岡井隆「注釈する宣長」は、「注釈する岡井隆」と言い換えることができる。作品の書き出し。
岡井は「古事記」の注釈「古事記伝」(本居宣長)のことを書いているのだが、それは「古事記伝」と「注釈する宣長」そのものの関係にある。
そして、そこに、不思議に色っぽいものがはさまってくる。
「色っぽいもの」とは男女の性器のこと、それに対する解説ではない。「一言注釈する者も小声でつけ加へたくなる」である。「一言注釈する者」って、だれ? 宣長? それとも岡井隆? 文脈からいうと「現代の注釈者」、つまり岡井隆になる。岡井は宣長の注釈にそっと(?)しのびより、そのそばに寄り添い、注釈に加担する。その寄り添い方が、とても「色っぽい」。
いや、猥褻である。
間違えた。猥雑である。
いや、やっぱり猥褻である。「小声で」と念押し(?)しているところなど、「実際にセックスしているのは私ではありません、宣長さんですよ」と言っているような感じがするのである。「注釈」が、女の服のすそをたくり上げて、女の核心にわけいって、あるかなきかの声を、はっきり存在するものとして明らかにする、(女自身に、声を上げさせる)、というようなことに思えてくるのだ。
なんといえばいいのだろう。あえていえば、セックスの実況中継のようである。
さんざん実況中継しておいて、あげくのはてに(?)、「とほどさやうに宣長の注釈の筆は微細である」。私は笑いだしてしまう。笑い声が止まらなくなる。涙が流れるくらいおかしい。「宣長の注釈の筆は微細である」にしても、それをわざわざ「微細である」と注釈しなければ、たぶん誰も微細であるとは気がつかない。
ということはないかもしれないけれど。
この微細さは、岡井隆が「微細である」とわざわざ書いているから「微細」が浮かび上がるのである。単に「微細」を指摘するだけではなく、それに「一言注釈する」という形で、わざわざ付け加えるから「微細」になるのである。「微細」は最初から「微細」なのではなく、岡井隆の筆が微細に「した」のである。岡井隆のことばが加わることで、微細に「なる」、「なった」のである。
これも宣長の姿というより岡井の自画像になるだろう。
ここには、また岡井が文章で何を重視しているかが書かれている。「明確で律動に富む」。文章は「明確」で「律動に富む」なら、何を書いてもいいのである。「明確」で「律動に富」んでいれば、それは「文学」である。「注釈」は単なる注釈ではなく、原典を超えて「文学」そのものになる。
その瞬間、「たのし」くなる。この「楽しい」はとても大切な要素である。
この関係を、岡井は、最後に別なことばで書き換えている。言い直している。
「超克」「超越」。「文学」とはすべて「超克」「超越」するもの、したもの、なのである。
岡井は原典を超える注釈について書いているのだが、注釈が原典を超越した瞬間、それは実は注釈が注釈であることを超越したということでもある。
ここでもう一度セックスを例に出せば、自己が自己の外へ出てしまうことを「エクスタシー」という。自己が自己でなくなる。それは快感である。快感のなかで、自己が自己でなくなる。
それが自分ではなく他人であってみれば、知っているはずの他人(たとえば女)が、セックスの果てに他人ではなくなる。それまでとは違った女になってしまう。いままで、じぶんには見せたことのない姿。官能。そのなかで、まったく新しい女に「なる」。男が(岡井隆が)そんなふうに「させた」のである。
これは楽しいねえ。こんなよろこびはないねえ。
でもね、最後。
「背筋が寒い」。背筋が寒くなる。なぜ? ほら、そんなふうにエクスタシーの連続が永遠につづくとしたら、どうしていいかわからないからね。限りがないというのはたのしい。でも、こわい。矛盾している。矛盾しているから、そこに思想がある。こわいものに誘われ、こわいものといっしょに楽しむ。こわくなければ楽しくないのだ。
原典はあくまで主人であるがその注釈は必ずしも従者だとはきまつてゐない
岡井は「古事記」の注釈「古事記伝」(本居宣長)のことを書いているのだが、それは「古事記伝」と「注釈する宣長」そのものの関係にある。
そして、そこに、不思議に色っぽいものがはさまってくる。
現代の注釈者は難産の妻の回りに夫が臼を背負つて歩き回り妻を励ます民俗風習の存在をこのくだりにそつと書き加へたりするが当然臼と杵は男女両性の性器の喩としてユニバーサルであつてみれば産室をめぐつて踊りよろめく男の背や肩に重い臼が載つてゐてもをかしくはないなどと一言注釈する者も小声でつけ加へたくなる ことほどさやうに宣長の注釈の筆は微細である
「色っぽいもの」とは男女の性器のこと、それに対する解説ではない。「一言注釈する者も小声でつけ加へたくなる」である。「一言注釈する者」って、だれ? 宣長? それとも岡井隆? 文脈からいうと「現代の注釈者」、つまり岡井隆になる。岡井は宣長の注釈にそっと(?)しのびより、そのそばに寄り添い、注釈に加担する。その寄り添い方が、とても「色っぽい」。
いや、猥褻である。
間違えた。猥雑である。
いや、やっぱり猥褻である。「小声で」と念押し(?)しているところなど、「実際にセックスしているのは私ではありません、宣長さんですよ」と言っているような感じがするのである。「注釈」が、女の服のすそをたくり上げて、女の核心にわけいって、あるかなきかの声を、はっきり存在するものとして明らかにする、(女自身に、声を上げさせる)、というようなことに思えてくるのだ。
なんといえばいいのだろう。あえていえば、セックスの実況中継のようである。
さんざん実況中継しておいて、あげくのはてに(?)、「とほどさやうに宣長の注釈の筆は微細である」。私は笑いだしてしまう。笑い声が止まらなくなる。涙が流れるくらいおかしい。「宣長の注釈の筆は微細である」にしても、それをわざわざ「微細である」と注釈しなければ、たぶん誰も微細であるとは気がつかない。
ということはないかもしれないけれど。
この微細さは、岡井隆が「微細である」とわざわざ書いているから「微細」が浮かび上がるのである。単に「微細」を指摘するだけではなく、それに「一言注釈する」という形で、わざわざ付け加えるから「微細」になるのである。「微細」は最初から「微細」なのではなく、岡井隆の筆が微細に「した」のである。岡井隆のことばが加わることで、微細に「なる」、「なった」のである。
人名地名時間等の長い長い注釈をこころみる かと言つて文章は明確で律動に富むから読んでいて飽くことはないが原典はつねに遠ざけられ目的地はどことも知れないほど注釈の小道わきに怖るることなくむしろたのしげに分け入る
これも宣長の姿というより岡井の自画像になるだろう。
ここには、また岡井が文章で何を重視しているかが書かれている。「明確で律動に富む」。文章は「明確」で「律動に富む」なら、何を書いてもいいのである。「明確」で「律動に富」んでいれば、それは「文学」である。「注釈」は単なる注釈ではなく、原典を超えて「文学」そのものになる。
その瞬間、「たのし」くなる。この「楽しい」はとても大切な要素である。
この関係を、岡井は、最後に別なことばで書き換えている。言い直している。
一体原典の数十倍もある注釈つてなんなのだらうその主人を弑すとまでは言はぬまでも主人を超克し超越した異物怪物のたぐひではないかと思はれて背筋が寒い
「超克」「超越」。「文学」とはすべて「超克」「超越」するもの、したもの、なのである。
岡井は原典を超える注釈について書いているのだが、注釈が原典を超越した瞬間、それは実は注釈が注釈であることを超越したということでもある。
ここでもう一度セックスを例に出せば、自己が自己の外へ出てしまうことを「エクスタシー」という。自己が自己でなくなる。それは快感である。快感のなかで、自己が自己でなくなる。
それが自分ではなく他人であってみれば、知っているはずの他人(たとえば女)が、セックスの果てに他人ではなくなる。それまでとは違った女になってしまう。いままで、じぶんには見せたことのない姿。官能。そのなかで、まったく新しい女に「なる」。男が(岡井隆が)そんなふうに「させた」のである。
これは楽しいねえ。こんなよろこびはないねえ。
でもね、最後。
「背筋が寒い」。背筋が寒くなる。なぜ? ほら、そんなふうにエクスタシーの連続が永遠につづくとしたら、どうしていいかわからないからね。限りがないというのはたのしい。でも、こわい。矛盾している。矛盾しているから、そこに思想がある。こわいものに誘われ、こわいものといっしょに楽しむ。こわくなければ楽しくないのだ。
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