詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを『幻帖』

2008-09-23 11:49:44 | 詩集
岩佐なを『幻帖』(書肆山田、2008年09月20日発行)

 雑誌に発表されたとき、何回か取り上げたことがあるけれど( 1回だけ?)、岩佐なをの語法は最近とてもおもしろい。きのうの日記で取り上げた中島悦子の「ずれ」が「ずれ」というより「飛躍」なのに対し、岩佐なをは「飛躍」なのに「ずれ」なのだ。
 8ページ。

描かれていたもののの主題だけは
およそわかっていて
そのひとつが「まぼろしの塔」
と「塔のまぼろし」
いまひとつが「幻のいきもの」
と「いきものの幻」
なんまいもなんまいもなんまいだ鳥女神の
鳶色の羽から繰り出される
札ふだ札ふだ札ふだだだだ

 「なんまいもなんまいもなんまいだ鳥女神の」の「なんまい」(何枚)から「なんまいだ」(南無阿弥陀)への変化は「飛躍」である。そこには何の論理のつながりもない。「A点からE点までの直線がずれていく。」(「小川」中島悦子)どころか、それが「直線」としてつながっているかどうかさえわからない「飛躍」である。論理的には(たとえば数学的には)つながりがない。ところが、それは「飛躍」ではなく、「ずれ」にしかすぎない。
 なぜか。
 「なんまい」と「なんまいだ」は「何枚」と「何枚だ」でもあるからだ。そこに同じ音、同じ音を繰り出す「肉体」がからんできて、肉体の力が「何枚だ」を「南無阿弥陀(仏)」に変えてしまうからである。「飛躍」(ずれ)を呼び起こしているのは「頭」(論理)ではなく、肉体にしみついた「思想」だからである。「南無阿弥陀(仏)」の仏教の教えそのものの本質とは無関係に、ただ繰り返す習慣としての「南無阿弥陀(仏)」というものがある。そして、それは無意識になってしまっているからこそ、ほんとうは、ややこしい教義を超えて「思想」になってしまっているとも言えるのだが。(肉体に染みつき、肉体を動かす無意識、たとえば思わず南無阿弥陀仏とつぶやいてしまうことばこそ、ほんとうは思想である。人間を支えている何かである。そんなふうに無意識になってしまうくらい定着してしまったのだ。)
 岩佐は「頭」のなかでことばを動かすのではなく、肉体のなかでことばを動かす。そのために「飛躍」が「ずれ」になってしまう。何かが違うのだけれど、何かが違うかを「明確なことば」(デジタルなことば、「頭のことば」、たとえば中島の使った「A点からE点までの直線」というような表現)では言い切れないものが、ふっと出てくる。何かが違うのだけれど、それをきちんと指摘するのはとてもめんどうなので、まあ、いいかっ、とその瞬間だけ浮かび上がらせて、あとは流してしまう(なかったことにしてしまう)ような「ずれ」、許容できる範囲のこととしてしまうのである。
 私の書いたことは、ちょっとうるさすぎたかもしれない。岩佐は、9ページで「頭」と「肉体」、「ずれ」と「飛躍」を別なことばで簡単に書いている。

記憶のようでもあるのです。
想像のようでもあるのです。
いや、はっきりした知覚のような。
「はっきりなのに、ような、なんですか」
はっきりとようななんです。
「ばかですね」
すみません。

 「何枚だ」と「南無阿弥陀(仏)」は「知覚」(頭)にとってははっきりと違ったものである。「なんまい」と「なんまいだ」、「なんまいだ」と「なむあみだ」もアナウンサーのことば(知覚されることを意識することば)でははっきり違ったものである。ところが、おじいさん、おばあさんが、頼りなくなったときにふともらす「なんまいだ」と「南無阿弥陀」は音として違ったものではない。とても似ている。
 岩佐を真似して言えば。

「なんまいもなんまいもなんまいだ鳥女神の」の
「なんまいだ」は「南無阿弥陀」のようでもあるのです。
「なんまいだぶつ」のようでもあるのです。
いや、はっきりそう聞こえたような。

 実際、私はこの詩を最初に読んだときから「なんまいだ」は「何枚だ」ではなく、「南無阿弥陀仏」がお年寄りの口のなかで繰り返す「なんまいだ(南無阿弥陀仏)」とはっきり聞こえた。
 「何枚だ」を「南無阿弥陀(仏)」と聞き取ることに対して「ばかですね」と批判されれば「すみません」と、やはり岩佐の詩にならって言うしかない。「なんまいだ」が「何枚だ」であるのは、その後につづく「繰り出される/札ふだ……」を関連づければ明確である、と指摘されれば、やはり「すみません」というしかない。
 しかし、私は「なんまいだ」を「南無阿弥陀(仏)」と誤読したいのだ。誤読する「肉体」の力の方を、「何枚だ」と冷静に分析する「頭」よりも優先したいのだ。

 ことばは「頭」のなかでも暴走する。どこまでも自由に動き回る。多くの現代詩はそういう冒険を試みている。
 岩佐はそれに対して、ことばを「肉体」のなかで暴走させる。耳や舌、喉、口蓋、そういうもののなかで暴走させる。それは、あまりにも肉体になじみすぎているので、もしかすると「暴走」とは意識されないかもしれない。しかし、その動きは「頭」から見つめなおせば「暴走」である。おいおい、そんなことをおおっぴらに言うなよ、という感じのことがらである。
 たとえば、14ページ。

鳥のおんなは
鳥の表情でかなしんだ。
かなしんでしんだんだ、

 「かなしんだ」ということば(音)のなかに「しんだ」がある。だからといって、「かなしんでしんだんだ」というリズムを楽しむようにして言うなよ、不謹慎だぞ、と日常なら言われるかもしれない。けれど、ここに書かれているのは詩である。日常ではない。だから、そんなふうに「暴走」していのだ。そんなふうにしてことばを「暴走」させる力が肉体にある、その肉体を楽しむことが生きるということでもある。

 ことばは、岩佐にとっては、肉体を取り戻すための方法なのかもしれない。岩佐はエッチング(私の把握の仕方が正しいかどうかしらないが)もつくっている。この詩集のなかには岩佐の作品が取り込まれているが、そうした絵も、岩佐にとっては肉体を取り戻すための方法なのだろう。

 で。

 で、というものなんなのだけれど、肉体というのは、やっぱり好みがありますねえ。私はやっぱり岩佐の浮かび上がらせる肉体というのもが、どこか気持ち悪い。かなり長い間岩佐の作品(詩も、エッチングも)を見ているのだが、あいかわらず気持ちが悪い部分がある。卑近なたとえで言うと、たとえば岩佐が女性だとして、いま、その前にいたとして、そのときキスしたいとか、触りたいとかいう気持ちになるかというと、あ、遠慮します、という感じである。私のいう気持ち悪さというのは。それはもっと具体的に言うと、私の場合、たとえば松坂慶子。「美人」で通っていますね。たしかに「美人」だとは思いますよ。でも、私は「あ、遠慮します」という人間です。
 どうして、と言われると、とても困るけれど。

 最近は、まあ、私も大人になってきたのか、その気持ち悪さ(岩佐の気持ち悪さ)が岩佐のいちばんいい部分なんだなあ、わかってきて、なるべく気持ち悪いとは書かないようにしているのですが。(といいながら、今回は書いてしまったけれど。)

 こんな余分なことは、書かない方がいいのかもしれないけれど、ついつい、岩佐の詩が楽しくて(気持ち悪くても楽しいということはある、泥んこは最初はぬるぬるしていて気持ち悪いけれどいったん遊びはじめるとやみつきになるように)、書いてしまった。
 岩佐さん、ごめんなさい。



岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
岩佐 なを
思潮社

このアイテムの詳細を見る

鏡ノ場
岩佐 なを
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする