詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

洞口英夫「夢街」

2008-09-09 11:03:55 | 詩(雑誌・同人誌)
洞口英夫「夢街」(「現代詩手帖」2008年09月号)

 きのう読んだ岡井隆「夏日断想集」のなかに、岡井が女流歌人が書いた歌の「つまづく」は「躓く」の方がいい、と書いてあった。詩人に限らず、多くのひとが表記にこだわる。これはとてもいいことだと思う。そうしたこだわりのなかには、ことばにならない「思想」がある。「思い」がある。「つまづく」と書こうが「躓く」と書こうが、同じだと思うひとは、こだわるひとの「思い」を領域を見落とすことになる。その「表記」がつながっている世界を見落とすことでもある。

 洞口英夫「夢街」にも不思議な表記が出てくる。全行。

夢の中でしか
行ったことのない街(まち)がある

前にも夢のなかできているので
なにもいわかんがないのだが
夢のなかでしか行くことができない

街にはみたこともない
お寺があって 大きな杉の樹があって
本堂では集まった人々に
管長が法話してた
お寺の近くの長屋では
小さな女の子がともだちと
むじゃきにあそんでいる
見たこともない 顔してた
 ○
夢のなかでしかいけない街がある   (平成十九年十二月三十日)

 2連目。「なにもいわかんがないのだが」の「いわかん」。「違和感」ではなく「いわかん」。「違和感」と書いたときより、私には意味が不鮮明な印象があり、もし違和感があったとしても、それが街のなかへ溶けて消えていってしまったために「違和感」がなくなったような感じがする。「いわかん」という表記を見ると、かすかに残っている「違和感」そのものが、街のなかへ消えて行く気がするのだ。「いわかん」ということばが思いつくくらいだから、何らかの不思議な気持ち、不可解さは一瞬あるのだろうけれど、そういうかすかなのこりかすのようなものすら、ふわーっと消えてゆく感じがする。
 とても魅力的に感じる。「いわかん」という表記はいいなあ、と思う。

 「いわかん」という表記のほかにも、洞口は表記にこだわっている。
 1行目は、夢の「なか」でしか。2連目、夢の「なか」で。最終行、夢の「なか」でしか。「中」と「なか」がつかいわけられている。
 1行目は、読者の意識をすばやく引き込む。2連目は、とても読みにくい。漢字まじりに書くと「夢のなか、出来ているので」と一瞬読み違えてしまう。「夢の中で、来ているので」という意味だとわかるまでに、なんともいえないあいまいな時間が横たわる。そして、そのあいまいな感じと「いわかん」という不思議な表記が、なぜか、とてもなじんでいる。
 2連目の、いわば同義語の繰り返しのような、何の説明にもならない3行が、不思議な表記によって(わざとわかりにくくした表記によって)、詩になっている。詩を主張している、と感じる。

 漢字とひらがなの表記のつかいわけは、ほかにも「行くことができない」「いけない」、「みたこともない」「見たこともない」がある。このつかいわけはとても不思議で、逆に書かれていたら、この詩の印象は違ってくると思う。
 「みたこともない」と「見たこともない」。私の印象では、3連目の書き出しの「みたこともない」は、ひらがなであることによって、イメージがあいまいになる。いったんイメージをあいまいにしておいて、「お寺」「杉」「樹」「本堂」「管長」などの、くっきりとしたイメージ(だれもが完璧に思い浮かべられる存在)へ読者の意識を動かしてゆく。ありふれた、というか、見慣れた光景を全面に出すことで、夢の不思議なリアリティーを強調する。
 そうして、「むじゃきにあそんでいる」とひらがなで書くことによって、一種の不気味さをはさみ、「見たこともない 顔してた」という行がくる。意識を「夢」から覚醒させる。「夢」はここまでですよ、と告げる。

 そして、最終連。 「夢のなかでしかいけない街がある」。「行けない」とは書かないことによって、「夢」がまだ根強く残っている感じがする。「夢」と「行く」という行為がどこかでつながっている、という印象がある。さらに「いけない」は「行けない」であると同時に「いけない」(よくない、禁止)ということばを遠くからひきつれてくる。「夢」のなかからひきつれてくる。夢のなかでしか行けない街--そんな街を夢見ることはいけない(よくない)ことだ、という声がとても遠いところから、しかし、とてもしっかりと聞こえてくる。

 とてもおもしろい。




闇のなかの黒い流れ
洞口 英夫
思潮社

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コメント
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