谷川俊太郎の詩は読めば読むほど不思議である。「キンセン」の全行。
「谷川俊太郎」という名前がなかったら、私は、小学生か中学生が書いた詩だと思ったかもしれない。
1連目の「じゃなくて」を行の冒頭にもってきて、ことばを訂正する。そのリズムが、こどもの口語そのものである。2連目にも「じゃなくて」が登場し、こどものことば、口語の口調の印象を強くする。
だが、そのリズム、繰り返しながらことばを訂正し、ことばを探す--実は、ここに谷川の特徴があらわれている。谷川はいつもことばを探している。
谷川のことばの探し方にもし特徴があるとすれば、探すとき、谷川は谷川ではない、ということだ。たとえば、この詩では、谷川は、小学6年生か、中学1年生の女の子である。少女になって、ことばを探す。ことばを探すことで、少女になってしまう。そんなことができる詩人なのだ。
少女になりながらも、しかし、谷川は谷川である。きちんと谷川らしさを発揮する。
3連目の、たたみかけるようなリズム、ことばをたたみかけて、ふっとジャンプして別次元へ移行する瞬間に谷川の特徴が(詩のいちばん美しい部分が)あらわれている。
ただし、この瞬間にも、谷川は少女のままでもある。「心は健在」という一種の固さ、完全にはこなれきっていないような不思議な固さが、こどもの少しだけ背伸びしたことばの感じをとてもよく伝えている。
そして、ここに「詩の本質」そのものを提示もしている。
詩とは、少しだけ背伸びしたときに見えてくるものを書く。それは、おとな(すでに老人?)になってしまった谷川本人であるよりも、少女の姿、少女のことばを借りた方が、より正確にあらわすことができる。
この詩のなかでは、現実の谷川と少女が完全に一体になっている。一体になることで、詩を完全なものにしている。
特に最終連。
「見えないところ」「いろんな人」「きれいな景色」「思い出の中」。こうしたことばは、おとなが何かを言おうとして書くならば、かなり印象が弱い。もっと具体的に書かないと何のことかわからない。ところが、少し背伸びした瞬間に少女が発見したものだとすれば、これ以外に書きようがない。「見えないところ」も「いろんな人」も「きれいな景色」も「思い出」も、少女には、実は、それが何かがわかっていない。ことばに誘われるようにして、それを見ようとしているのだ。発見した、と私は便宜上書いたが、少女はことばをつかって、それを発見しようとしている。
そして少女は本能的に知っている。自分にはまだわからない何か、発見したい何かが、ことばにすれば、自分では発見できなくても、読んだ人がそれを発見してくれる。ことばは、読んだ人のこころのなかで発展する。そして、詩になる。そういうことを知っている。
そして、この、ことばは読んだ人のこころのなかで発展し、詩になる、というのは谷川俊太郎の「思想」そのものでもあると思う。谷川は、いつでも、ことばを発展する余地のあるものとして書いている。発展する可能性を残したまま書いている。自分で書いてしまうのではなく、読者のこころが、新しくことばを書きはじめるのを誘っている。
「キンセンに触れたのよ」
きおばあちゃんは繰り返す
「キンイセンって何よ?」と私は訊(き)く
おばあちゃんは答えない
じゃなくて答えられない ぼけているから
じゃなくて認知症だから
辞書をひいてみた
金銭じゃなくて琴線だった
心の琴が鳴ったんだ 共鳴したんだ
いつ? どこで? 何が 誰が触れたの?
おばあちゃんは夢見るようにほほえむだけ
ひとりでご飯が食べられなくなっても
ここがどこか分からなくなっても
自分の名前を忘れてしまっても
おばあちゃんの心は健在
私には見えないところで
いろんな人たちに会っている
きれいな風景を見ている
思い出の中の音楽を聴いている
「谷川俊太郎」という名前がなかったら、私は、小学生か中学生が書いた詩だと思ったかもしれない。
1連目の「じゃなくて」を行の冒頭にもってきて、ことばを訂正する。そのリズムが、こどもの口語そのものである。2連目にも「じゃなくて」が登場し、こどものことば、口語の口調の印象を強くする。
だが、そのリズム、繰り返しながらことばを訂正し、ことばを探す--実は、ここに谷川の特徴があらわれている。谷川はいつもことばを探している。
谷川のことばの探し方にもし特徴があるとすれば、探すとき、谷川は谷川ではない、ということだ。たとえば、この詩では、谷川は、小学6年生か、中学1年生の女の子である。少女になって、ことばを探す。ことばを探すことで、少女になってしまう。そんなことができる詩人なのだ。
少女になりながらも、しかし、谷川は谷川である。きちんと谷川らしさを発揮する。
3連目の、たたみかけるようなリズム、ことばをたたみかけて、ふっとジャンプして別次元へ移行する瞬間に谷川の特徴が(詩のいちばん美しい部分が)あらわれている。
ただし、この瞬間にも、谷川は少女のままでもある。「心は健在」という一種の固さ、完全にはこなれきっていないような不思議な固さが、こどもの少しだけ背伸びしたことばの感じをとてもよく伝えている。
そして、ここに「詩の本質」そのものを提示もしている。
詩とは、少しだけ背伸びしたときに見えてくるものを書く。それは、おとな(すでに老人?)になってしまった谷川本人であるよりも、少女の姿、少女のことばを借りた方が、より正確にあらわすことができる。
この詩のなかでは、現実の谷川と少女が完全に一体になっている。一体になることで、詩を完全なものにしている。
特に最終連。
「見えないところ」「いろんな人」「きれいな景色」「思い出の中」。こうしたことばは、おとなが何かを言おうとして書くならば、かなり印象が弱い。もっと具体的に書かないと何のことかわからない。ところが、少し背伸びした瞬間に少女が発見したものだとすれば、これ以外に書きようがない。「見えないところ」も「いろんな人」も「きれいな景色」も「思い出」も、少女には、実は、それが何かがわかっていない。ことばに誘われるようにして、それを見ようとしているのだ。発見した、と私は便宜上書いたが、少女はことばをつかって、それを発見しようとしている。
そして少女は本能的に知っている。自分にはまだわからない何か、発見したい何かが、ことばにすれば、自分では発見できなくても、読んだ人がそれを発見してくれる。ことばは、読んだ人のこころのなかで発展する。そして、詩になる。そういうことを知っている。
そして、この、ことばは読んだ人のこころのなかで発展し、詩になる、というのは谷川俊太郎の「思想」そのものでもあると思う。谷川は、いつでも、ことばを発展する余地のあるものとして書いている。発展する可能性を残したまま書いている。自分で書いてしまうのではなく、読者のこころが、新しくことばを書きはじめるのを誘っている。
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