詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「夏日断想集」

2008-09-08 11:10:04 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「夏日断想集」(「現代詩手帖」2008年09月号)

 ことばは逸脱する。国語をその国民の到達した思想の頂点であるというようなことを三木清は言ったが、そうすると逸脱することばとは、何になるのだろうか。別に何になってもかまわない(定義はどうでもいい)ことだろうが、私はちょっと「肉体」と読んでみたい気持ちになっている。「思想」に対して「肉体」。「思想」を支えている「肉体」と。それは切り離せないものだろうけれど、切り離せないにもかかわらず、何か違うなあと思えるもの、「肉体」。
 そういう思いは、たとえば岡井隆「夏日断想集」を読んだときに、ふいに、襲ってくる。「断想集」の「1」。

「加茂川の対岸をつまづきながらやつてくる君の遠い右手に触りたかつた」といふ歌を若い女性歌人が提出したとき「雷雲が圧迫してやまないためなのだろう特別にまた来日(らいじつ)のない憂愁の中に居たことであつた」と私も同じ座の文芸に参加して苦しげに歌つた「来日」といふ漢語が嫌はれて入点した数は女流が四私は零だ「つまづく」より躓くの方がいいのになあ「汝をして躓かしめる力は汝をして立ち上がらしめる力なり」(チマブエ)

 「女流歌人」の歌の「つまづく」にこだわって「躓く」の方がいいと思う。その思いは、「躓く」ということばを岡井が「汝をして躓かしめる力は汝をして立ち上がらしめる力なり」といっしょに記憶しているからである。その「記憶」が岡井の「肉体」である。「つまずく」ということばを岡井は知っている。(だれもが知っている)。ただし、その「知っている」には不思議な領域がある。岡井はチマエブをひいているが、もちろん、それはチマエブ自身のことばではない。というか、チマエブを訳したひとのことばである。あるいは「表記」である。ことばは「表記」とともにある。

 「表記」は「思想」だろうか? 「肉体」だろうか?
 これは、ちょっとわからない。考えはじめると長くなるので、省略して……。

 マチエブのことばは、「つまずく」(つまづく)と書こうが「躓く」と書こうが、その意味・内容にかわりはない。それでも、やはり岡井はこだわるのである。女流歌人の歌の「つまづく」も「躓く」と書いたところで、その意味・内容はかわらない。それなのに、岡井は、「躓く」がいい、とわざわざ書く。
 ことばは意味・内容を逸脱して、どこかとつながっているのである。そのつながりを、あれこれ書くことはむずかしい。具体的に書くのがむずかしいわけではない。実際、岡井はマチエブを例にひいて、「ほら、こんなふうに漢字で、躓くの方が……」と示している。そして、それが具体的であるからこそ、何だか説明がむずかしいのである。
 抽象的なことがらは難解といわれがちだが、具体的な方がもっと難解である。「理由」はどこまで言っても説明できない。ことばを覚えたときの、あいまいな何かが作用して、「つまづく」ではなく「躓く」だよなあ、と思う。それだけのことである。それだけのことであるが、そのそれだけのなかに、岡井のすべてがある。

 ことばは何かとつながっている。

 国語がその国の思想の頂点であるというときも、その国語は国民の何かとつながっている。もちろん「頭」ともつながっているが、「肉体」ともつながっている。個人個人の「肉体」はもちろんだが、国語の歴史(ことばの歴史、文学)ともつながっている。それは具体的でありすぎて、どうにも説明ができない。
 「思想」(頭)と「肉体」を分離できないように、ぴったりは重なっている。
 ぴったりと重なっているけれど、重なりながら、やはり逸脱している。
 たとえば、女流歌人の歌と、チマブエのことばは、同じ「躓く」ということばをもっているが、何かが違う。その差異。逸脱。その瞬間に、ふっと見える「肉体」。そこに「詩」がある。あ、このひとのことばは、こんなところとつながっているだ、とわかった瞬間に、そのひとがよりくっきり見えてきて、何か新しいものを見た、という気持ちになる。その「新しいもの」という感覚を呼び起こす「肉体」。そこに「詩」がある。
 岡井のことばは、そういう「肉体」へと、すっと、動いてゆく。

 「3」の「断想」は、その「肉体」を「不満」ということばで言い直している。(岡井は「肉体」ということばをつかっていないので、私がかってに「不満」を「肉体」のようなものと読み替えている、といった方が正確かもしれないが。)

「細部」とは魅力のある言葉だがたぶんSAIBUの母音配列が効いているためだろうと昔の教師が言つてゐた細部つて微細な部分といふ定義では不満で花ならば蜜房の香りつてところだ西欧では神のまします場所東洋ではそこに汗くさいひとを置く

 「意味・内容」を抽象ではなく、より具体的に書いてしまう。「具体」へと逸脱して行って、抽象を濁してしまう。混沌とさせ、そこから何かが動いてくるのを待つ。それが「肉体」のすべてである。そして、その動きの出発点には「不満」がある。「肉体」が納得しないものがある。「肉体」はよりぴったりとする「具体」をもとめつづける。
 「蜜房の香り」から、「汗くさいひと」へ。--それは、まだ、ことばになっていないことば。「詩」はまだことばになっていないことば。もちろんそれはどこかとつながっているが、そのつながりから、ふわっと浮いてきて、この「肉体」を洗い清めていく。その瞬間、なんとも言えない自由が満ちてくる。
 あることばが、既成のテキストから分離してきて、いまここにある「肉体」の中に動いている何かを洗い清める。そんなふうにして「肉体」をくぐりぬけて、ことばは既成のテキストから自由になる。そして「肉体」もその瞬間、洗い清められ、自由になる。そのとき「詩」が輝く。

 この輝きは、三木清のいう「思想」にもあるだろう。含めていいものだろう。「詩」と呼ぶことで。

 詩もまた、その国民(国語)が到達した頂点である。





限られた時のための四十四の機会詩 他―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

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