監督 ハスチョロー 出演 チン・クイ、チャン・ヤオシン
胡同に住む90歳を超した理髪師の日常を淡々と描いている。三輪自転車に乗って、出前の理髪へ行く。友達と麻雀をする。それだけの映画であるが、細部が非常に美しい。日常の積み重ねが美しい。「長江哀歌」には日常の美しさ、古びることの美しさが、古びることのできる「時間」の存在に視点をあてることでくっきりと、そしてていねいにていねいに描かれていたが、この作品にも通じる。
髪を切り、髭を剃る。その日常。必ず繰り返さなければならないことではあるけれど、ほんとうは繰り返さなくてもいい。繰り返さなくても生きて行ける。髪を切らなくても、髭を剃らなくても人間は死ぬことはない。ただし、繰り返さないとみっともない姿になる。髪は乱れ、髭は生え放題になる。髪を切り、髭を剃るという日常が繰り返されることで、自然に顔に美しさが定着する。理髪師は、その繰り返しと、繰り返しがつみあげる美しさを象徴する。
理髪師自身もていねいに日常を繰り返す。朝起きると、時計の時間を合わせる。洗った入れ歯をつける。髪をととのえる。理髪の予約があれば理髪に出かける。そして世間話をする。麻雀をする。世間話をする。帰って来て、眠る。眠る前には時計のネジを巻く。それが繰り返される。
90歳を超しているから、理髪する相手(なじみの客、友人)も高齢者である。麻雀仲間も高齢者である。話題はどうしたって「死」が中心である。客のひとりは死に、その遺体を主人公が発見するということも描かれている。「死」も繰り返される日常なのである。日常として主人公は受け入れている。それが日常であるからこそ、日常の美しさをそのまま維持したいと願っている。
この「思想」は美しい。淡々としていて、美しい。
そして、淡々としているものは、ただ淡々としているだけでも美しいが、その淡々が破れるとき、さらに美しくなる。淡々を破って、命が輝きだすのである。淡々のなかに、命が存在しているということが、ふいにあきらかになり、輝きだすのである。人間のユーモアが、いきていることおかしみがあふれるのである。
映画の後半、主人公が仲間との交流ではなく、ひとりだけ描かれるシーンがとても美しい。おかしみ、ユーモアにあふれている。
死を意識し、死の準備をする。(生きるということは死の稽古である、といったのはソクラテスであるけれど、ほんとうにそんな感じがする。主人公はソクラテス、プラトンとは違った形で、そのことを語っている。)葬儀屋に何を準備すればいいかをたずねる。これに対して葬儀屋が「ただいま特別お試し期間である」というお断り付きで延々と説明するのだが、この「特別お試し期間」に思わず笑ってしまうが、その指示にしたがって「葬儀」の準備をする主人公の姿にはほんとうにひきつけられ、笑わされ、命の不思議さを感じる。
主人公は葬儀屋の指示に従って「 500字」の「経歴」を語りはじめる。生年月日からはじまり、なぜ理髪師になったか。語りながら、「 500字になったか」と自問したりする。「 500字で何が語れるか」と自問する。おのずと、その自問は、自分自身の細部へとはいってゆく。彼自身が体験したこと、そこから何を学んだかということを語りはじめる。軍隊時代、上官の理髪を頼まれ、誤って眉を剃り落としたこと。その上官が、そういう不手際を許して主人公を受け入れてくれたこと。そのことから、人間というのは他人を受け入れていくことが生きることなのだ、成長することなのだと学んだというようなことが語られる。淡々と。しかし、そこに淡々を突き破っていく「ひとりの人間」が見えてくる。それがとても美しい。「ひとりの人間」の「実感」が美しい。淡々が「実感」にまでたどりつく、その瞬間に命が輝き、美しい。
そして、そんなふうに突然「ひとりの人間」そのものが淡々を突き破ってあふれはじめると、それは自然と、自分自身を超えていく。ほかのことまで意識がひろがってゆく。「ひとり」ではなく、愛が、愛がつくりだす命が、それにつらなってあふれてくる。妻の話をしはじめる。子供の話をしはじめる。息子は……、息子は自分と違ってだらしない(?)、自分には似たところがない、なぜ息子はあんなふうなのだろうか……。嘆きであり、心配である。心配は、愛情の裏返しの表現である。そして、そんな嘆きを口にして、自分のことを、自分の略歴を 500字で語らねばならないのに、なぜ息子の話なんか……と思い、語ることをやめてしまう。
これが人間の生きている「意味」なのだ。「思想」なのだ。
ひとの命は自分からはじまる。そしてその自分のまわりにはいくつもの命との出会いがあり、ついつい自分ではない命のことにまで「思い」が行ってしまう。動いて行ってしまう。その「思い」が積み重なって人間そのものをつくって行く。
胡同--その古い街。何軒かの家が中庭(?)を囲んで寄り添う。そこに必然的に出会いがあり、出会いがつくりだす「人情」がある。それは複雑にというか、細部へ細部へと入り組んで行く。胡同そのものが人生なのである。入り組んだ路地--それを見つめるだけでは路地でしかない。しっかりと内部を隠した街の家並みでしかない。しかし、その同じような家、門、そのなかには命がある。そして、それがほんとうは路地の入り組みを、その壁を、他人を隔てながら同時に接し、受け入れている「命の形」なのである。胡同の構造そのものが、実は人生なのである。
この映画には、もうひとつ、とても興味深いエピソードがある。主人公の時計は毎日5分遅れる。主人公は時計屋へ修理に持っていく。それに対して店長は言う。「5分遅れるなら、毎日5分進めればいい。修理して、その修理がもとで動かなくなってしまったら困る。」これは、店長の責任回避のことばのようにも聞こえる。実際、動かなくなって、苦情を言われても困る、ということなのかもしれない。しかし、胡同そのものを象徴することば、老人そのものを象徴することばのようにも聞こえる。
5分遅れる--そのことがわかっているなら、それにあわせて対処すればいい。なにかが起きる。そのなにかに対してなにかできることがあるなら、そのできることをすればいい。そうやって生きて行ける。人間にはそういう命の力がある。
ラストシーン。自分の命が長くはないということを自覚した主人公は、日課にしている眠る前の時計のねじ巻きをやめる。朝、時計は止まってしまう。まるで主人公が死んでしまったかのように。そういう静けさが一瞬描かれる。ところが主人公は生きている。息子がやってきて「曾孫が生まれた」と告げる。この命のリレーが語られ、カメラはひっそりと胡同の路地そのものに切り替わり、映画が終わる。時計を毎日5分進める--そういうふうにして主人公は自分自身を生活をととのえてきた、他人と調和させてきた。しかし、死を自覚したときから、他人にあわせることをやめて、自分自身の命のリズムそのものに身を任せ、命のリズムを受け入れる、その命のリズムそのものを胡同の街は抱きしめて存在している、ということだろう。そう思った。
胡同に住む90歳を超した理髪師の日常を淡々と描いている。三輪自転車に乗って、出前の理髪へ行く。友達と麻雀をする。それだけの映画であるが、細部が非常に美しい。日常の積み重ねが美しい。「長江哀歌」には日常の美しさ、古びることの美しさが、古びることのできる「時間」の存在に視点をあてることでくっきりと、そしてていねいにていねいに描かれていたが、この作品にも通じる。
髪を切り、髭を剃る。その日常。必ず繰り返さなければならないことではあるけれど、ほんとうは繰り返さなくてもいい。繰り返さなくても生きて行ける。髪を切らなくても、髭を剃らなくても人間は死ぬことはない。ただし、繰り返さないとみっともない姿になる。髪は乱れ、髭は生え放題になる。髪を切り、髭を剃るという日常が繰り返されることで、自然に顔に美しさが定着する。理髪師は、その繰り返しと、繰り返しがつみあげる美しさを象徴する。
理髪師自身もていねいに日常を繰り返す。朝起きると、時計の時間を合わせる。洗った入れ歯をつける。髪をととのえる。理髪の予約があれば理髪に出かける。そして世間話をする。麻雀をする。世間話をする。帰って来て、眠る。眠る前には時計のネジを巻く。それが繰り返される。
90歳を超しているから、理髪する相手(なじみの客、友人)も高齢者である。麻雀仲間も高齢者である。話題はどうしたって「死」が中心である。客のひとりは死に、その遺体を主人公が発見するということも描かれている。「死」も繰り返される日常なのである。日常として主人公は受け入れている。それが日常であるからこそ、日常の美しさをそのまま維持したいと願っている。
この「思想」は美しい。淡々としていて、美しい。
そして、淡々としているものは、ただ淡々としているだけでも美しいが、その淡々が破れるとき、さらに美しくなる。淡々を破って、命が輝きだすのである。淡々のなかに、命が存在しているということが、ふいにあきらかになり、輝きだすのである。人間のユーモアが、いきていることおかしみがあふれるのである。
映画の後半、主人公が仲間との交流ではなく、ひとりだけ描かれるシーンがとても美しい。おかしみ、ユーモアにあふれている。
死を意識し、死の準備をする。(生きるということは死の稽古である、といったのはソクラテスであるけれど、ほんとうにそんな感じがする。主人公はソクラテス、プラトンとは違った形で、そのことを語っている。)葬儀屋に何を準備すればいいかをたずねる。これに対して葬儀屋が「ただいま特別お試し期間である」というお断り付きで延々と説明するのだが、この「特別お試し期間」に思わず笑ってしまうが、その指示にしたがって「葬儀」の準備をする主人公の姿にはほんとうにひきつけられ、笑わされ、命の不思議さを感じる。
主人公は葬儀屋の指示に従って「 500字」の「経歴」を語りはじめる。生年月日からはじまり、なぜ理髪師になったか。語りながら、「 500字になったか」と自問したりする。「 500字で何が語れるか」と自問する。おのずと、その自問は、自分自身の細部へとはいってゆく。彼自身が体験したこと、そこから何を学んだかということを語りはじめる。軍隊時代、上官の理髪を頼まれ、誤って眉を剃り落としたこと。その上官が、そういう不手際を許して主人公を受け入れてくれたこと。そのことから、人間というのは他人を受け入れていくことが生きることなのだ、成長することなのだと学んだというようなことが語られる。淡々と。しかし、そこに淡々を突き破っていく「ひとりの人間」が見えてくる。それがとても美しい。「ひとりの人間」の「実感」が美しい。淡々が「実感」にまでたどりつく、その瞬間に命が輝き、美しい。
そして、そんなふうに突然「ひとりの人間」そのものが淡々を突き破ってあふれはじめると、それは自然と、自分自身を超えていく。ほかのことまで意識がひろがってゆく。「ひとり」ではなく、愛が、愛がつくりだす命が、それにつらなってあふれてくる。妻の話をしはじめる。子供の話をしはじめる。息子は……、息子は自分と違ってだらしない(?)、自分には似たところがない、なぜ息子はあんなふうなのだろうか……。嘆きであり、心配である。心配は、愛情の裏返しの表現である。そして、そんな嘆きを口にして、自分のことを、自分の略歴を 500字で語らねばならないのに、なぜ息子の話なんか……と思い、語ることをやめてしまう。
これが人間の生きている「意味」なのだ。「思想」なのだ。
ひとの命は自分からはじまる。そしてその自分のまわりにはいくつもの命との出会いがあり、ついつい自分ではない命のことにまで「思い」が行ってしまう。動いて行ってしまう。その「思い」が積み重なって人間そのものをつくって行く。
胡同--その古い街。何軒かの家が中庭(?)を囲んで寄り添う。そこに必然的に出会いがあり、出会いがつくりだす「人情」がある。それは複雑にというか、細部へ細部へと入り組んで行く。胡同そのものが人生なのである。入り組んだ路地--それを見つめるだけでは路地でしかない。しっかりと内部を隠した街の家並みでしかない。しかし、その同じような家、門、そのなかには命がある。そして、それがほんとうは路地の入り組みを、その壁を、他人を隔てながら同時に接し、受け入れている「命の形」なのである。胡同の構造そのものが、実は人生なのである。
この映画には、もうひとつ、とても興味深いエピソードがある。主人公の時計は毎日5分遅れる。主人公は時計屋へ修理に持っていく。それに対して店長は言う。「5分遅れるなら、毎日5分進めればいい。修理して、その修理がもとで動かなくなってしまったら困る。」これは、店長の責任回避のことばのようにも聞こえる。実際、動かなくなって、苦情を言われても困る、ということなのかもしれない。しかし、胡同そのものを象徴することば、老人そのものを象徴することばのようにも聞こえる。
5分遅れる--そのことがわかっているなら、それにあわせて対処すればいい。なにかが起きる。そのなにかに対してなにかできることがあるなら、そのできることをすればいい。そうやって生きて行ける。人間にはそういう命の力がある。
ラストシーン。自分の命が長くはないということを自覚した主人公は、日課にしている眠る前の時計のねじ巻きをやめる。朝、時計は止まってしまう。まるで主人公が死んでしまったかのように。そういう静けさが一瞬描かれる。ところが主人公は生きている。息子がやってきて「曾孫が生まれた」と告げる。この命のリレーが語られ、カメラはひっそりと胡同の路地そのものに切り替わり、映画が終わる。時計を毎日5分進める--そういうふうにして主人公は自分自身を生活をととのえてきた、他人と調和させてきた。しかし、死を自覚したときから、他人にあわせることをやめて、自分自身の命のリズムそのものに身を任せ、命のリズムを受け入れる、その命のリズムそのものを胡同の街は抱きしめて存在している、ということだろう。そう思った。