北川透「母音について--アフォリズムの稽古⑭」(「イスプリⅡnd」創刊号、2008年04月20日発行)
ことばはどこまで自由なのだろうか。ことばはほんとうに自由なのだろうか。たとえば、「母音について」の冒頭。
1行目をどう読むべきなのか。どう読まれたがっているのか。2行目の「虫」を修飾することばとして読むべきなのか。それとも「ので」を補って、「わたし」は「(わたしの)身体の中が幾何学的な模様で溢れている(ので)、」「精妙な機織虫に犯されたい、」と読むべきなのか。
もちろん、文学に「読むべき」などというものはない。答えはない。どう読んだっていいのだ。北川には北川の意図があるかもしれないが、その意図を乗り越えて(あるいは完全に無視して)、そこからことばそのものの可能性(勝手な読み替え)をしてこそ、ことばは楽しくなる。ことばは書いた瞬間から北川のものであって北川のものではない。読んだ側のものでもあるのだ。北川が、ことばの自由をもとめて書いているなら、わたしの方だってことばの自由をもとめて読んでかまわないのだ。わがままな読者である私はそう思う。
ごく普通に(国語の教科書や入試の問題を解くように)読めば、1行目は2行目の「虫」を修飾している。しかし、私は、それを「わたし」そのもののありようを示していることばとして読みたい。1行目が、「わたし」の状態をしめしていることばとして読まれたがっていると感じてしまう。
そして思うのだ。よし、読んでやろう。「身体の中が幾何学の模様で溢れている」人間がここにいて、その身体の中の幾何学的な模様をなんとか肉体の外に出したいと欲望している人間のことばが次々に溢れてくる--そういう感じで詩を読んでやろう、と思う。肉体の中の幾何学的な模様が機織虫に犯されることで、どんな化学反応を起こし、一枚の布に変わっていくのか、読んでやろう、と思うのである。
北川の詩に(そのことばの意図に)反するように、北川の書こうとしたことではなく、そこにあることばを、北川の思いとは無関係な方へ動かしてやろう、と思う。
2連目。
こういう欲望が起きるのは、「身体の中が幾何学的な模様で溢れている」人間しか持てないだろう。たとえ「身体の中が幾何学的な模様で溢れている、」という1行が虫を修飾することばであったとしても、そういうことばが生まれてくるのは、そのことばに匹敵するだけの肉体を持っている肉体でなければならない。拮抗するもの、拮抗しうるものだけが、その1行を受け入れることができるのである。そして、受け入れながら、自分を変えていくことができるのである。
1連目にでてきた「犯されたい」は被虐的な欲望ではない。むしろ、攻撃的な受け入れである。受け入れながら、受け入れることで、戦いがはじまる。「犯される」ふりをして、あるいは「犯される」ことを利用して、相手を犯すのだ。とんでもないものを、つまり「犯した」相手が想像もしていなかったものを生み出し、それを相手につきつけるよろこび--そういうものを感じながら「犯される」夢を見ているのである。
ここに書かれているのは「産みたい」という欲望である。「幾何学的な模様」を違ったものにして(自分自身さえも知らないものにして)、産み出したい。そして産み出されたものが、新しく生きるのを見たい。産み出したものが、自分のいのちなのか、それとも自分とは関係なくかってにいきる存在なのか、それを見たいのだ。
「あんな粗雑な人形の容器には、もう飽きたの。」とは、既存のものにうんざりしているという表明である。
人間の形を超越したもの、人間の想像力を超越したもの--ただそういうものになりたいという欲望だけがあるのだ。それは北川の欲望ではなく、北川の肉体を借りてあらわれたことばの欲望なのである。
ことばのなかには、「幾何学模様」が溢れている。それが北川という「機織虫」に犯されて、誰も知らなかった布に、一編の詩におられることを欲望している。北川は一匹の「機織虫」になって、ことばを侵していく。日常の文法を破壊し、ことばの内部へ侵入していく。ことばが「体温も色彩も凹凸も知らない鈍感な触覚、/あんな粗雑な人形の容器には、もう飽きたの。」と叫んでいるのを聞きながら、「何をいってるんだ、ばかやろう、おれがこんな具合におまえの体の中に精液(精神の液体だね、これは)をまき散らして受精させてやる。産んでみろ」と襲いかかる。
ことばはことばで、「そんなところつついたってだめ。そんな浅いところ、そんなほかのひとが切り開いたところをなぞったってだめ」と北川を挑発する。
北川とことばが「わたし」と「機織虫」のふりをして、互いに入れかわりながら、犯し、犯される。セックスをする。その摩擦のなかで、ことばが燃え上がる。だれのものでもないことばが。その瞬間をもとめている。
セックスをどんなに分析したって「意味」が出てこないように、詩も、どんなに分析したって「意味」は出てこないものである。ただ、そこが快感、そこじゃだめ、なぜわからないんだ、ばか、そこじゃない、そこだよ、なん具合に動き回る。そしてそれは見ていても馬鹿馬鹿しいだけである。実際に、そのセックスに闖入して、北川も、ことばも想像もしていなかった(予想していなかった)方向から、勝手にことばを動かすだけである。
「身体の中が幾何学的な模様で溢れている、」は虫を修飾することばではなく、「わたし」そのものの状態、自己認識であると勝手に読み替える。ことばが、そう読まれたがっているから、その欲望を解放してやるのだ、と叫びながら、北川の作品を「犯す」(北川の意図に反して、私自身の欲望をおしつける。欲望をぶちまける)。そうすると、なんといえばいいのだろう。私のなかでことばが動きはじめる。--つまり、いま書いている文章になる。
私の書いていることは、たぶん、多くのひとにとっては「でたらめ」としか感じられないだろうと思う。私は、それでかまわない。私は国語の教科書をつくっているわけでもなければ入試の問題を解いているのでもない。
あることばにふれて、私のなかでことばが動きはじめる。それをただ追いかけている。私のなかで何かになろうとしていることばがある。それを誘い出してくれることばの力との出合いを楽しんでいる。それだけである。
ある人の作品を読む。それに誘われて私のことばが動く。それは一方的な片思いである。そうであっても、そのとき私が変わる。相手のことばによって、自分が自分でなくなる。え、こんなこと書きたかったわけではないのに、書いているうちに、こんなものになってしまった……そういう思いにとらわれる瞬間、私はちょっとうれしくなる。
ことばは確かに自由だと思う。自由になる力をひめいてる、と思うのだ。
北川のことばは、いつでもそういう世界へ誘ってくれる。「誤読」させてくれる巨大なひろがりを持っている。
*
ことばはどこまで自由なのだろうか。ことばはほんとうに自由なのだろうか。たとえば、「母音について」の冒頭。
身体の中が幾何学的な模様で溢れている、
精妙な機織虫に犯されたい、とわたしは言った。
1行目をどう読むべきなのか。どう読まれたがっているのか。2行目の「虫」を修飾することばとして読むべきなのか。それとも「ので」を補って、「わたし」は「(わたしの)身体の中が幾何学的な模様で溢れている(ので)、」「精妙な機織虫に犯されたい、」と読むべきなのか。
もちろん、文学に「読むべき」などというものはない。答えはない。どう読んだっていいのだ。北川には北川の意図があるかもしれないが、その意図を乗り越えて(あるいは完全に無視して)、そこからことばそのものの可能性(勝手な読み替え)をしてこそ、ことばは楽しくなる。ことばは書いた瞬間から北川のものであって北川のものではない。読んだ側のものでもあるのだ。北川が、ことばの自由をもとめて書いているなら、わたしの方だってことばの自由をもとめて読んでかまわないのだ。わがままな読者である私はそう思う。
ごく普通に(国語の教科書や入試の問題を解くように)読めば、1行目は2行目の「虫」を修飾している。しかし、私は、それを「わたし」そのもののありようを示していることばとして読みたい。1行目が、「わたし」の状態をしめしていることばとして読まれたがっていると感じてしまう。
そして思うのだ。よし、読んでやろう。「身体の中が幾何学の模様で溢れている」人間がここにいて、その身体の中の幾何学的な模様をなんとか肉体の外に出したいと欲望している人間のことばが次々に溢れてくる--そういう感じで詩を読んでやろう、と思う。肉体の中の幾何学的な模様が機織虫に犯されることで、どんな化学反応を起こし、一枚の布に変わっていくのか、読んでやろう、と思うのである。
北川の詩に(そのことばの意図に)反するように、北川の書こうとしたことではなく、そこにあることばを、北川の思いとは無関係な方へ動かしてやろう、と思う。
2連目。
そうでなければ産む気になれないもの。
すぐに解読されるあんな単純な文字ではだめなの。
あんな小さな耳、あんな狭い通路はいやなの。
体温も色彩も凹凸も知らない鈍感な触覚、
あんな粗雑な人形の容器には、もう飽きたの。
こういう欲望が起きるのは、「身体の中が幾何学的な模様で溢れている」人間しか持てないだろう。たとえ「身体の中が幾何学的な模様で溢れている、」という1行が虫を修飾することばであったとしても、そういうことばが生まれてくるのは、そのことばに匹敵するだけの肉体を持っている肉体でなければならない。拮抗するもの、拮抗しうるものだけが、その1行を受け入れることができるのである。そして、受け入れながら、自分を変えていくことができるのである。
1連目にでてきた「犯されたい」は被虐的な欲望ではない。むしろ、攻撃的な受け入れである。受け入れながら、受け入れることで、戦いがはじまる。「犯される」ふりをして、あるいは「犯される」ことを利用して、相手を犯すのだ。とんでもないものを、つまり「犯した」相手が想像もしていなかったものを生み出し、それを相手につきつけるよろこび--そういうものを感じながら「犯される」夢を見ているのである。
ここに書かれているのは「産みたい」という欲望である。「幾何学的な模様」を違ったものにして(自分自身さえも知らないものにして)、産み出したい。そして産み出されたものが、新しく生きるのを見たい。産み出したものが、自分のいのちなのか、それとも自分とは関係なくかってにいきる存在なのか、それを見たいのだ。
「あんな粗雑な人形の容器には、もう飽きたの。」とは、既存のものにうんざりしているという表明である。
人間の形を超越したもの、人間の想像力を超越したもの--ただそういうものになりたいという欲望だけがあるのだ。それは北川の欲望ではなく、北川の肉体を借りてあらわれたことばの欲望なのである。
ことばのなかには、「幾何学模様」が溢れている。それが北川という「機織虫」に犯されて、誰も知らなかった布に、一編の詩におられることを欲望している。北川は一匹の「機織虫」になって、ことばを侵していく。日常の文法を破壊し、ことばの内部へ侵入していく。ことばが「体温も色彩も凹凸も知らない鈍感な触覚、/あんな粗雑な人形の容器には、もう飽きたの。」と叫んでいるのを聞きながら、「何をいってるんだ、ばかやろう、おれがこんな具合におまえの体の中に精液(精神の液体だね、これは)をまき散らして受精させてやる。産んでみろ」と襲いかかる。
ことばはことばで、「そんなところつついたってだめ。そんな浅いところ、そんなほかのひとが切り開いたところをなぞったってだめ」と北川を挑発する。
北川とことばが「わたし」と「機織虫」のふりをして、互いに入れかわりながら、犯し、犯される。セックスをする。その摩擦のなかで、ことばが燃え上がる。だれのものでもないことばが。その瞬間をもとめている。
セックスをどんなに分析したって「意味」が出てこないように、詩も、どんなに分析したって「意味」は出てこないものである。ただ、そこが快感、そこじゃだめ、なぜわからないんだ、ばか、そこじゃない、そこだよ、なん具合に動き回る。そしてそれは見ていても馬鹿馬鹿しいだけである。実際に、そのセックスに闖入して、北川も、ことばも想像もしていなかった(予想していなかった)方向から、勝手にことばを動かすだけである。
「身体の中が幾何学的な模様で溢れている、」は虫を修飾することばではなく、「わたし」そのものの状態、自己認識であると勝手に読み替える。ことばが、そう読まれたがっているから、その欲望を解放してやるのだ、と叫びながら、北川の作品を「犯す」(北川の意図に反して、私自身の欲望をおしつける。欲望をぶちまける)。そうすると、なんといえばいいのだろう。私のなかでことばが動きはじめる。--つまり、いま書いている文章になる。
私の書いていることは、たぶん、多くのひとにとっては「でたらめ」としか感じられないだろうと思う。私は、それでかまわない。私は国語の教科書をつくっているわけでもなければ入試の問題を解いているのでもない。
あることばにふれて、私のなかでことばが動きはじめる。それをただ追いかけている。私のなかで何かになろうとしていることばがある。それを誘い出してくれることばの力との出合いを楽しんでいる。それだけである。
ある人の作品を読む。それに誘われて私のことばが動く。それは一方的な片思いである。そうであっても、そのとき私が変わる。相手のことばによって、自分が自分でなくなる。え、こんなこと書きたかったわけではないのに、書いているうちに、こんなものになってしまった……そういう思いにとらわれる瞬間、私はちょっとうれしくなる。
ことばは確かに自由だと思う。自由になる力をひめいてる、と思うのだ。
北川のことばは、いつでもそういう世界へ誘ってくれる。「誤読」させてくれる巨大なひろがりを持っている。
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