詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中江俊夫「変な感じ」

2008-04-28 11:23:52 | 詩(雑誌・同人誌)
 中江俊夫「変な感じ」(「たまや」04、2008年05月12日発行)
 中江俊夫はのことばは、どこか谷川俊太郎のことばと似ている。ことばと対象との距離が不思議である。近すぎることもなければ遠すぎることもない。この近すぎることもなければ遠すぎることもないというのは、どこかで記憶を刺激する。あ、そういうばそういうこともあった。そういうことを考えたことがあった、と私(読者)に感じさせる。--ただし、それはあくまで「そういうことがあった」という、一種の不思議な距離を残したままの印象である。
 それは和音に似ている。同じ音ではなく、ちょっと違う。(たとえば音楽でいう3度の和音、という感じ。)平行して動き、平行して動くことで、なにか、自分だけのことばではとらえられないものが浮かび上がってくる。
 3度の距離(?)で動き続ける世界、そのことば、その「意味」--そこに書かれていることは「知らないこと」ではなく、「知っている」ことである。「知っている」だけではなく、誰もが一度はそういうことを自分自身でことばにしたことがある。ただし、それは自分の実感(音)とはぴったりとは重ならない。和音のようにちょうどいい距離で動き、そうすることで、私自身の実感(音)をそっとある動きのなかへ誘ってくれるという感じなのだ。
 この感じからみると、私には中江と谷川は、なにかとても似ている。

 「和音」と私が仮に呼んだもの、それは次のようなことである。
 「変な感じ」という「連作」(だろうと思う)の冒頭の「幼時」。

嘘だとわかっていたけれど
土橋の下でひろった子 と言われ
なにかしくりと 心が痛んだ
冗談だとわかっていたけれど
物売りの男から安く買った子 と言われ
なにやらほろっと 両手の力が抜けた

 自分は両親のほんとうの子供ではない--というのは幼児期に誰もが見る夢、あこがれのようなものである。中江の詩は、しかし、そういう幼児期の思い出を描いていて、どこか、私の記憶とは違う。
 私は、たとえば「嘘だとわかっていた」とは言えない。もちろん嘘に決まっているのだが、それを「わかって」はいなかった。「わかる」ではなく、もっと強い感じ、たとえば「信じていた」。それが絶対にほんとうではないと信じていて、嘘と向き合っていた。「わかる」というような冷静な感じではない。中江や谷川のことばは、私を冷静にさせる。感情が激情に揺れるのを、そっとととのえてくれる。--そして、思うのだ。あ、そうか、あれは「信じていた」と私は思い込んでいたが、「わかっていた」ということばでとらえるとすっきり落ち着く世界なのだと「知る」。
 「わかる」「知る」「信じる」、あるいはこれに「思う」をつけくわえてもいい。(ほかにも付け加えることができることばがあるだろうと思う。)そうしたことばは、人間のこころの動き、精神の動きのある部分をあらわしている。それは通い合っている。通い合っているけれど、微妙に違う。たぶん私は「信じる」「思う」というような感情的な(?)世界を中心に生きているのだろう。そういう「感情的」な世界を、中江や谷川は「わかる」「知る」という「知的」な世界で再現する。「知的」に落ち着かせる。--このとき、感情と知性の「和音」が生まれる。「和音」のなかに、感情が吸収され、とても落ち着く。感情が感情のままであったときより、ずっとなじみやすいものになる。

 ただ、感情が感情のままであったときより、なじみやすいものになる、というだけなら、それは「セラピー」のようなもであって、詩ではない、ということになるかもしれない。中江、谷川のことばは、そういう部分を超越する。「なだめられた」「落ち着かされた」(?)という感じを超える。

 たとえば、「両手の力が抜けた」ということばによって。

 それは私が「信じていた」あるいは「思っていた」こととは違う。そしてまた「わかっていた」ことでも「知っていた」ことでもない。それは感情や精神に働きかけてくるのではなく、直接「肉体」へ働きかけてくる。それは、いままで存在しなかった「ことば」である。そのことばによって、たとえば私が「信じていた」もの、あるいは中江のことばによって「わかった」もの(「知った」もの)が、一致する。「肉体」のなかで一致する。「ことば」がなくても存在するもののなかで一致する。(感情や精神はことばにしないと存在していることを他人に示せないけれど、肉体はそこにあるだけで存在を示せる。)それは別のことばで言えば、感情や精神に「肉体」を与えられたという感じである。

 「肉体」ととけあって、感情・精神が具体的に生まれてくる。
 この誕生の瞬間。--そういうものが、中江、谷川のことばとともにある。
 それも、むりやり誕生させられるのではなく、なにか自然に誕生してしまう。まるで誕生するのがあたりまえのことであるかのように、すーっと誕生し、誕生さえも忘れさせる。初めからそこに存在していたかのように感じさせる。

 中江、谷川の詩が好きな理由--私が好きな理由は、たぶん、そこにある。単に感情・精神のあり方へ向けて導かれるというよりも、「肉体」へ向けて導かれる、という印象があるから、中江、谷川のことばが好きなのである。読んでいて安心するのである。
 そして、この安心は、たとえば「幼時」のような古い思い出を落ち着かせるものだけではあい。中江が(あるいは谷川が)ことばにすれば、不安・変な感じ(これは連作詩のタイトルでもあるけれど)さえも、「肉体」として、ただ、そこに存在そのものとして存在する。存在させる。
 連作中、次の「変な感じ」は大傑作である。こういう詩は感想を必要としない。ただそのことばを書き写しておく。

誰か 他人の足があると思って
その足首のあたりに
もう一方の自分の足指の先でさわっていた
(これはどうやらぼくのものらしい)

誰か 他人の首があると思って
片手をそのはげた額あたりにあてると
掌に汚い脂じみたものが付着した
(これはどうやらぼくのものらしい)

誰か 他人の知りに電車のなかでのようにぶつかったと思って
隣へ避けたら
避ける自分の臀部が無く 他人の尻が暗い横にあった
(これはどうやらぼくのものらしい)

誰か 他人の心臓がいやに大きく音をたて
鼓動をやめる
許可もなく無礼なと そいつに向かって怒鳴る
(これはどうやらぼくのものらしい)






語彙集 (1972年)
中江 俊夫
思潮社

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