詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則「那魯湾渡暇飯店備忘録」

2008-04-04 11:37:01 | 詩(雑誌・同人誌)
 松岡政則「那魯湾渡暇飯店備忘録(ナロワンリゾートホテルメモ)」(「すてむ」140 、2008年03月25日発行)
 3篇の詩で構成されている「備忘録」であるが、読み終えたあと感想を書くためにタイトルを引用しようとすると「暇」という字が「眼」に見えてしまった。「渡暇」と書いて「リゾート」というのはなかなかおもしろいと思うが、「渡眼」と書いて「眼を渡らせる」=見渡すという感じに読ませたい。そんな思いに襲われた。それほど「眼」の印象が強い。松岡は「眼」の詩人だ、と思ったのだ。
 最初の1篇「○オーストロネシア語族の移動の中に、」の全行。

(数千年の昔、
(遅れてこの島に這い上がった者らの中にわたしの踝がなかったか。
道端に練炭の欠けらがころがっている。
バス停の前を粟の穂を担いだおんなが通り過ぎる。
ひそまりかえった山奥の社(集落)は、
そのいちいちが眼に良い。

 最終行に「眼」という文字が出てくる。
 この短い詩は「オーストロネシア語族」の集落のスケッチだが、それはすべて「眼」で集められたスケッチである。「ひそまりかえった」という「聴覚」に通うことばもでてくるが、ほんとうに音がないのか、それとも「眼」にすべてが集中しているために「聴覚」が遠慮しているのか、よくわからない。たぶん、「眼」に感覚が集中していて、それを邪魔しないように「聴覚」は、それこそひっそりとひそまりかえっているのだろう。「聴覚」は姿をあらわさないことで、つまり「欠落」することで、視覚と融合している。「欠落」することで「眼」のなかに生きている。そう思えてくる。
 「欠落」と、その「欠落」を通ってどこまでも進んで行く眼、というものを、その視力をふと思うのである。
 2行目の「わたしの踝」は、それがあってほしいというひそかな思い、「欠落」しているものを夢見る力がとらえた美しさだ。「練炭」「粟の穂」は「現代」(松岡の日常)から「欠落」している。集落を「社」と表記する「オーストロネシア語」(?)のなかには「集落」のもっている機能を明確にする何か、集落は社会のひとつであるという意識のようなものが隠れている。「集落」ということばであらわすとき「欠落」するものが隠れている。見かけた風景にも、見かけたことば(見かけた文字、「眼」でしかとらえられないことば)にも、何か「欠落」がひそんでいるのだ。
 そういう「欠落」が全体に響きわたっているからこそ、「練炭の欠けら」ということばもやってくるのだろう。そこに存在すべきなのは「練炭」ではなく、あくまで「練炭の欠けら」なのである。
 「欠片」と書かず「欠けら」と松岡が書いた理由が私にはよくわからないが(私なら欠片」と書いてしまうが、という意味である)、「欠けら」という文字からかは「欠け」の複数(ら)が立ち上がってくるようで、これもとてもおもしろい。
 もっともこれは松岡の「眼」の力、視力に影響されて見てしまった私の幻想かもしれないが。

 「○台北でみた夢、獣の森、」にも「眼」は出てくる。前半を省略して、後半部分。

おんなのあしの、しろいいけないが、
ひえいだいらのやみをながれていく
はこがたのしょいこをきの根かたにたてかけ
男はたびのこまものうりのふうであった
あっ、いぬっ、
こえにならないこえもしどけなくやみをながれていく
あわれんでいるような、
なめまわしているようないっぴきのやまいぬの眼。
そのみじろぎの、もどかしいが、
このわたしだった

 この作品でも「聴覚」は遠慮している。「こえにならないこえ」と、「聴覚」にとらえられることを拒絶して「欠落」を選んでいる。その「欠落」のなかを、ひらがらがうねっていく。そして、このうねりは不思議なことに、ひらがなであることによって、「眼」ではなく「聴覚」を刺激する。ことばは「声」(耳に届いてはじめて形になるもの)となって生き生きと動く。「こえにならないこえ」のように、ほんとうは「声」になって、肉体のなかに生きている。
 「社」(集落)は「眼」を媒介にして「意味」を持ったが、ひらがなのうねりは「眼」を媒介にするだけでは「意味」を持ち得ない。「音」にかわって肉体に入り込み、そこで「意味」としてうごめく。そして、そのうごめきを「眼」は「聞く」のである。
 セックスの描写にはいろいろな方法があるが、これはとても魅力的だ。
 声を殺して(こえにならないこえ、を抱え込んで)、男と女の体がうごめく。そのうごめきを「眼」で見るとき、「眼」は単に体のうごめきを見るのではなく、「眼」で、体のなかにうごめいている「声」を聞いているのだ。
 「眼」と聴覚は、一方が「欠落」することで、逆に強く協同している。「眼」は「眼」を超越し、「耳」は「耳」を超越する。そのために、片方が欠落してみせるのである。「眼」だけが世界をとらえているふりをしながら、その奥でしっかりと手を結び合っている感覚--その複合。それが美しく形になっている。
 とても魅力的な作品だ。



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草の人
松岡 政則
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