石井久美子『幸せのありか れお君といっしょに』(編集工房ノア、2008年04月01日発行)
「現代詩」とは別の世界の詩である。ことばに対して批評がない。そのかわりに、ことばが現実を批評してくる。こどもの視点が、こういう作品には有効である。こどものことばは無意識に現実を批評する。それはつまり、現実(日常)の生活のなかで私たちのことばが凝り固まっていることへの批判である。私たちはそのことばを通して、自分の視点(ことばの動き)がどれほど窮屈なものであるかを知らされる。知らず知らずのうちに窮屈な世界へ入り込んでいたかを知らされる。
「ゴムの跡」の全行。
石井は「あっ そうか/そういうことなんだ」と、すなおに自分のことばと、こどものことばの違いを見つめている。母親はズボンのゴムがきつくなればゴムを緩めなければと考える。これが大人の世界に「流通している意味」である。こどもは逆に考える。ゴムを緩めるということには気が回らない。きつくなったのは自分のからだが大きくなったからだとだけ考える。
このずれ。
詩は、確かにさまざまな「ずれ」のなかにある。
単純な話、たとえば恋人の笑顔を薔薇の花にたとえる。恋人の笑顔と薔薇は同一のものではない。比喩は「ずれ」があるからこそ、「比喩」である。そこには意識の飛躍があり、意識が飛躍するとき、詩が生まれる。
詩とは、意識された意識の飛躍である。「わざと」引き起こされた意識の飛躍である。
石井の詩が「現代詩」ではない、というのは、その飛躍が「わざと」引き起こされたものではないからだ。こどもによって、偶然引き起こされたものだからである。
こういう作品に、もし危険があるとしたら、そこからことばへの信頼が拡大しすぎることである。ことばに対して疑問を持たなくなってしまうことである。ことばは真実をつたえる、ことばは純粋なこころをつたえる--そういう面だけが強調されてしまうことである。
「確かな目」の全行。
確かに、そういうことばを聞けば、母として嬉しくなるだろう。この嬉しさは実感であり、また、石井の自信でもあると思う。それはそれでいいのだが、これを詩として提出するのは、「よいこ」の押しつけのようなものである。
こういう作品に触れて感じる疑問は、あ、こどもにとても大きな負担をかけているのではないか、ということである。どんなうふに言えば、親は(母親は、おとなは)喜んでくれるか、こういうことをこどもは無意識に判断する。そして、それにあわせるようなかたちで、「わざと」そういうことを言うようになる。
この「わざと」は、おとなが詩を書くときの「わざと」ではない。同じことばをつかうから、誤解されそうだが、私はあえて同じことばをつかって書いている。おとなの、文学の「わざと」と、こどもの親の歓心をよぶための「わざと」は違う。文学の「わざと」は精神の技巧である、精神が錯乱するよろこびのための方法である。こどもの「わざと」は他人の精神(自分の精神も含む)が暴走して、とんでもないものをみてしまうことを楽しむためのものではない。ただ自己の利益だけをもとめるものである。
これでは、ちょっと困る。
あえて言えば(たぶん、石井に対してはだれもそんなことを言わないと思うので、ここに書いておくが)、こどもの無意識(あるいは、批評をくぐり抜けていない意識、自己批判をくぐり抜けていない意識)を尊重しすぎてはいけないと、私は思う。
こどもの純真なこころは美しい。しかし、それは世界には美しいものだけが存在するのではない、美しくないものとも向き合って生きていかなければならないときがある、ということを自覚した上で、あえて美しいものを選択するということではないと、ほんとうに美しいとは言えないのではないか。
こどもの「わざと」には、おとなの「わざと」の批判が欠けている。批判がないとき、それは、実は信頼できないものである。こどもを信じきっている石井に対してこういうことを書くのは申し訳ないが、私は「確かな目」に書かれていることを、石井ほどには「確か」とは信じないのである。
「ゴムの跡」と「確かな目」を比較すると、何が違うか。
石井自身が書いていることだが、「ゴムの跡」では、意識は「あっ そうか」とことばをもらしている。それは、石井はこどもの視点に気がつかなかった、こどもによってあることがらを教えられたという驚きの表明である。こういう驚きをもたらすものは信じてもいい。そこにはこども自信の「発見」がある。
ところが「確かな目」には発見がない。こどもはおとなが期待していることをことばでなぞっているだけである。石井はこどものことばを聞いて「あっ そうか」と思わない。そのかわりに「あっ このこはこんなに立派になったんだ」と満足し、嬉しくなっている。その嬉しさ、満足は、こどもが石井の「理想」に合致しているという嬉しさ、満足であり、そこにたとえ驚きがあったとしても、それは最初からもとめていた驚きである。
こどもが「発見」したものを、あとから石井が「発見」しているのではなく、石井が「発見」したものを、こどもがなぞっている。
--その違いを理解していないと、きっとこの詩集は、こどもにとって負担になる。「いいこ」でいることが、やがて負担になる。
こどもにとって、あのときおまえはこんなにいいこだったのに、と言われることほどつらいことはない。一方、おまえはあのとき、あんなばかなことをした、と言われる方が気楽である。「恥ずかしいから(みっともないから)友達には言わないでよ」というようなことをいって親子喧嘩をする方が精神衛生上、とってもいいものである。「恥ずかしいから(みっともないから)」という抵抗の底には、人間としての成長がある。自己批評がある。
「現代詩」とは別の世界の詩である。ことばに対して批評がない。そのかわりに、ことばが現実を批評してくる。こどもの視点が、こういう作品には有効である。こどものことばは無意識に現実を批評する。それはつまり、現実(日常)の生活のなかで私たちのことばが凝り固まっていることへの批判である。私たちはそのことばを通して、自分の視点(ことばの動き)がどれほど窮屈なものであるかを知らされる。知らず知らずのうちに窮屈な世界へ入り込んでいたかを知らされる。
「ゴムの跡」の全行。
「ズボンのゴムの跡がついたよ」
ニコニコと嬉しそうな れお君
「大きくなったのかな」
あっ そうか
そう言うことなんだ
「でもお風呂に入ると
跡が消えちゃうんだよなぁ」
大きくなった証を
いとおしくさわっています
石井は「あっ そうか/そういうことなんだ」と、すなおに自分のことばと、こどものことばの違いを見つめている。母親はズボンのゴムがきつくなればゴムを緩めなければと考える。これが大人の世界に「流通している意味」である。こどもは逆に考える。ゴムを緩めるということには気が回らない。きつくなったのは自分のからだが大きくなったからだとだけ考える。
このずれ。
詩は、確かにさまざまな「ずれ」のなかにある。
単純な話、たとえば恋人の笑顔を薔薇の花にたとえる。恋人の笑顔と薔薇は同一のものではない。比喩は「ずれ」があるからこそ、「比喩」である。そこには意識の飛躍があり、意識が飛躍するとき、詩が生まれる。
詩とは、意識された意識の飛躍である。「わざと」引き起こされた意識の飛躍である。
石井の詩が「現代詩」ではない、というのは、その飛躍が「わざと」引き起こされたものではないからだ。こどもによって、偶然引き起こされたものだからである。
こういう作品に、もし危険があるとしたら、そこからことばへの信頼が拡大しすぎることである。ことばに対して疑問を持たなくなってしまうことである。ことばは真実をつたえる、ことばは純粋なこころをつたえる--そういう面だけが強調されてしまうことである。
「確かな目」の全行。
ラーメン屋さんで
「ここの店はいい店だね」
「なんで?」
「車イスの人が来てるよ」
君の目の確かな部分を
また見つける
母として
嬉しくなる
確かに、そういうことばを聞けば、母として嬉しくなるだろう。この嬉しさは実感であり、また、石井の自信でもあると思う。それはそれでいいのだが、これを詩として提出するのは、「よいこ」の押しつけのようなものである。
こういう作品に触れて感じる疑問は、あ、こどもにとても大きな負担をかけているのではないか、ということである。どんなうふに言えば、親は(母親は、おとなは)喜んでくれるか、こういうことをこどもは無意識に判断する。そして、それにあわせるようなかたちで、「わざと」そういうことを言うようになる。
この「わざと」は、おとなが詩を書くときの「わざと」ではない。同じことばをつかうから、誤解されそうだが、私はあえて同じことばをつかって書いている。おとなの、文学の「わざと」と、こどもの親の歓心をよぶための「わざと」は違う。文学の「わざと」は精神の技巧である、精神が錯乱するよろこびのための方法である。こどもの「わざと」は他人の精神(自分の精神も含む)が暴走して、とんでもないものをみてしまうことを楽しむためのものではない。ただ自己の利益だけをもとめるものである。
これでは、ちょっと困る。
あえて言えば(たぶん、石井に対してはだれもそんなことを言わないと思うので、ここに書いておくが)、こどもの無意識(あるいは、批評をくぐり抜けていない意識、自己批判をくぐり抜けていない意識)を尊重しすぎてはいけないと、私は思う。
こどもの純真なこころは美しい。しかし、それは世界には美しいものだけが存在するのではない、美しくないものとも向き合って生きていかなければならないときがある、ということを自覚した上で、あえて美しいものを選択するということではないと、ほんとうに美しいとは言えないのではないか。
こどもの「わざと」には、おとなの「わざと」の批判が欠けている。批判がないとき、それは、実は信頼できないものである。こどもを信じきっている石井に対してこういうことを書くのは申し訳ないが、私は「確かな目」に書かれていることを、石井ほどには「確か」とは信じないのである。
「ゴムの跡」と「確かな目」を比較すると、何が違うか。
石井自身が書いていることだが、「ゴムの跡」では、意識は「あっ そうか」とことばをもらしている。それは、石井はこどもの視点に気がつかなかった、こどもによってあることがらを教えられたという驚きの表明である。こういう驚きをもたらすものは信じてもいい。そこにはこども自信の「発見」がある。
ところが「確かな目」には発見がない。こどもはおとなが期待していることをことばでなぞっているだけである。石井はこどものことばを聞いて「あっ そうか」と思わない。そのかわりに「あっ このこはこんなに立派になったんだ」と満足し、嬉しくなっている。その嬉しさ、満足は、こどもが石井の「理想」に合致しているという嬉しさ、満足であり、そこにたとえ驚きがあったとしても、それは最初からもとめていた驚きである。
こどもが「発見」したものを、あとから石井が「発見」しているのではなく、石井が「発見」したものを、こどもがなぞっている。
--その違いを理解していないと、きっとこの詩集は、こどもにとって負担になる。「いいこ」でいることが、やがて負担になる。
こどもにとって、あのときおまえはこんなにいいこだったのに、と言われることほどつらいことはない。一方、おまえはあのとき、あんなばかなことをした、と言われる方が気楽である。「恥ずかしいから(みっともないから)友達には言わないでよ」というようなことをいって親子喧嘩をする方が精神衛生上、とってもいいものである。「恥ずかしいから(みっともないから)」という抵抗の底には、人間としての成長がある。自己批評がある。