詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

富岡和秀「アナグラム--それからのX」、かざとしょうこ「春日」

2008-09-13 20:06:51 | 詩(雑誌・同人誌)
富岡和秀「アナグラム--それからのX」、かざとしょうこ「春日」(「MELANGE 」10、2008年09月朔日発行)

 おもしろそうな詩が一気に瓦解するときがある。たとえば富岡和秀「アナグラム--それからのX」。

そんな白い雪を見たのは何年ぶりのことだろうかと女医は回想にふけった
あれは本州奥地の山で、そんなに寒いとは感じなかったが
枯れかけた松の根の近くの雪面に赤い血があちこち飛び散っているのを
同行のランドセルを背負った少年が発見したときには
幾分かの胸の高まりをおぼえ
持っていた絵筆でその情景を女医は急いで描いた
赤い絵筆でさっと刷いたような血の飛び方で
いくつかのしずくの波紋をなして散ったような赤い形状が点々とつづいていた
松の枝には黒鳥が巣を作り、さらに上空では孤を描いて獲物を探す鷲が飛んでいた

 奇妙な文体である。「同行のランドセルを背負った少年が」ということばは、音は美しいけれど、こういうとき「同行」って使うかなあ。だいたい「本州奥地の山」になぜ少年がランドセルを背負って歩いているというのも奇妙なら、女医が絵筆を持っているというのも奇妙である。
 もっとも奇妙なのは、「上空では孤を描いて獲物を探す鷲が飛んでいた」である。「弧を描く」ではなく「孤を描く」。造語まで繰り出して、世界を「わざと」ゆがめている。
 あらゆる「わざと」のなかには、常に詩が存在がする。そこには、それまでのことばではたどりつけない何かがある。--私はいつもそんなふうに感じて詩を読みはじめるが、この富岡の作品は、そういう「わざと」を最後でつまらなくしている。

その回想記のなかには

 れ
  か
   ら
    の
     え
      つ
       く
        す
という文字がアナグラムとして残されていたが
それは無意識をあばくための符号であったことは言うまでもない

 種明かしをしている。
 富岡は単に「アナグラム」を書いてみたかっただけなのである。そして、どういう「アナグラム」であっても、そこにはかならず作者の無意識が反映する。無意識というのは意識がないという意味ではなく、きちんとことばとして成り立っていない意識という意味である。まだことばとして成立していないものは、いつでも詩になる。そういうことを利用して、「アナグラム」という手法をひっぱりだしてきた。
 そして、奇妙、という批評を前提に、「これはアナグラムです」と告げている。そればかりか「それは無意識をあばくための符号であったことは言うまでもない」という、しなくてもいい種明かしまでしている。

 富岡は「わざと」種明かしをしたのだ、というかもしれないけれど、すでにタイトルで種明かしをしているのだから、そんなことをする必要はない。富岡がほんとうに書きたかったのは、「無意識」ではなく、実は、どんなアナグラムであっても、それは

それは無意識をあばくための符号であったことは言うまでもない

 という、「定説」である。富岡は最後の1行を富岡自身が見つけ出した「大発見」のつもりでいるのかもしれないけれど……。
 「定説」のなかには、詩はない。「定説」を詩に生まれ変わらせたいのなら、もっともっと「定説」の「無意識」にまでおりていかなければならない。



 かざとしょうこ「春日」は富岡の詩とは違った手法でできているが、安直さにおいてとても似ている。

春のひかりをそのままうけて
ほっこりと山がふくらんでいる

ゆっくりと大きく蛇行する川が
水鏡におだやかな春山が姿をみせる

ひろい川岸の一角で
灰を撒き手をあわせ
米を撒き手をあわせ
ひっそりと弔いをするひとがいる

 「ほっこり」「ゆっくり」「ひっそり」。そうしたことばが引き寄せる春のおだやかで静かな雰囲気。ことばが重なることで、単独のことばではつたえられないもの、まだことばになっていないもの、詩をつかみとろうとする。そのことはよくわかるけれど、

遙かなるかな
遙かなるもの

 と、安直に「答え」を読まされると、なんだかがっかりしてしまう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする