きながら、いつでも逸脱して行く。逸脱しながら、いつでも現実にもどってくる。
 このことばの運動は、たぶん、八木の軸足の強さに起因する。八木は、軸足を架空に置くことはしない。ここから八木の詩の、不思議な安定感が生まれる。抒情に流されない愛しみ(かなしみ、と読んでください)が生まれる。八木は、いつでも現実を愛している。そして、その愛する現実をちょっとくすぐるために、ことばを利用して、現実を少しだけ乗っ取る。そんなふうにして乗っ取られ、変形した現実は、私たちの想像力をくすぐる。楽しくさせる。

 こんなふうに、ゆったりと世界を眺められるのは、とても気持ちがいい。




新しい詩集はまだ「アマゾン」では手に入らないようなので、手に入る詩集を紹介しておきます。

八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社

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ケヴィン・リマ監督「魔法にかけられて」

2008-04-01 09:35:17 | 映画
監督ケヴィン・リマ 出演 エイミー・アダムス、パトリック・デンプシー

 音楽、というか、「歌」のつかい方がとてもいい。
 おとぎの国では、何もかもを歌で伝える。歌は、こころの喜び。恋や愛はもちろん歌で語り合う。確かめあう。こころから愛を歌えば必ず相手に通じ、愛は結ばれる。
 そんなおとぎの国から、魔女によってニューヨークに追放された「お姫様候補」がどたばたを繰り広げるのだが、前半は、その純真なこころがニューヨークをかえていく(ニューヨークっ子をとりこにする)。--ここまでは、おとぎの国の延長である。歌もとても楽しい。ダンスも明るくて、ああ、純真っていいもんだなあ、とうれしくなる。
 ところが、そんな「お姫様候補」がある日、歌を歌えなくなる。純真なこころを、そのまま歌えなくなる。待ち焦がれていた「王子様」がニューヨークまで彼女を救いに来たのに、喜びが歌にならない。自分自身のこころがわからなくなっているのである。
 彼女のこころに混乱をひきおこしたのはニューヨークである。現実である。彼女はそこでひとりの弁護士に会うのだが、その親切さに接しているうちに、なにかが変わりはじめる。そして、弁護士の方も、彼女の純真さに触れているうちになにかが変わりはじめる。
 そこに、もう一度「歌」が登場する。
 舞踏会。「お姫様候補」と弁護士がダンスをする。歌手の歌う歌にあわせて。その歌は「お姫様候補」が自分で歌っているわけではない。弁護士が自分で歌っているわけではない。それなのに、その歌が、まるで自分たちのこころの声のように聞こえてしまう。こころが、他人の声に誘われて、だんだん自分を発見して行く。歌を歌ったことのない弁護士が、その声にあわせるようにして、声を出す。「お姫様候補」の耳元で、歌を歌う。
 この瞬間、弁護士のこころが、はじめて明確になる。「お姫様候補」をこころからあいていることに弁護士自身が気づく。そして、「お姫様候補」もそのこころをしっかり感じてしまう。
 「歌」の魅力は、たしかに、そこにある。
 誰にでもこころはある。誰でも恋をする。愛をする。それをことばにする。しかし、それがすぐにできるのは「おとぎの国」の話である。現実生活のなかでは、こころは入り乱れ、どれが自分自身の声なのか、ほんとうの自分の声はどれなのか、そういうものがわからなくなるときがある。
 そんなとき、こころを救い出してくれるのが「歌」である。
 他人のことばであるけれど、他人のメロディーであるけれど、それが迷っているこころ、ことばを求めてさまよっているこころを救い出し、こんなふうに感じていいのだ、こんなふうに気持ちを伝えればいいのだ、と教えてくれる。
 「歌」はこころに形を与えてくれるのである。

 「歌」を、たとえば映画に、あるいは小説に、詩に、置き換えることができる。私たちは映画を見て、小説を読んで、詩を読む。それは、自分が感じていながら、まだことばにできないものを発見するためである。そこに存在するのは「他人」のことば、「他人」の表現であるけれど、その「表現」をとおして、こころの発見の仕方を私たちは学ぶのである。

 このことは、映画のなかでもていねいに描かれている。弁護士は、歌なんて現実には何の役にも立たない。ダンスなんて意味がない、と思っている。「お姫様候補」がセントラルパークで歌いだすのを困惑して見つめている。「歌うのはやめろ」と言ったりする。ひ彼女の歌にあわせて、みんなが歌い踊るの引き込まれ、いっしょにリズムをとったりするが、すぐに何をしているんだろう、と我に返る。歌では現実をかえることはできない。純真さでは、人間関係は変えられない、という自分の考えにもどって行く。
 しかし、「お姫様候補」の歌が、ことばが、アイデアが周囲の状況を変えて行くのを観るにつれ、少しずつかわってゆく。こころを伝える方法、いままで彼が知らなかった方法があるということに気がつきはじめる。
 そして、最後の「歌」がある。
 弁護士ではない誰かが、「お姫様候補」ではない誰かのために歌っている歌。その歌が自分のこころそのものであることを知る。恋の瞬間、弁護士は弁護しではなく、はじめての恋にとまどう少年になってしまう。ひとのことばに誘われるまま、そのことばが形作るこころのなかへ、全身で飛び込んで行く。「歌」を歌う。
 一方、「お姫様候補」は「お姫様候補」で歌わないことを学ぶ。彼女がいままで知っていた「歌」(メロディー)では伝えられないものが彼女のこころのなかに生まれてきているのを知る。どうしていいか、わからない。得意だった「歌」が、いまは不完全に感じられてしまう。
 そのとき、最後の「歌」が遠くからやってくる。
 見知らぬ誰かが、誰かと誰かの恋を歌っている。そのことば、そのメロディー。それは彼女がいままで歌ったことのないことばであり、メロディーである。それは彼女のものではない。それにもかかわらず、それは彼女のものだ。彼女のこころそのものだ。
 そして、そこへ弁護士の「歌」。耳元で、ささやくように。
 その瞬間、「お姫様候補」は、こころとこころが出会っている、語り合っていることを実感する。彼女は何も言わない。何も言わないけれど、その無言から弁護士が彼女のこころを感じ取り、それにあわせるようにして歌をうたっていることを知る。
 これは美しいシーンである。

 ディズニーのファンタジーといえばそれまでなのかもしれないが、こころの苦悩、恋の苦しみの発見を、こんなふうにピュアな形で見るのはなかなか楽しい。
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