岩佐なを『幻帖』(2)(書肆山田、2008年09月20日発行)
岩佐なをの詩は気持ちが悪い--と私はしつこいくらい書いているが、最近は気持ちが悪いだけではなく、とても気持ちがいい行もある。どこが気持ちがいいのか。そのことについて書いておく。
たとえば25ページ。
気持ちが悪いのは「(苦笑)」。
気持ちがいいのは、「牛込ならば/牛のきんたま丸焼けだ。」
私は、どうも「内部」をむりやり見せられる(押しつけられる)のが苦手なのだ。「苦笑」などと言われると、ぞっとする。「苦笑」したか、しなかったか、そんなことは読者にまかせておけばいい、と思ってしまう。
「牛のきんたま」が気持ちがいいのは、そのことばが岩佐のことばではないからだ。岩佐のことばではないが、岩佐の肉体にしみついているからだ。そして、その肉体には、健全な(といっていいのだと思う)多くの人の肉体がつながっている。いや、つながっているというより、岩佐の肉体のなかでひとつになっていると言った方がいいのかもしれない。ここでは、岩佐は思考していない。ことばを「頭」で動かしていない。「頭」を放棄して、そのあたりにころがっていることばをぱっとつかみとって投げ出している。これがとても気持ちがいい。
詩にしろ、何にしろ、文学というのは、そのへんにころがっていることばをつかみ取って放り出すようなものではない、という考えがあると思う。自分の「頭」で考え抜いて、自分の気持ちを作り上げていくのが文学のことばだ、という考えがあると思う。もちろん、そうには違いない。
そうではあるけれど、私は、そのへんにあることばをぱっとつかみ取ってきて、放り出すような作品が好きなのだ。私には、それが気持ちよく感じられるのだ。
そこにはオリジナルはない。そのかわりに、たたいてもこわれない肉体がある。人間を成長させる「高尚な思想」はない。しかしそのかわりに、たたいてもこわれない「暮らしの思想」がある。「暮らし」というものにしか還元できない、ことばにならない、何か強いものがある。
英語のことはよくわからないが、シェークスピアのこともよくわからないが、シェークスピアの劇は、決まり文句だけでできている、と聞く。だれもが知っていることば、だれもが話していることばだけでできている。あたらしいことばは何一つない。それは裏返せば、それだけ人生に、生きている人間の肉体にしみこんだことばだけでできているということだろう。
そういうことばには、ひとりの人生の過去ではなく、すべての人間の過去がある。芝居とは、常に過去を現在のなかに登場させながら未来へと進んでいく。小説のように、あとから実は過去はこうでした、という説明はできない。常に過去をもったことばが必要である。過去を持っていることによって、過去と過去がぶつかり、時間が動く。それは、暮らしそのものの時間である。
そういうことに似たものがある。
「牛込ならば/牛のきんたま丸焼けだ。」ということばは誰が言い出したのかわからない。わからないけれど、火事のすごさと、同時に火事なんかに負けるもんかというような心意気、なんとかして火事そのものを笑ってしまおうというような暮らしのバイタリティーを感じる。そんなふうに生きてきた人間の、たくましい「過去」がある。
「牛のきんたま丸焼け」というのはナンセンスだが、そのナンセンスさには、センスを超越する健康さがある。それは肉体に、暮らしの思想につながっている。
そういうものが、すーっと、呼吸のように出てくる瞬間、それが、とても気持ちがいい。
この作品(この断章)のおわりもとてもいい感じだ。26ページから27ページにかけて。
借りた長屋にあらわれる幽霊との交流(?)を描いた詩なのだが、この最後の部分、とくにひらがなの部分がいいなあ。人間の頼りない声、(つまり、「高尚な思想」のように、きちんとした形でだれそれに見せるためのことばにならないもの)、それをそのまま呼吸として表現している。
体を揺すってあちこち見回す感じ、ちょっと背筋を伸ばして遠くへ呼びかけるときの肉体の動き--そういうものがきっちり見えてくる。
そのとき、肉体があることの安心と、肉体をなくしたものへの哀惜のようなもの、肉体をなくした魂への祈りのようなものが、ふっとあらわれる。
これはほんとうに気持ちがいい。
岩佐なをの詩は気持ちが悪い--と私はしつこいくらい書いているが、最近は気持ちが悪いだけではなく、とても気持ちがいい行もある。どこが気持ちがいいのか。そのことについて書いておく。
たとえば25ページ。
拙者に金がないからって、
拙者の手の爪に小鬼火をともすいやみはやめてくれ。
おもしろいとはおもうけどさ(苦笑)
火いたずらは御法度。
火事が三崎町からでたら神田いったいは丸焼けだ。
牛込ならば
牛のきんたま丸焼けだ。
気持ちが悪いのは「(苦笑)」。
気持ちがいいのは、「牛込ならば/牛のきんたま丸焼けだ。」
私は、どうも「内部」をむりやり見せられる(押しつけられる)のが苦手なのだ。「苦笑」などと言われると、ぞっとする。「苦笑」したか、しなかったか、そんなことは読者にまかせておけばいい、と思ってしまう。
「牛のきんたま」が気持ちがいいのは、そのことばが岩佐のことばではないからだ。岩佐のことばではないが、岩佐の肉体にしみついているからだ。そして、その肉体には、健全な(といっていいのだと思う)多くの人の肉体がつながっている。いや、つながっているというより、岩佐の肉体のなかでひとつになっていると言った方がいいのかもしれない。ここでは、岩佐は思考していない。ことばを「頭」で動かしていない。「頭」を放棄して、そのあたりにころがっていることばをぱっとつかみとって投げ出している。これがとても気持ちがいい。
詩にしろ、何にしろ、文学というのは、そのへんにころがっていることばをつかみ取って放り出すようなものではない、という考えがあると思う。自分の「頭」で考え抜いて、自分の気持ちを作り上げていくのが文学のことばだ、という考えがあると思う。もちろん、そうには違いない。
そうではあるけれど、私は、そのへんにあることばをぱっとつかみ取ってきて、放り出すような作品が好きなのだ。私には、それが気持ちよく感じられるのだ。
そこにはオリジナルはない。そのかわりに、たたいてもこわれない肉体がある。人間を成長させる「高尚な思想」はない。しかしそのかわりに、たたいてもこわれない「暮らしの思想」がある。「暮らし」というものにしか還元できない、ことばにならない、何か強いものがある。
英語のことはよくわからないが、シェークスピアのこともよくわからないが、シェークスピアの劇は、決まり文句だけでできている、と聞く。だれもが知っていることば、だれもが話していることばだけでできている。あたらしいことばは何一つない。それは裏返せば、それだけ人生に、生きている人間の肉体にしみこんだことばだけでできているということだろう。
そういうことばには、ひとりの人生の過去ではなく、すべての人間の過去がある。芝居とは、常に過去を現在のなかに登場させながら未来へと進んでいく。小説のように、あとから実は過去はこうでした、という説明はできない。常に過去をもったことばが必要である。過去を持っていることによって、過去と過去がぶつかり、時間が動く。それは、暮らしそのものの時間である。
そういうことに似たものがある。
「牛込ならば/牛のきんたま丸焼けだ。」ということばは誰が言い出したのかわからない。わからないけれど、火事のすごさと、同時に火事なんかに負けるもんかというような心意気、なんとかして火事そのものを笑ってしまおうというような暮らしのバイタリティーを感じる。そんなふうに生きてきた人間の、たくましい「過去」がある。
「牛のきんたま丸焼け」というのはナンセンスだが、そのナンセンスさには、センスを超越する健康さがある。それは肉体に、暮らしの思想につながっている。
そういうものが、すーっと、呼吸のように出てくる瞬間、それが、とても気持ちがいい。
この作品(この断章)のおわりもとてもいい感じだ。26ページから27ページにかけて。
ねえ、
おぬし。
よう、
ひかり。
いないのか。
ほんとにしんだのか。
時代もちがい武士ではないから
こころざしも極端に低いけれど、
丈部左門と赤穴宗右衛門の「約」はいいよな。
そんなことはわかるさ。
ほおい。
ほんとにもう成仏したのかい。
借りた長屋にあらわれる幽霊との交流(?)を描いた詩なのだが、この最後の部分、とくにひらがなの部分がいいなあ。人間の頼りない声、(つまり、「高尚な思想」のように、きちんとした形でだれそれに見せるためのことばにならないもの)、それをそのまま呼吸として表現している。
体を揺すってあちこち見回す感じ、ちょっと背筋を伸ばして遠くへ呼びかけるときの肉体の動き--そういうものがきっちり見えてくる。
そのとき、肉体があることの安心と、肉体をなくしたものへの哀惜のようなもの、肉体をなくした魂への祈りのようなものが、ふっとあらわれる。
これはほんとうに気持ちがいい。
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