豊原清明「映画詩(一)くしを洗っている女」(「火曜日」95、2008年08月31日発行)
豊原清明「映画詩(一)くしを洗っている女」は、映画のシナリオを詩の形式で書いたもの、というくらいの意味だろうか。描写がカメラの動きをしている。
映画そのものである。カメラが街の広い空間から理髪店に近づいてゆき、だんだん細部へと集中していく。「青い椅子が三台 ある」の1字空きのリズム、一呼吸おいた感じがいよいよカメラがカメラ独自の視点で世界をとらえはじめることを明らかにしている。
クローズアップされる千円札。皺。くっきり映すので、ほんとうはカメラでは伝えることのできない「コーヒーの匂い」までスクリーンからあふれてくるような錯覚に誘われる。
一部前払いなのか、それとも整理券の番号札だろうか。
「白い紙がにょろっ と出てきて」の「にょろっ」まで、ここまでクローズアップがつづく。とても生々しい感覚。「にょろっ」。何をあらわすかわからないけれど、肉体に直接せまってくる「にょろっ」。そして、その後、ここでも1字空きが登場し、そこからカメラのリズムがかわる。かわることがわかる。
とてもいい。カメラの動きが、スクリーンの映像がくっきり浮かび上がってくる。「(うれしい)僕は」は、声には出さないけれど、顔に「うれしい」があふれたクローズアップだ。「女」はまだ「声」だけの登場で、僕と理髪店の「もの」(椅子など)が映し出されているだけだ。ほかの店員がいるとしても、背景として映っているだけで、焦点は当たっていない--そういうことが、1行1行から正確につたわってくる。
「僕」が椅子に座り、いよいよ店員が登場してくる。人が登場してきて、「僕」のこころに作用しはじめる。
ここでも1字空きが大活躍している。「プロの理髪師は普通そんなこと 言わない」。「僕」の胸の中にあらわれたことばだが、1字空いて「言わない」というまでの間。その「間」があることで、「僕」の思いは、普通の思いの領域を超越してゆく。飛躍してゆく。普通、人が思わないようなことまで思いはじめる。
えっ、これ、何? 何だかわからないけれど、ものすごく新鮮な感じに、突然圧倒される。
これはもちろん映像にはならない。カメラではとらえられない。そして、ここに「映画詩」の、映画だけではないもの、映画を超える「詩」がある。
もしこの作品が実際に映画になるときは、この瞬間、カメラはこまれでの映画がとらえたことのない映像を再現しなければならない。どこからかつかみとってこなくてはならない。映像そのものとしては、「僕」が映っている、若い理髪師が映っている、という単純なものだが、その瞬間の映像は、これまで私たちがみたことのある映像ではダメである。何かが超越していなければならない。逸脱していなければならない。こういうものを表現するのが役者の肉体である。役者の肉体が
を、一瞬のうちに表現しなくてはならない。ここでは、いわゆる「存在感」というものが役者に求められることになる。普通の人の肉体がもち得ない超越したもの、逸脱したものが観客を一瞬のうちに引きつけ、とりこにしなければならない。
どんな映画にも、そういうシーンはあって、そういうシーンをハイライトと呼ぶが、この「映画詩」のハイライトは、
である。
映画は(作品は)そのあと、若い女と「僕」のふれあいながらの揺らぎをていねいに描く。ちょっと省略して(この部分も非常にいいのだけれど、わざと省略します。読みたい人は、「火曜日」を手に入れるか、詩集が出るまで待ってください--映画のように、私もわざとじらしておきます)、その映画のおわり。
ユーモラスで、余韻がある。「胸にレモンを注ぐような快感」を、そんなふうに静かに落ち着かせて、映画が終わる。
いいなあ。こういう映画、いいなあ。
ジム・ジャームッシュだって、こんなしゃれた短編は撮れない。ウェス・アンダーソンなら可能だろうか。ぶっ飛んで、ポール・トーマス・アンダーソンなんかにまかせてみるか? あるいは初期の「の・ようなもの」のころの森田芳光ならできるかなあ。むりだなあ、きっと。
豊原清明「映画詩(一)くしを洗っている女」は、映画のシナリオを詩の形式で書いたもの、というくらいの意味だろうか。描写がカメラの動きをしている。
垂水駅のすぐ近くの午前中の散髪屋
店はがらんとしていた
青い椅子が三台 ある
皺の入った コーヒーの匂いのする
千円を入れる
白い紙がにょろっ と出てきて
映画そのものである。カメラが街の広い空間から理髪店に近づいてゆき、だんだん細部へと集中していく。「青い椅子が三台 ある」の1字空きのリズム、一呼吸おいた感じがいよいよカメラがカメラ独自の視点で世界をとらえはじめることを明らかにしている。
クローズアップされる千円札。皺。くっきり映すので、ほんとうはカメラでは伝えることのできない「コーヒーの匂い」までスクリーンからあふれてくるような錯覚に誘われる。
一部前払いなのか、それとも整理券の番号札だろうか。
「白い紙がにょろっ と出てきて」の「にょろっ」まで、ここまでクローズアップがつづく。とても生々しい感覚。「にょろっ」。何をあらわすかわからないけれど、肉体に直接せまってくる「にょろっ」。そして、その後、ここでも1字空きが登場し、そこからカメラのリズムがかわる。かわることがわかる。
白い紙がにょろっ と出てきて
理髪師が言う「こちらへどうぞ」
若そうな女の声
(うれしい)僕は
「丸刈り三ミリ、もみあげは普通でいい」
とぶっきらぼうに言う 椅子に座る
とてもいい。カメラの動きが、スクリーンの映像がくっきり浮かび上がってくる。「(うれしい)僕は」は、声には出さないけれど、顔に「うれしい」があふれたクローズアップだ。「女」はまだ「声」だけの登場で、僕と理髪店の「もの」(椅子など)が映し出されているだけだ。ほかの店員がいるとしても、背景として映っているだけで、焦点は当たっていない--そういうことが、1行1行から正確につたわってくる。
「僕」が椅子に座り、いよいよ店員が登場してくる。人が登場してきて、「僕」のこころに作用しはじめる。
「担当のかとうと言います。よろしくお願いします。」
この女性は新人なのだろうか?
プロの理髪師は普通そんなこと 言わない
いつも無愛想で口泡吹いているが
しかしサービス精神に富んだ女性に
切ってもらうということは
胸にレモンを注ぐような不思議な快感に
満ちている 顔チラリとしか見なかったが
ここでも1字空きが大活躍している。「プロの理髪師は普通そんなこと 言わない」。「僕」の胸の中にあらわれたことばだが、1字空いて「言わない」というまでの間。その「間」があることで、「僕」の思いは、普通の思いの領域を超越してゆく。飛躍してゆく。普通、人が思わないようなことまで思いはじめる。
胸にレモンを注ぐような不思議な快感
えっ、これ、何? 何だかわからないけれど、ものすごく新鮮な感じに、突然圧倒される。
これはもちろん映像にはならない。カメラではとらえられない。そして、ここに「映画詩」の、映画だけではないもの、映画を超える「詩」がある。
もしこの作品が実際に映画になるときは、この瞬間、カメラはこまれでの映画がとらえたことのない映像を再現しなければならない。どこからかつかみとってこなくてはならない。映像そのものとしては、「僕」が映っている、若い理髪師が映っている、という単純なものだが、その瞬間の映像は、これまで私たちがみたことのある映像ではダメである。何かが超越していなければならない。逸脱していなければならない。こういうものを表現するのが役者の肉体である。役者の肉体が
胸にレモンを注ぐような不思議な快感
を、一瞬のうちに表現しなくてはならない。ここでは、いわゆる「存在感」というものが役者に求められることになる。普通の人の肉体がもち得ない超越したもの、逸脱したものが観客を一瞬のうちに引きつけ、とりこにしなければならない。
どんな映画にも、そういうシーンはあって、そういうシーンをハイライトと呼ぶが、この「映画詩」のハイライトは、
胸にレモンを注ぐような不思議な快感
である。
映画は(作品は)そのあと、若い女と「僕」のふれあいながらの揺らぎをていねいに描く。ちょっと省略して(この部分も非常にいいのだけれど、わざと省略します。読みたい人は、「火曜日」を手に入れるか、詩集が出るまで待ってください--映画のように、私もわざとじらしておきます)、その映画のおわり。
僕はフーッとため息をして
店を出た
丸刈り三ミリか
今はあつくもない梅雨
もっとしゃんしゃん
暑くなってくれや
父と合流
題名も知らない映画にJRの普通電車に乗って
ぷっと父は笑った
「円形脱毛しとる
白髪も生えとる」
弱冷車
老人の横で うわーっと欠伸する子供
ユーモラスで、余韻がある。「胸にレモンを注ぐような快感」を、そんなふうに静かに落ち着かせて、映画が終わる。
いいなあ。こういう映画、いいなあ。
ジム・ジャームッシュだって、こんなしゃれた短編は撮れない。ウェス・アンダーソンなら可能だろうか。ぶっ飛んで、ポール・トーマス・アンダーソンなんかにまかせてみるか? あるいは初期の「の・ようなもの」のころの森田芳光ならできるかなあ。むりだなあ、きっと。
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