詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ハスチョロー監督「胡同の理髪師」

2008-04-29 22:38:06 | 映画
監督 ハスチョロー 出演 チン・クイ、チャン・ヤオシン

 胡同に住む90歳を超した理髪師の日常を淡々と描いている。三輪自転車に乗って、出前の理髪へ行く。友達と麻雀をする。それだけの映画であるが、細部が非常に美しい。日常の積み重ねが美しい。「長江哀歌」には日常の美しさ、古びることの美しさが、古びることのできる「時間」の存在に視点をあてることでくっきりと、そしてていねいにていねいに描かれていたが、この作品にも通じる。
 髪を切り、髭を剃る。その日常。必ず繰り返さなければならないことではあるけれど、ほんとうは繰り返さなくてもいい。繰り返さなくても生きて行ける。髪を切らなくても、髭を剃らなくても人間は死ぬことはない。ただし、繰り返さないとみっともない姿になる。髪は乱れ、髭は生え放題になる。髪を切り、髭を剃るという日常が繰り返されることで、自然に顔に美しさが定着する。理髪師は、その繰り返しと、繰り返しがつみあげる美しさを象徴する。
 理髪師自身もていねいに日常を繰り返す。朝起きると、時計の時間を合わせる。洗った入れ歯をつける。髪をととのえる。理髪の予約があれば理髪に出かける。そして世間話をする。麻雀をする。世間話をする。帰って来て、眠る。眠る前には時計のネジを巻く。それが繰り返される。
 90歳を超しているから、理髪する相手(なじみの客、友人)も高齢者である。麻雀仲間も高齢者である。話題はどうしたって「死」が中心である。客のひとりは死に、その遺体を主人公が発見するということも描かれている。「死」も繰り返される日常なのである。日常として主人公は受け入れている。それが日常であるからこそ、日常の美しさをそのまま維持したいと願っている。
 この「思想」は美しい。淡々としていて、美しい。
 そして、淡々としているものは、ただ淡々としているだけでも美しいが、その淡々が破れるとき、さらに美しくなる。淡々を破って、命が輝きだすのである。淡々のなかに、命が存在しているということが、ふいにあきらかになり、輝きだすのである。人間のユーモアが、いきていることおかしみがあふれるのである。
 映画の後半、主人公が仲間との交流ではなく、ひとりだけ描かれるシーンがとても美しい。おかしみ、ユーモアにあふれている。
 死を意識し、死の準備をする。(生きるということは死の稽古である、といったのはソクラテスであるけれど、ほんとうにそんな感じがする。主人公はソクラテス、プラトンとは違った形で、そのことを語っている。)葬儀屋に何を準備すればいいかをたずねる。これに対して葬儀屋が「ただいま特別お試し期間である」というお断り付きで延々と説明するのだが、この「特別お試し期間」に思わず笑ってしまうが、その指示にしたがって「葬儀」の準備をする主人公の姿にはほんとうにひきつけられ、笑わされ、命の不思議さを感じる。
 主人公は葬儀屋の指示に従って「 500字」の「経歴」を語りはじめる。生年月日からはじまり、なぜ理髪師になったか。語りながら、「 500字になったか」と自問したりする。「 500字で何が語れるか」と自問する。おのずと、その自問は、自分自身の細部へとはいってゆく。彼自身が体験したこと、そこから何を学んだかということを語りはじめる。軍隊時代、上官の理髪を頼まれ、誤って眉を剃り落としたこと。その上官が、そういう不手際を許して主人公を受け入れてくれたこと。そのことから、人間というのは他人を受け入れていくことが生きることなのだ、成長することなのだと学んだというようなことが語られる。淡々と。しかし、そこに淡々を突き破っていく「ひとりの人間」が見えてくる。それがとても美しい。「ひとりの人間」の「実感」が美しい。淡々が「実感」にまでたどりつく、その瞬間に命が輝き、美しい。
 そして、そんなふうに突然「ひとりの人間」そのものが淡々を突き破ってあふれはじめると、それは自然と、自分自身を超えていく。ほかのことまで意識がひろがってゆく。「ひとり」ではなく、愛が、愛がつくりだす命が、それにつらなってあふれてくる。妻の話をしはじめる。子供の話をしはじめる。息子は……、息子は自分と違ってだらしない(?)、自分には似たところがない、なぜ息子はあんなふうなのだろうか……。嘆きであり、心配である。心配は、愛情の裏返しの表現である。そして、そんな嘆きを口にして、自分のことを、自分の略歴を 500字で語らねばならないのに、なぜ息子の話なんか……と思い、語ることをやめてしまう。
 これが人間の生きている「意味」なのだ。「思想」なのだ。
 ひとの命は自分からはじまる。そしてその自分のまわりにはいくつもの命との出会いがあり、ついつい自分ではない命のことにまで「思い」が行ってしまう。動いて行ってしまう。その「思い」が積み重なって人間そのものをつくって行く。

 胡同--その古い街。何軒かの家が中庭(?)を囲んで寄り添う。そこに必然的に出会いがあり、出会いがつくりだす「人情」がある。それは複雑にというか、細部へ細部へと入り組んで行く。胡同そのものが人生なのである。入り組んだ路地--それを見つめるだけでは路地でしかない。しっかりと内部を隠した街の家並みでしかない。しかし、その同じような家、門、そのなかには命がある。そして、それがほんとうは路地の入り組みを、その壁を、他人を隔てながら同時に接し、受け入れている「命の形」なのである。胡同の構造そのものが、実は人生なのである。

 この映画には、もうひとつ、とても興味深いエピソードがある。主人公の時計は毎日5分遅れる。主人公は時計屋へ修理に持っていく。それに対して店長は言う。「5分遅れるなら、毎日5分進めればいい。修理して、その修理がもとで動かなくなってしまったら困る。」これは、店長の責任回避のことばのようにも聞こえる。実際、動かなくなって、苦情を言われても困る、ということなのかもしれない。しかし、胡同そのものを象徴することば、老人そのものを象徴することばのようにも聞こえる。
 5分遅れる--そのことがわかっているなら、それにあわせて対処すればいい。なにかが起きる。そのなにかに対してなにかできることがあるなら、そのできることをすればいい。そうやって生きて行ける。人間にはそういう命の力がある。
 ラストシーン。自分の命が長くはないということを自覚した主人公は、日課にしている眠る前の時計のねじ巻きをやめる。朝、時計は止まってしまう。まるで主人公が死んでしまったかのように。そういう静けさが一瞬描かれる。ところが主人公は生きている。息子がやってきて「曾孫が生まれた」と告げる。この命のリレーが語られ、カメラはひっそりと胡同の路地そのものに切り替わり、映画が終わる。時計を毎日5分進める--そういうふうにして主人公は自分自身を生活をととのえてきた、他人と調和させてきた。しかし、死を自覚したときから、他人にあわせることをやめて、自分自身の命のリズムそのものに身を任せ、命のリズムを受け入れる、その命のリズムそのものを胡同の街は抱きしめて存在している、ということだろう。そう思った。


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管啓次郎「Agendars」

2008-04-29 10:50:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 管啓次郎「Agendars」(「たまや」04、2008年05月12日発行)
 私は不勉強なので管啓次郎の詩をこれまで読んだことがない。(読んでいるかもしれないが、記憶にない。)読んだことのない詩人の詩というのはいつも新鮮である。「Agendars」は6のパーツから成り立っている。最初に読んだ「Ⅰ」がとても新鮮だ。

この部屋を工房とするときが来た

 この書き出しに管のすべてがある、と1行目を読んだ瞬間から感じた。1行目を読む、とはいっても、1行目を読むときはすでに視界のどこかには2行目、3行目、それから1行目の前の空白も入ってきており、そういう視界のなかで「とき」ということばがひときわ強く響いてくる。「とき」はそのまわりにあるものの中心にある。あ、管は「とき」というものそのものを書こうとしていることが、どきりとするほど強く響いてくる。「か行」「た行」がゆらぐ1行の音のなかで「時」ではなく「とき」のまま強く強く響いてくる。
 「時」ではなく「とき」なのは、「とき」を管は描くのだが、その「とき」がまだ「時」にまで結晶化していない--なにか、まだ手さぐりな状態、生の部分をたくさん抱え込んでいるからであろう。そういう予感(?)のようなものが、書き出しの1行のなかにつまっている。
 こういう1行があれば、あとはただことばが自然に動いていく。管は自然にではないというかもしれないが、ひとりの読者から見れば、作者の苦労などは、それが膨大であればあるほど苦労には見えない。偉大な画家の絵も、彫刻家の彫刻も、作曲家の音楽も、それが完成されていればいるほど、それが「自然」に、まるで何の苦労もなく完成されていると感じるのに似ている。

この部屋を工房とするときが来た
制作するのは水のない果実
輪郭は星座のごとく破線によって与えられ
ながらかな斜面となって海に落ちるだろう

 管は彫刻家なのかもしれない。「水のない果実」とは彫刻のことかもしれない。そのなかに「星座」(宇宙)の運動がある。そして、それは「海」という私たちのなつかしい現実とパラレルな世界である。「水のない果実」の「水」は「海」へとかえり、「水」そのものを「水」のないはずの「果実」(彫刻)のなかにたたえる。完成した彫刻は、素材にもよるがそれが金属でできたものであれば「水」をふくまない。しかし、私たちはそれが完璧な作品であるとき、その内部に「水」を感じる。そこに存在しないはずのものが、そこに存在する。--それが芸術である。そして、その存在しないはずのものを存在させるのが「とき」なのだ。「とき」のなかを駆けめぐる運動(宇宙の運動そのもの)が、運動としての「水」を浮かび上がらせる。「運動」の「場」が「とき」なのである。
 ことばはどこまでも飛躍する。障害物のない、宇宙という巨大な空間をかけめぐり、その運動の軌跡そのものを「とき」という「場」にかえていく。「とき」と「場」が重なり合い、そこに「精神」が誕生する。この「精神」は「感情」と置き換えてもいい。何と置き換えてもいい。

この部屋を工房とするときが来た
制作するのは水のない果実
輪郭は星座のごとく破線によって与えられ
ながらかな斜面となって海に落ちるだろう
その自由な調律、重なり合う爪跡
遠ざかる塔の陰に跳ぶ三羽の軽い鳥
この世でいくつの帝国が衰亡を繰り返そうと
ひとつだけ望みの共和国があればきみにはそれでいい
それは雪をサトウカエデの本質として見抜く土地だ

 ことばからことばへ。巨大な飛躍がある。その巨大を一気に埋める運動のスピード。スピードのなかの緩急。不思議なことに、スピードは速いだけでは早くない。つまずき、あるいはゆるい部分があって速くなる。
 たとえば「遠ざかる塔の陰に跳ぶ三羽の軽い鳥」の「塔」は私には雑音に響くけれど、その雑音が「遠ざかる」「跳ぶ」「鳥」という音のなかで、不思議な低音として響く。ほかのことばのゆらぎを引き締める。「軽い鳥」の「軽い」というゆるさは、そのゆらぎを一気に引き受けている。まるで、これ以外にことばの動きようがない、という感じがする。
 「ひとつだけ望みの共和国があればきみにはそれでいい」のなかの「い」という母音の響きは、その前の行の「この世でいくつの帝国が衰亡を繰り返そうと」の「いくつの」の「い」から始まっている。
 そういう「音」とともに(あるいは音にささえられた運動によって)イメージは華やかに散らばる。散らばることで宇宙になる。星が散らばることで宇宙になるように。そして、その「散らばり」こそが「とき」なのだ。「とき」はどこへでも「散らばってゆく」。拡散してゆく。拡散しながら、その拡散をささえるブラックホールとして存在する。拡散のなかに求心があるのだ。
 私の書いていること、拡散と求心が同時にあるということは、厳密に言えば「矛盾」なのかもしれない。拡散か求心かどちらかひとつが存在する、というのが論理的なのかもしれないが、そういう論理を超えて存在するものがある。それが「詩」である、と定義すれば、ここにはまさしく詩そのものがあることになる。
 これは、おもしろい。管の詩は、おもしろい。

 「Ⅰ」には、私が引用していない行がまだ半分ほど残っている。「Ⅰ」から「Ⅵ」まで全部引用すれば膨大な行になる。残りは「たまや」を読んでください。そして、興奮してください。「とき」そのものに出会ってみてください。

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