田中宏輔「A DAY IN THE LIFE」ほか(「あんど」9、2008年08月20日発行)
田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。-だれよりも美しい鼻であったプレイグに捧ぐ」は●シリーズ(?)の1篇。その書き出し。
手紙のように書きだされている。「森川さん」とは「あんど」を発行している森川雅美を指しているだろうから、手紙そのものと勘違いしそうである。そして作品も、友人への手紙のように日常のこと、思ったことがつづられていく。
途中、
ということばがあり、最後に恋人の置き手紙がある。
「●言葉●言葉●言葉」。シェークスピア。しかし、シェークスピアを忘れてしまう。そこにあるのは「ことば」ではなく「肉体」である。
田中の詩を読んで感じるのは、いつも「肉体」である。それは冒頭の「森川さん」という呼びかけにつながる確かさである。いや、それを超える確かさである。
私は田中も森川も知らない。彼らの肉体を見たことがない。つまり、ほんとうに実在するのか、ふたりはほんとうに別人なのかということを、私は知らない。知らないけれど、ふたりは同時に同じ場所に存在しうること--つまり、完全に別の肉体をもった生きた人間であると感じることができる。
そして、この最後の恋人の置き手紙。置き手紙というには短すぎるメモ。その数々。そのひとことひとことに「肉体」を感じる。そして、その「肉体」のたしかさが、田中自身の「肉体」をさらにしっかりしたものにしていくのを感じる。恋人の(たぶん、そのメモの数だけの恋人の)ことばに向き合いながら、田中の「肉体」が増幅していく、増殖していくのを感じる。たしかな「いのち」を感じる。
田中は「頭」ではなく、「肉体」でことばを書いている。そのとき、ことばは「言葉以上の言葉」にかわる。
つまり、悲しみに、かわる。
この悲しみは、「いのち」のことである。
「いのち」には「頭」で考えるような「意味」はない。ただ、そこに存在する、それだけのことである。存在すること。それ自体で完結する。そういう完結と結びつき、その存在を納得できるのは「肉体」だけである。
ことばを書きながら、ことばがいらなくなる。そして、ことばがいらないくなったとき、ほんとうはことばがほしくなる。「肉体」を超えてみたくなる。
それが、詩、だ。
田中の恋人たちはたぶん「文学」とは無縁である。「ごめりんこ」などと書いてしまう。しかし、その「文学」とは無縁のことばが、ふいに、楽々と「肉体」を超えて、田中の「いのち」に直接触れる。詩、そのものとして、「いのち」に触れてくる。
ことばは、書いた人の力だけでことばになるのではない。
田中の恋人たちの書いたことばは、田中の「肉体」に触れた瞬間、田中の「肉体」を突き破り、その「肉体」のなかで、詩に生まれ変わる。
その瞬間を、田中は、詩として提出している。
言い直そう。
田中は、恋人たちのことばに触れたとき、田中自身の「肉体」を超えて(肉体を捨て去って)、恋人たちの「いのち」の、形にならない何かに触れるのだ。悲しみに触れるのだ。生きていることの悲しみに触れるのだ。
そのとき、田中の「肉体」が詩になる。
そういう瞬間が、そういう「いのち」がほしい、と田中は書いている。ことばのなかで、そんなふうに生まれ変わろうとしている。
*
斎藤恵子「悲しめること」。この短いエッセイは田中の書いている悲しみにつながる。
たしかにそうなのだと思う。「悲しめる」とは「いのち」を確かめる、実感することである。「いのち」に直接触れたとき、ひとは安らぎを覚える。
恋人たちのメモを次々に書き写すとき、田中は、そのメモが書かれた時間をとりもどす。そのことばが書かれたときの「いのち」をとりもどす。「肉体」をとりもどす。そうしたことを、斎藤は、次のように書いている。
田中宏輔「A DAY IN THE LIFE。-だれよりも美しい鼻であったプレイグに捧ぐ」は●シリーズ(?)の1篇。その書き出し。
●森川さん●過去の出来事が自分のことのように思えない●って書かれてましたが●たしかに人生ってドラマティックですよね
手紙のように書きだされている。「森川さん」とは「あんど」を発行している森川雅美を指しているだろうから、手紙そのものと勘違いしそうである。そして作品も、友人への手紙のように日常のこと、思ったことがつづられていく。
途中、
●才能とは他人を幸福にする能力のことを言う●恋人の置き手紙のあいだに●こんなことばが●自分の書いたメモがはさまっていました
ということばがあり、最後に恋人の置き手紙がある。
●あっちゃん●少しですが食べてね●バナナ置いてくからね●これを食べてモリモリげんきになってね●あつすけがしんどいと●おれもしんどいよ●二人は一心同体だからね●愛しています●なしを●冷蔵庫に入れておいたよ●大好きだよ●お疲れさま●よもぎまんじゅうです●少しですが食べてくだされ●早く抱きしめたいおれです●いつも遅くにごめんね●お疲れさま●朝はありがとう●キスの目覚めは最高だよ●愛してるよ●きのうは楽しかったよ●いっぱいそばにいれて幸せだったよ●ゆっくりね●きょうは早めにクスリのんでね●大事なあつすけ●愛しいよ●昨日は会えなくてごめんね●さびしかったんだね●愛は届いているからね●カゼひどくならないように●ハダカにはしていからね●安心してね●笑●言葉●言葉●言葉●これらは言葉だった●でも単なる言葉じゃない●言葉以上の言葉だった
「●言葉●言葉●言葉」。シェークスピア。しかし、シェークスピアを忘れてしまう。そこにあるのは「ことば」ではなく「肉体」である。
田中の詩を読んで感じるのは、いつも「肉体」である。それは冒頭の「森川さん」という呼びかけにつながる確かさである。いや、それを超える確かさである。
私は田中も森川も知らない。彼らの肉体を見たことがない。つまり、ほんとうに実在するのか、ふたりはほんとうに別人なのかということを、私は知らない。知らないけれど、ふたりは同時に同じ場所に存在しうること--つまり、完全に別の肉体をもった生きた人間であると感じることができる。
そして、この最後の恋人の置き手紙。置き手紙というには短すぎるメモ。その数々。そのひとことひとことに「肉体」を感じる。そして、その「肉体」のたしかさが、田中自身の「肉体」をさらにしっかりしたものにしていくのを感じる。恋人の(たぶん、そのメモの数だけの恋人の)ことばに向き合いながら、田中の「肉体」が増幅していく、増殖していくのを感じる。たしかな「いのち」を感じる。
田中は「頭」ではなく、「肉体」でことばを書いている。そのとき、ことばは「言葉以上の言葉」にかわる。
つまり、悲しみに、かわる。
この悲しみは、「いのち」のことである。
「いのち」には「頭」で考えるような「意味」はない。ただ、そこに存在する、それだけのことである。存在すること。それ自体で完結する。そういう完結と結びつき、その存在を納得できるのは「肉体」だけである。
ことばを書きながら、ことばがいらなくなる。そして、ことばがいらないくなったとき、ほんとうはことばがほしくなる。「肉体」を超えてみたくなる。
それが、詩、だ。
田中の恋人たちはたぶん「文学」とは無縁である。「ごめりんこ」などと書いてしまう。しかし、その「文学」とは無縁のことばが、ふいに、楽々と「肉体」を超えて、田中の「いのち」に直接触れる。詩、そのものとして、「いのち」に触れてくる。
ことばは、書いた人の力だけでことばになるのではない。
田中の恋人たちの書いたことばは、田中の「肉体」に触れた瞬間、田中の「肉体」を突き破り、その「肉体」のなかで、詩に生まれ変わる。
その瞬間を、田中は、詩として提出している。
言い直そう。
田中は、恋人たちのことばに触れたとき、田中自身の「肉体」を超えて(肉体を捨て去って)、恋人たちの「いのち」の、形にならない何かに触れるのだ。悲しみに触れるのだ。生きていることの悲しみに触れるのだ。
そのとき、田中の「肉体」が詩になる。
そういう瞬間が、そういう「いのち」がほしい、と田中は書いている。ことばのなかで、そんなふうに生まれ変わろうとしている。
*
斎藤恵子「悲しめること」。この短いエッセイは田中の書いている悲しみにつながる。
詩は、今、悲しめることを問うている。
たしかにそうなのだと思う。「悲しめる」とは「いのち」を確かめる、実感することである。「いのち」に直接触れたとき、ひとは安らぎを覚える。
恋人たちのメモを次々に書き写すとき、田中は、そのメモが書かれた時間をとりもどす。そのことばが書かれたときの「いのち」をとりもどす。「肉体」をとりもどす。そうしたことを、斎藤は、次のように書いている。
悲しみはじぶんだけのものだが、作者の気持ちに自分の気持ちを重ねて読むことで心を静めることができる。/悲しみの中にも安らぎはある。
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