詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「俳句抄」

2008-09-20 08:51:43 | その他(音楽、小説etc)
豊原清明「俳句抄」(「白黒目」13、2008年09月発行)

 「白黒目」に6句掲載されている。

シナリオに励みて今日は去来の忌

 あ、去来はシナリオなのか。連歌はたしかに映画かもしれない。前の句を次の句が破って動いて行く。きのう「映画詩」に触れたが、豊原のことばは、こういう古典からもいのちを吸収している。「温故知新」。豊原のことばの透明さは、そんなところにあるのかもしれない。

流星や私が撮った闇の濃さ

 「私」が不思議である。「流星」というよりも「私」によって、闇が濃くなっていく。私は俳句は何も知らない。門外漢である。俳句にわざわざ「私」ということばがつかわれるのは、なんだが字数の関係でもったいない(?)感じがするが、この句の場合はぜったいに「私」がいる。不可欠である。「私」が撮る(撮影する)前と、撮ったあとでは、闇の濃さが違う。フィルムのなかで闇が変質する。「私」によって変質する。それは同時に「私」そのものの変質である。変質しながら「私」は「私」を超越する。

我病んで花びら噛んで春を待つ

 「シナリオ去来」の句には「き」の繰り返しが美しく響きあっていたが、この句では「んで」「は」の重なり合う響きが楽しい。「んで」は「子音」+「あんで」というべきかもしれない。「(わ)れ」「(はなび)ら」「(は)る」の「ら行」の変化も楽しい。同時に、この句のなかにある「あ」という母音の明るさがとても美しく感じられる。

淡さもろさの起床のくしゃみ夏木立

 この句もとても美しい。楽しい。音楽そのものとしてたのしい。俳句はとりあわせの詩ともいうらしいけれど、このユーモラスな出会いは不思議に古典的である。「私」や「我」は世界のなかに完全に溶け込んでいる。書かれていない。見えない。それなのに、その存在を感じる。しかも、何かを主張しているというような感じではない。「私」「我」を書かない、消してしまう、ということをとおして、逆に「私」「我」が透明な姿で立ち上がってくる。「私」「我」が世界になっている。

 「流星」と「夏木立」の句--どちらかひとつを取るとしたらどっちだろう。悩んでしまうなあ。やっぱり「夏木立」だろうなあ。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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川野圭子「淋しい牛」

2008-09-20 08:23:53 | 詩(雑誌・同人誌)
川野圭子「淋しい牛」(「Griffon 」22、2008年06月30日発行)

 川野圭子「淋しい牛」は後半がおもしろい。

ドアを開けると
何と牛が押し入ってきたのだ

淋しい淋しい と長いまつげの目が言うので
すこしならいてもいいよ と言ってやったら
なけなしのわたしの絨毯の上に
いっぱいになって 横たわった

淋しい淋しいが止まらないので
大きなまっ黒い頭を抱いて寝た

わたしのかたわらの牛の目は
見れば見るほど大きくて
奥山の沼さながらで
青黒い水を溜めていた
とめどなくあふれるものを一晩中
バスタオルで拭いつづけた

 「バスタオル」がいい。「牛」が何の比喩なのかわからないが、「バスタオル」によって「牛」が比喩から牛そのものにかわる。牛の頭は大きい。目も大きい。牛が涙を流すなら、それを拭くのはハンカチや普通のタオルでは間に合わないだろう。たしかにバスタオルが必要なのだ。

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