詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日原正彦「傘」

2008-04-21 02:06:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 日原正彦「傘」(「SPACE」79、2008年05月01日発行)
 日原正彦の詩は気持ちが悪い。こう書くと日原正彦は怒る。だが、なぜ怒られるのか私にはわからない。日原正彦の詩の本質は、私が気持ち悪いと感じるところにある。気持ち悪くない部分は詩になっていない。
 気持ち悪さは、「傘」の場合、1、2連目にある。

バスから降りて
女は とても小さな傘をひらいた
すましたお椀を かぶせたような
濡れないためにではなく
おしゃれに 濡れるためにあるような 傘

ねえ
少しだけ降ってくれない?
と 媚びる声のようにももいろにひらいた 傘

 「とても」が気持ち悪い。「すました」が気持ち悪い。「お椀」の「お」が気持ち悪い。「すましたお椀を かぶせたような」の1字空きが特に気持ち悪い。こんなに気持ちの悪い1字空きを書ける詩人がほかにいるとは、私には想像できない。「おしゃれに 濡れるためにあるような 傘」の繰り返される1字空き。繰り返されることで強調される、その呼吸。2連目に「媚びる」(媚び)ということばが出てくるが、日原の気持ち悪さは、まさしく「媚び」の気持ち悪さだ。それも「呼吸」で媚びる気持ち悪さである。
 日原の詩を読むまでは、私は「媚び」というものがなんであるかよくわからなかった。日原の詩を読んで、「媚び」とは「呼吸」であることを知った。
 ひとは何かを強調するとき、一瞬「呼吸」を変える。
 それまでの「呼吸」とは違った「呼吸」をする。1字空きのように、何気ないけれど、微妙な「ずれ」、「ずれ」のなかにある「接近」の感触--そこに、「ねえ」というような感じをこめる。
 この1字空き、あるいは「ねえ」というすりよりは、「意味」の上からはあってもなくても同じである。ただ「意味」を超越した「感情」にはとても重要なものである。「感情」は、そしてこのとき、ほとんど「肉体」と同じである。私は日原の「呼吸」、たとえば「1字空き」に日原の体温の接近、「肉体」の接近を感じ、わっ、気持ち悪い、よしてくれ、という反応が起きるのである。
 「媚び」であるから、それを快感に感じるひともいると思う。たぶん日原のまわりには「媚び」を快感に感じるというか、「媚び」をことばの潤滑油のようにしているひとがたくさんいるのだろう。そういうひとからみれば、私のように、日原のことばの「呼吸」が気持ちが悪いという批評は、怒りの対象になるだろう。こんなに気持ちがいいのに、気持ちが悪いと否定するのは許せない。そう思うのだろう。それは仕方がない。私はもちろん日原たちから見れば私の感想が不当なものであるという声が返ってくることは知っている。知っていて、書いている。それでも実際に、日原から「気持ち悪い、気持ち悪いと書くな」と言われたときはびっくりした。えっ、日原は、たとえば日原のことばは快感であるというような反応があると思って書いているのかい? そう思って、私はびっくりしたのである。私のような感想しか書かない人間から「気持ち悪い」ということばが返ってくるのは承知のことではないのか。日原の「呼吸」を気持ち悪いと思うひとがひとりもいないと思って日原はことばを書いてるのか、と私は驚くのである。

 この詩は、しかし、気持ち悪いのは1、2連目までである。あとは気持ち悪くない。つまり、詩になっていない。
 最後の2連。

そんなふうに
ちょっとだけかたむけて
ちょっとだけぬれて

ちょっとだけ生きて
なんて ふりだけして
歩くな

 「なんて ふりだけして」にも1字空きがあるが、これはほとんど「媚び」を失っている。見え透いている。「媚び」というのは見え透いてこそ「媚び」だとは思うけれど、いまさら何をやっているんだという気がする。気持ち悪くないのである。1、2連目で「濡れて」と漢字で書いていて、漢字で書いても「媚び」があったのに、ここでは「ぬれて」と「ひらがな」で書いても「媚び」がない。「肉体」がない。「呼吸」がない。「意味」しかない。
 とても、つまらない。

 「媚び」は気持ち悪い。しかし、その「媚び」を1篇の詩をとおして維持するなら、それは気持ち悪さを突き抜ける。一個の明確な肉体そのものになる。そこまで達したら、気持ち悪い、でも、好き、という感じに変わるかもしれない。ときどき、日原はそういう作品を書く。今回の作品は、そこまで達していない。





詩集 遠いあいさつ
日原 正彦
土曜美術社出版販売

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