詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「自然光」

2008-04-12 10:43:03 | 詩(雑誌・同人誌)
 岩佐なを「自然光」(「交野が原」64、2008年05月01日発行)
 岩佐なをのことばはどんどん自在になってくる。どこへでも動いてゆく。「自然光」の書き出し。1行目。

青いラジオから異国の鼻唄が流れてくる。

 いきなり「青いラジオ」。いきなり「鼻唄」。「あおい」も「ラジオ」も「鼻唄」も知っているが、こんなふうにことばが結びついて情景を浮かび上がらせるということは思いもしなかった。

青いラジオから異国の鼻唄が流れてくる。
さぁ、
また背骨をタテにのばして
次の生きる準備をしなくてはいけない。

 2行目の「さぁ、」もいい。何が「さぁ、」なんだ。といいたいけれど、これは岩佐にしても同じだろう。「さぁ、」と1行目を断ち切るしかないのである。1行目を断ち切って、「過去」(現在につづいている意味の連続)を断ち切る。そうすることで、どこへでもゆくのだ。「さぁ、」の読点「、」は、その踏み切り台である。ここから、跳ぶのだ。加速するのだ。
 「また背骨をタテにのばして」の「また」がなつかしい。過去を断ち切りながら、それでも過去をひきずる。そして、「背骨をタテにのばす」という、関節をはずしたような日本語のおかしさ。書いてあることばの意味はもちろんわかる。わかるけれど、ほら、こんなふうに日常では言わないでしょ? ここには「わざと」がひそんでいる。その「わざと」こそが詩である。
 「わざと」で弾みをつけて、岩佐は、ほんとうにどんどんどこへでもゆく。


午前中のきぼうは両手のひらの上で
光のマリになっている。
むぎゅっとむすんでつよく輝くタマにすることも
ひきのばしてまばゆいイタにすることもできる。
その日その日の占いがちがうように
きぼうの形も毎日かわる。
窓から向かいの学校の赤レンガ塀がみえる。
近くに行けば地域のみのむしたちが
陽にあたろうと塀に垂れ下がっている姿を
見ることができる。
が、けっして竹ぼうきで掃い落としてはいけない。
縁側で日向ぼっこをしているばあちゃんを
いきなり庭に突き落としてはいけない、
のと同じ。

 ほら、だんだん何が書いてあるかわからなくなるでしょ? 予測がつかなくなるでしょ? ことばにはことばの論理があって、どうしても論理を含んで(論理にしばられて)しまう。予測された方向へ動いて行くものである。しかし、岩佐のことばは、そういう予測を振り切って自在である。
 そして、どの行も音が不思議である。「近くに行けば地域のみのむしたちが」の「ち」の繰り返し、「ち」のなかに存在している「い」のうねり。意味から自在になって、音楽と融合するのである。これは、恍惚と融合する、というのに等しい。音楽のなかで、感覚が溶け合って、意味(理性)からするりと精神が抜け出す。
 自在というしかない。

 途中を省略して、最期の部分。

青いラジオを消し
机上の部屋も淋しくなって
陽のぬくもりも徐々にあわく。
竹ぼうきを携えて
みのむしを見に行くつもり。

 なぜ、「竹ぼうきを携えて」? 「竹ぼうきで掃い落としてはいけない」のではなかった?
 これは、矛盾ではない。
 これは、自在な変化なのである。「竹ぼうきで掃い落としてはいけない」というのは、それを書いた時点での思いであって、ことばを書いているうちに気持ちも「自在に」かわるのだ。(こういうとき、普通は「自在」ということばはつかわないが。)
 そして、この変化こそ、詩なのである。ことばを書いているうちに、書いているひとが書いていることからさえも自由になり、変化してしまう。自分が自分でなくなってしまう。そういうことばを手に入れてしまう。それが詩だ。
 この不思議な変化の直前の「陽のぬくもりも徐々にあわく。」の句点「。」は2行目「さぁ、」の読点「、」と呼応し合っている。「さぁ、」の読点「、」が踏み切り台だとすれば、「あわく。」の句点「。」は飛び込み台か、発射台である。



 この詩には、この詩のことばには、もうひとつ、とても不思議なことがある。私だけか感じている不思議かもしれない。ほかのひとが感じるかどうかわからない。岩佐が狙って書いたのかどうかもはっきりしない。

きぼうの形も毎日かわる。

 この行の「きぼう」が私には「ほうき」の音の入れ換えに思えるのである。実際、音を入れ換えれば「ほうき」「きぼう」は区別がつかない。(私はもともとことばの音のいれかえ、文字のいれかえにとても弱くて、しょっちゅう区別がつかなくなる。読み間違える。書き間違える。ワープロで「という」と打とうとして「とうい」となってしまうことなど頻繁に起きる。)
 「きぼう」が毎日かわるように、「竹ぼうき」のつかい方も毎日変わる。すばやくかわる。みのむしを掃い落としてはいけないのだが、実は掃い落とすためにこそつかわれる。この詩には書かれていないけれど、竹ぼうきを携えて行けば、みのむしを掃い落とすしかないのである。
 みのむしを掃い落としてはいけない、というのが「現実」なら、掃い落とすのは「希望」である。夢である。してはいけないからこそ、人間は、それをしてしまう。してはいけないことをするのは楽しい。「自在」になった気分である。

 こういう楽しさを、岩佐は、ことばで実現している。




岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
岩佐 なを
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