豊原清明「俳句抄」(「白黒目」13、2008年09月発行)
「白黒目」に6句掲載されている。
あ、去来はシナリオなのか。連歌はたしかに映画かもしれない。前の句を次の句が破って動いて行く。きのう「映画詩」に触れたが、豊原のことばは、こういう古典からもいのちを吸収している。「温故知新」。豊原のことばの透明さは、そんなところにあるのかもしれない。
「私」が不思議である。「流星」というよりも「私」によって、闇が濃くなっていく。私は俳句は何も知らない。門外漢である。俳句にわざわざ「私」ということばがつかわれるのは、なんだが字数の関係でもったいない(?)感じがするが、この句の場合はぜったいに「私」がいる。不可欠である。「私」が撮る(撮影する)前と、撮ったあとでは、闇の濃さが違う。フィルムのなかで闇が変質する。「私」によって変質する。それは同時に「私」そのものの変質である。変質しながら「私」は「私」を超越する。
「シナリオ去来」の句には「き」の繰り返しが美しく響きあっていたが、この句では「んで」「は」の重なり合う響きが楽しい。「んで」は「子音」+「あんで」というべきかもしれない。「(わ)れ」「(はなび)ら」「(は)る」の「ら行」の変化も楽しい。同時に、この句のなかにある「あ」という母音の明るさがとても美しく感じられる。
この句もとても美しい。楽しい。音楽そのものとしてたのしい。俳句はとりあわせの詩ともいうらしいけれど、このユーモラスな出会いは不思議に古典的である。「私」や「我」は世界のなかに完全に溶け込んでいる。書かれていない。見えない。それなのに、その存在を感じる。しかも、何かを主張しているというような感じではない。「私」「我」を書かない、消してしまう、ということをとおして、逆に「私」「我」が透明な姿で立ち上がってくる。「私」「我」が世界になっている。
「流星」と「夏木立」の句--どちらかひとつを取るとしたらどっちだろう。悩んでしまうなあ。やっぱり「夏木立」だろうなあ。
「白黒目」に6句掲載されている。
シナリオに励みて今日は去来の忌
あ、去来はシナリオなのか。連歌はたしかに映画かもしれない。前の句を次の句が破って動いて行く。きのう「映画詩」に触れたが、豊原のことばは、こういう古典からもいのちを吸収している。「温故知新」。豊原のことばの透明さは、そんなところにあるのかもしれない。
流星や私が撮った闇の濃さ
「私」が不思議である。「流星」というよりも「私」によって、闇が濃くなっていく。私は俳句は何も知らない。門外漢である。俳句にわざわざ「私」ということばがつかわれるのは、なんだが字数の関係でもったいない(?)感じがするが、この句の場合はぜったいに「私」がいる。不可欠である。「私」が撮る(撮影する)前と、撮ったあとでは、闇の濃さが違う。フィルムのなかで闇が変質する。「私」によって変質する。それは同時に「私」そのものの変質である。変質しながら「私」は「私」を超越する。
我病んで花びら噛んで春を待つ
「シナリオ去来」の句には「き」の繰り返しが美しく響きあっていたが、この句では「んで」「は」の重なり合う響きが楽しい。「んで」は「子音」+「あんで」というべきかもしれない。「(わ)れ」「(はなび)ら」「(は)る」の「ら行」の変化も楽しい。同時に、この句のなかにある「あ」という母音の明るさがとても美しく感じられる。
淡さもろさの起床のくしゃみ夏木立
この句もとても美しい。楽しい。音楽そのものとしてたのしい。俳句はとりあわせの詩ともいうらしいけれど、このユーモラスな出会いは不思議に古典的である。「私」や「我」は世界のなかに完全に溶け込んでいる。書かれていない。見えない。それなのに、その存在を感じる。しかも、何かを主張しているというような感じではない。「私」「我」を書かない、消してしまう、ということをとおして、逆に「私」「我」が透明な姿で立ち上がってくる。「私」「我」が世界になっている。
「流星」と「夏木立」の句--どちらかひとつを取るとしたらどっちだろう。悩んでしまうなあ。やっぱり「夏木立」だろうなあ。
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