詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西出新三郎「母」

2008-09-11 08:20:09 | 詩(雑誌・同人誌)
西出新三郎「母」(「石の詩」71、2008年09月20日発行)

 詩はことばでできている。あたりまえのことだが、ことばがあると、そこに「意味」がある。その結果、詩にも「意味」が含まれてしまう。
 西出新三郎「母」には、「母とは何か」という「意味」が書かれている。ごくごく一般的な「意味」では、「母」は「やさしさ」である。この作品も、そうした「意味」をもっている。

神さまは
あちらへもこちらへも出向かなければならないので
困っている人
悲しんでいる人
どの人の家へも行ってあげる
というわけにはいかなかった

神さまはそこで
母を創って
一家にひとりずつ配ってあるいた

一千の家に一千の灯がともり
ひとつの灯の下には
かならずひとりの母がいる

人びとは母をまんなかに
夕餉の卓をかこみ
きょう一日の
困ったことや
悲しかったことを
きいてもらう

雪が降ってきた
あとからあとから
舞いおりる雪の中を
一千の灯がぐんぐんと
空へのぼってゆく

そこに神さまがいるかどうかは
べつにして
母は眠ってしまった子どもたちを
ひとりずつ抱きあげては
ベッドに運んだ

 この「母」は夢であり、願いかもしれない。思い出かもしれない。時間を超えて、ずーっと存在しつづける「意味」、つまり「永遠」というものかもしれない。その「意味」のなかにも詩はあるけれど、私がそれよりも詩を感じたのは「雪が降ってきた」からの連である。
 そこには「母」は描かれていない。人間が描かれていない。ただ「灯」が暮らしの象徴として描かれている。そして、雪が。
 雪が降るのを見上げた経験があるひとならわかると思うが、ひっきりなしにふってくる雪を見上げていると、体が浮いてくるように感じるときがある。雪が降ってくるのではなく、「私」が雪の中を空へ向かってのぼっていく。そういう錯覚にとらわれることがある。
 この上昇感と「灯」を結びつけたところに、この作品の「詩」がある。

 私たちはいつでも「ここ」から出発して、「ここ」ではないところへ行く。「ここではないところ」がどこかなどはだれにもわからない。わからないけれど、そんなふうにして「ここ」を離れてしまうのは、とても美しい。
 「ここ」を離れるというのは、芸術なのだ。「現実」を離れるというのは、芸術なのだ。
 その離れて行く「主語」として、西出は「灯」を描いている。「灯」のなかには暮らしがあり、暮らしの中心には「母」がいる。「母」が守りつづける「灯」。それが、みんな、雪の中をのぼっていく。暮らし、暮らしを守ること--それが芸術になる。その一瞬。それが、とても美しい。

 三好達治の詩も美しいが、その美しさに匹敵する美しさが、「雪が降ってきた」の連にはある。



 引用するとき、作品の最後の2行を省略した。西出がほんとうに書きたい「意味」は、その2行にあるのかもしれない。だが、私にはそれが「意味」でありすぎて、うるさく感じられた。「意味」は「意味」でいいけれど、「意味」になりきれていない部分、「雪が降ってきた」の連のことばの動きが、私は好きである。
 その連には流通する「意味」では語れないものがある。ほんとうの「美」がある。最後の2行は、そういう「美」そのものの動きを固定してしまう。「美」にとって固定は「死」に等しい、と私は思う。






家族の風景
西出 新三郎
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