白鳥央堂「グレングールド」(「現代詩手帖」2008年10月号)
新人作品の欄に掲載されている。選者は瀬尾育生。
白鳥の作品を読みながら、私はつくづく古い人間なのだと思った。こんなことを書くと白鳥に申し訳ない感じもするのだが、白鳥の古い文体(堅牢な文体)がとても気持ちがいい。
音楽の地平。グレングールドに誘われて、その遥をみつめる白鳥。その領域にあらわれてくるもろもろのもの。楽器。咽喉。そういうものが、すっきりと見えてくる。
こうしたすっきりした文体で誘い込んでおいて、少しずつことばの動きが複雑、繊細になってゆく。
音楽を視線でとらえようとすることば。「御影」というようなことばは、私には、奇妙に響くけれど、そういう違和感があるからこそ、音楽を視線でとらえ直そうとする意識もはっきり伝わってくる。
音楽が動くのか。視線が動くのか。
グレングールドの音楽に誘われて視線が動く--ととらえるのが自然な順序だろうけれど、白鳥の気持ちとしては少し違うかもしれない。
白鳥は、むしろ視線を動かし、その視線に沿うような形でグレングールドを誘いたいのだろう。しかし、そういうことは実際には無理である。グレングールドは白鳥とは同じ時間を生きてはいない。グレングールドの演奏が先にある。先に存在してしまっているものが、あとから存在した白鳥の視線に引きずられるということは、現象としてはありえない。そういうことが起きれば「矛盾」である。「矛盾」じあるからこそ、そこに白鳥の思想があらわれる。ことばにならないことばが動きはじめる。「詩」が書かれなければならない理由が存在する。
白鳥のことばはグレングールドの音楽を誘導することはできない。すでにグレングールドの音楽は存在している。それでもなお、それを誘導したいと試みるとき、そこに白鳥の、まだことばとして定着していない思いが、「肉体」のまま動きはじめる。
詩の書き出し、最初の1行がここに復活するが、その復活を誘い出すことば「つまり」。
何が、つまり、なのか。
わからない。白鳥にもわからない。
これは一種の「呼吸」である。「肉体」そのものの反応である。言い直せば、白鳥に深く深くしみついたもの、「思想」と意識化できない「思想」。無意識の思想である。
無意識のなかではことばを制御する「理性」は働かない。
こういうものは、ことばのなかでしかない。そして、それはことばになった瞬間に、現前してしまう。--ここに詩がある。存在しないものが、ことばの力によって存在してしまう。幻として、ではなく、「肉体」として。
この瞬間が、私にはとてもおもしろく感じられる。
このあとも白鳥のことばは動き回る。存在しないものを現前させることによって、グレングールドの音楽と拮抗する。グレングールドの音楽を誘い導くことはできないが、拮抗することで、グレングールドを耕すことはできる。そして、耕した瞬間、一瞬、たしかにそのことばはグレングールドに先行する。つまり、グレングールドをそういう領域へ誘い込んだという印象を生み出す。そこが、とてもおもしろい。
そしてその運動を描くことばは最初に書いたようにしっかりした文体を持っている。きちんとした文脈を持っている。
私が引用した行は、前半の3分の1くらいである。あとの3分の2は「現代詩手帖」で読んでください。
新人作品の欄に掲載されている。選者は瀬尾育生。
白鳥の作品を読みながら、私はつくづく古い人間なのだと思った。こんなことを書くと白鳥に申し訳ない感じもするのだが、白鳥の古い文体(堅牢な文体)がとても気持ちがいい。
鍵盤の上を夜行するものら
私はピアノの屋根に座り 対岸の彼らを眺める
土地にはくたびれた大小の楽器が点在している
だれのものか知らない咽喉も落ちてある
音楽の地平。グレングールドに誘われて、その遥をみつめる白鳥。その領域にあらわれてくるもろもろのもの。楽器。咽喉。そういうものが、すっきりと見えてくる。
こうしたすっきりした文体で誘い込んでおいて、少しずつことばの動きが複雑、繊細になってゆく。
夜行は私の視線に引きずられる前に前進し
泥土を除けながら古いピアノの上をいく
列中の御影が震えると 私の唇も麻酔にかかり
汚泥と曇天のはるかに向けて
抑えるてのひらもない仕方で笑わされてしまう
それもバレエの帰途でしかないと思いなおし また視線をやる
音楽を視線でとらえようとすることば。「御影」というようなことばは、私には、奇妙に響くけれど、そういう違和感があるからこそ、音楽を視線でとらえ直そうとする意識もはっきり伝わってくる。
音楽が動くのか。視線が動くのか。
グレングールドの音楽に誘われて視線が動く--ととらえるのが自然な順序だろうけれど、白鳥の気持ちとしては少し違うかもしれない。
夜行は私の視線に引きずられる前に前進し
白鳥は、むしろ視線を動かし、その視線に沿うような形でグレングールドを誘いたいのだろう。しかし、そういうことは実際には無理である。グレングールドは白鳥とは同じ時間を生きてはいない。グレングールドの演奏が先にある。先に存在してしまっているものが、あとから存在した白鳥の視線に引きずられるということは、現象としてはありえない。そういうことが起きれば「矛盾」である。「矛盾」じあるからこそ、そこに白鳥の思想があらわれる。ことばにならないことばが動きはじめる。「詩」が書かれなければならない理由が存在する。
白鳥のことばはグレングールドの音楽を誘導することはできない。すでにグレングールドの音楽は存在している。それでもなお、それを誘導したいと試みるとき、そこに白鳥の、まだことばとして定着していない思いが、「肉体」のまま動きはじめる。
すでに すべての鍵盤はてのひらの水面に沈められ
白鍵は浸かる間際にあり その緊張は肌色のように見える
つまり逆吊りの海を支え 鍵盤の上を夜行するものら
詩の書き出し、最初の1行がここに復活するが、その復活を誘い出すことば「つまり」。
何が、つまり、なのか。
わからない。白鳥にもわからない。
これは一種の「呼吸」である。「肉体」そのものの反応である。言い直せば、白鳥に深く深くしみついたもの、「思想」と意識化できない「思想」。無意識の思想である。
無意識のなかではことばを制御する「理性」は働かない。
逆吊りの海
こういうものは、ことばのなかでしかない。そして、それはことばになった瞬間に、現前してしまう。--ここに詩がある。存在しないものが、ことばの力によって存在してしまう。幻として、ではなく、「肉体」として。
この瞬間が、私にはとてもおもしろく感じられる。
このあとも白鳥のことばは動き回る。存在しないものを現前させることによって、グレングールドの音楽と拮抗する。グレングールドの音楽を誘い導くことはできないが、拮抗することで、グレングールドを耕すことはできる。そして、耕した瞬間、一瞬、たしかにそのことばはグレングールドに先行する。つまり、グレングールドをそういう領域へ誘い込んだという印象を生み出す。そこが、とてもおもしろい。
そしてその運動を描くことばは最初に書いたようにしっかりした文体を持っている。きちんとした文脈を持っている。
私が引用した行は、前半の3分の1くらいである。あとの3分の2は「現代詩手帖」で読んでください。
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