歌ノ影高橋 秀明響文社、2008年09月09日発このアイテムの詳細を見る |
高橋秀明『歌ノ影』(響文社、2008年09月09日発行)
文字と文体が非常に美しい。書道で言うと楷書の美しさである。最近、こういう美しい文字と文体に出会った記憶がない。
冬来だりなば春遠からじ 風は雲を裂き 雲は氷雨を地に降らし刺すと言えど 暗雲が閉ざす地平線のてまえ 寒風に屹立するふるえは葉をすべて落とした木立ばかりのものではない あるかぎりの葉を奮い落とし わたしの怯懦も 期待というふるえる地平に立っている
(「晩秋平野」)
八月の山行。理念はその透明な腰を曲げて歩き続ける。ぬかる赤土の山道はつづら折りに見晴台へ続くはずだが、ときに長い下り坂となり、ときには道が笹藪に隠されてしまうから、見晴台の高みへと登っているのだという確信は今揺すぶられ続けている。不審と不安の鈴音を耳に、それでも理念が歩行を続けることができる支えと言えば、直感と、まちがいならいつでも引き返すことができるという計算だけなのだ。
(「山行」)
たとえば「雲は氷雨を地に降らし刺すと言えど」という文体。とくに「言えど」。いまは、こういう言い方は口語ではしない。少なくとも、私は、しない。これは楷書で言えば、画をしっかりとおさえた部分である。筆がしっかりとまり、それまでの向きを変える。左から右へ動いてきた筆がいったんとまり、しっかりと下へ向きを変える。あるいは上から下へ動いてきた筆がしっかりと筆先を止め、いきおいをためて、かっちりと右へ動く。その動き、ことばが次に、いままでとは違った方向へ動くということをしっかりと意識させる。そして、方向転換したあとも、そのことば(筆)の勢いは正確にそれまでの勢いを維持している。これはとても気持ちがいい。
正確なことば(筆)運びは、またリズムをつくりだして行く。「山行」の書き出し。「八月の山行。」という短いことば。これは、楷書で言えば、最初の筆が正確におろされた一点である。そこで筆は筆に含まれた墨を確認し、紙の感触を確かめている。それから、しずかに動く。「理念はその透明な腰を曲げて歩き続ける。」筆と紙の相性を確かめたあと、筆は勢いを増し、すばやく動く。「ぬかる赤土の山道はつづら折りに見晴台へ続くはずだが、ときに長い下り坂となり、ときには道が笹藪に隠されてしまうから、見晴台の高みへと登っているのだという確信は今揺すぶられ続けている。」この短・中・長という感じの、自然な移行が、とても美しい。いったん、そうやって動いたあと、息をととのえ、「不審と不安の鈴音を耳に、」という新しい書き出しへ動く。この息のととのえ方も気持ちがいい。
こうしたリズムがあるからこそ、「それでも理念が歩行を続けることができる支えと言えば、直感と、まちがいならいつでも引き返すことができるという計算だけなのだ。」の「言えば」を画として、ぐいと動く別方向への移動が、そのまま意識をぐいとひっぱる。楷書ならではの美しさである。
この美しさの基本をつくっているのは、古典である。この詩集にはいくつもの引用がでてる。引用とは出典があるということである。そして、高橋のことばは、古典のことばの強みを引き継いでいる。引用とは、単に先人のことばを利用するということではない。先人のことばの動きを自分で正確にたどりなおすことである。書道で言えば「臨書」。自分のなかにあるきままな腕の動きをいったん殺す。そして、先人の鍛え上げられた腕の動きのなかをとおる。そんなふうにして、自分を肉体として鍛え上げる。
ことばの運動は精神の運動のように見えるが、実は肉体の運動である。
「頭」でことばを動かすのではなく、「臨書」(引用)することで、肉体にことばの動きを覚え込ませる。ことばの意味ではなく、ことばの動きそのものが「思想」として肉体になじむまで、正確に「臨書」(引用)する。その長い長い蓄積が高橋にはあるのだ。
そういうものがくっきりと感じられることば、文字、文体の美しさがある。
こうした訓練の蓄積があるがゆえに、題材が「ウンコ」になっても、そこには汚らしさがない。「わがスカトロジー」の書き出し。
僕はウンコだ。ウンコだウンコだ。歴史の滓で家族の下痢だ。ああ。つかみきれない小文字の他者で、現前する破局の周辺を艶めかしく彩る感情の汚穢だ。ええい。自分の形を崩しながらウンコの内側から外を覗き込むと、いちめん鈍色に煌めく吹雪の想像界である。
「ウンコ」はもっと汚らしく、目をそむけさせるようなものでなければならないという見方もあるかもしれないが、それはまた別の問題である。
高橋は、それをやはり「楷書」で書きとおすのである。「楷書」でも書ける「ウンコ」があることを証明するのである。
*
「楷書」(正確な画)、「臨書」(引用)。それについて触れたとき、たまたま「言えど」(晩秋平野)、「言えば」(山行)という「言う」ということばを含む行に出会った。それはしかし、もしかすると偶然ではないかもしれない。私が、この詩集のなかで、最初に、あ、美しいと思ったのは、次の行である。
また幸せは必ずしも水辺に宿るとはかぎらないとは言え、渇きや苦しみや恍惚でさえあるよりさきに過去の潤いの記憶であるはずなのに。
(「望来」(モウライ))
ここにも「とは言え」と「言う」ということばが入り込んでいる。「言う」というのは、高橋のキーワード(思想の起点)かもしれない。
「言う」ということばで、それまでのことばをいったん対象化する。客観化し、そのあとで別な動きがはじまる。
正確なたとえになるかどうかわからないが、たとえば「臨書」。左手において、それを見る。手本は「言う」のまえにある存在である。「臨書」は、こんなふうに筆を動かすと言っている。それに対して、自分は(高橋は)、それを引き継ぎながらこんなふうに筆を展開する。
「引用」をそれになぞって言えば、たとえば誰それはこんなふうに「言う」。それを引き継いで高橋はこんなふうに考える。そして、ことばを実際に、そうやって動かすのだ。
「言う」。「言う」ときつかわれるのは、ことばである。
これはありりまえすぎて、意識しにくい問題かもしれない。しかし、意識しなければならないのだ、きっと。
高橋は、あらゆることばを「言う」を前提として見直している。言い換えると「臨書」「引用」としてとらえている。高橋がことばを動かすときの、「手本」(対象)として見つめなおしている。そして、自分の肉体にあったものだけを正確に選んでいる。先人のことば、文字、文体そのものを、いわば「言われたもの」(先に存在する「臨書」の手本)として明確に意識している。その意識が、高橋のことば、文字、文体そのものを鍛え上げているのだ。
言葉の河―高橋秀明詩集高橋 秀明共同文化社このアイテムの詳細を見る |