詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小長谷源治『探している』

2008-09-01 10:52:34 | 詩集
小長谷源治『探している』(書肆青樹社、2008年09月20日発行)

 「貨物船のこいのぼり」は貨物船が30センチほどの小さなこいのぼりを掲げているのを見て、想像を広げたものである。4連のうちの後半の2連。

この船に祖父か父がいるのであろう
こいのぼりは空を元気に泳いで
灘(なだ)を渡り
島と行き来するのであろう

人はふしぎな動物だ
そこに相手がいなくても
思いを馳(は)せ
幸せを祈ることができる
力を得ることができる

 最終連に小長谷の思いが結晶している。最終連に書いているとおりのことを、小長谷はその前の連で書いてもいる。そこには見えない祖父(父)の姿を思い浮かべ、そのひとの思いを想像している。きっと、子どもの生長を祈っている、と想像する。その想像は、また、祖父(父)と子どもの幸せを祈る小長谷自身の祈り・願いである。祖父(父)も子どもも小長谷自身とは無関係である。無関係ではあるけれど、人は人の幸福を祈ることができる。知らない人の幸福を祈ることができる。--それが人間の力である。
 この考えから出発して、小長谷は戦争への怒りを幾篇もの作品に書いている。いのちを奪うものへの怒りを書いている。「呪(のろ)イ」という作品。

私ノ胸ニモ呪イガアル
小学校ノ恩師二人が戦争ニ殺サレタ
      (谷内注・「が」は「ガ」の誤植と思われる)

 「だれに」ではなく「戦争ニ」。ここに小長谷の怒りがある。「だれ」は欠落している。
 「戦争」は人と人のぶつかりあいではない。そこで戦っているのは「クニ」なのである。人は人と違って見えない。その見えないものが、見えるはずの人を隠してしまう。殺す人も、殺される人も隠してしまう。もし、その見えない人を、きちんと見る想像力(現実に生きている人に対しても、常に想像力を働かせて見なければならないのである。そうしないと、その人がたとえば何を「祈っている」のかが見えない。わからない)が欠落しているから、その人がほんとうにこの世界からいなくなっても平気なのだ。
 そうした想像力の欠如したものへの怒りを、小長谷は書いている。

 いわゆる「現代詩」ではない。しかし、こういう作品も書かれなければならない。書かないと、ことばは、どこかへ消えてしまう。




取ッテオキノ話―小長谷源治詩集 (日本詩人文庫)
小長谷 源治
近代文芸社

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