詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

くらもちさぶろう「イチョウ」

2008-04-25 01:57:39 | 詩(雑誌・同人誌)
 くらもちさぶろう「イチョウ」(「ガニメデ」42、2008年04月01日発行)
とてもこわい詩である。読んでいて私は背筋が寒くなった。春なのに、ぶるっと震えてしまった。
 「イチョウ」。その3連。

こうてい の かたすみ で
にし から の ひ の ひかり を うけて
イチョウ の は が きいろ に もえて いる
いち まい いち まい が かがやいて いる

 これ いじょう かがやく と
 わたし たち の かお も
 からだ も きえて 
 つめたい かぜ に なって しまうのよ

こうしゃ のうら にわ に
おんな の こ が
ふたり ならんで
うつぶせ に ねて いる
だまって いて も きもち わ わかる と いう ように
おなじ きいろ の セーター を きて
きいろ の スカート を はいて

 切り離された音、ことばが、まるで世界とつながりをなくしてしまったなにかのようである。そのなにかは、「おんな の こ」のようでもある。そして、その「おんな の こ」の精神の動きのようでもある。
 2連目のことばは、だれのことばか。イチョウのことばか。あるいは「おんな の こ」のことばか。それは重なり合い、「おんな の こ」がイチョウになってしまっているように感じられる。それがこわい。
 世界とつながりをなくしているのに、イチョウとは重なり合っている。しっかりつながっている。その分離と結合。
 それはまた、「おんな の こ」の「ふたり」という関係に似ている。2連目のことばは「ふたり」のうちのどちらが言ったのだろうか。どちらが聞いたのだろうか。区別されていない。区別がない。「ふたり」なのに、どこかでつながっている。それはちょうどイチョウの葉が1枚が2枚に分かれたのか、2枚が1枚になろうとしているのかわからないように、(あ、まるで、ゲーテの詩である)、分離しながら結合している。
 そして、その分離と結合は、私は「ゲーテの詩のように」と書いてしまったが、ゲーテの詩の美しい愛しみを通り越して、とてもこわい。
 2連目の「わたし たち の かお も/からだ も きえて」が、真実に思えるのである。



イギリスの詩・日本の詩
倉持 三郎,福田 陸太郎
土曜美術社出版販売

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