詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

桐野かおる『私の広尾』

2008-09-10 01:31:37 | 詩集
桐野かおる『私の広尾』(砂子屋書房、2008年08月05日発行)

 桐野かおるの詩には不透明なものがある。たとえば、「卍」。

死ねばいいのに と思っていた人が
本当に死んでしまった
しかも私の眼の前で
九階の自室のベランダから飛び降りて

(略)

慌てて駆け寄って下を覗くと
頭のあたりに大きな血溜りをつくり
卍形になったまま

 「死んだ人」というのは何かの比喩かもしれない。比喩かもしれないけれど、「死ねばいいのに と思っていた人が」というのが、なんとも不透明である。そういう気持ちは誰にでもあるだろうけれど、それが実際に起きてしまうと、普通ひとはそれをことばにはしない。どこかでこころの呵責を感じるからかもしれない。
 この詩は、続きを読むと、さらに不思議な気持ちにさせられる。

それしかないという道をつくっておいて
時間をかけ
ゆっくりとそこへ追いこんでゆく
願ってもないこの展開
それにしても
私の意図に気づいていたのかいなかったのか
(略)

一度外した視線を
もう一度地上に戻してみた

大丈夫 確かに死んでいる

私の眼の前で
というのが少し後味が悪いが

これくらいは仕方がないだろう

 「死」が何かの比喩であるとして、その比喩が実のことろ、何の比喩なのかよくわからない。よくわからないけれど、わからないがゆえに、なるほどね、と思うのだ。特に「ま/これくらい仕方がないだろう」という末尾の2行が、不透明さを超えて、ふいに肉体に迫ってくるのである。
 もしかすると桐野は「不透明」なものを書いているのではないのかもしれない。「透明」なのものを書いているかもしれない。「透明」なのものは見えない。「透明」の向こうにあるものだけが見える。本当に見えるのは「透明」とは逆のもの、「不透明」なものである。
 書いてあることが「透明」である、とは、どういうことか。だれもの意識に共有されていること、意識というより「肉体」に共有されていることが書かれていて、それをわざわざことばにする必要がないので、だれもことばにしない。そういうことが書かれているために、本当に書かれていることが何かはわからない。わからない癖して、この気持ち、よくわかる、といいたくなる。肉体が納得してしまう。ことばにはできないけれど、納得してしまう。肉体だから、ことばを必要ともしない。
 ここにはだれも書かなかった「正直」が書かれているのだともいえる。

 誰かのことをうらむ。死んでしまえばいいのに、と思う。死ぬがおおげさなら、失敗すればいいのに、恥をかけばいいのに、と思う。そのための下準備(罠?)もこしらえる。そして、それが実際に起きてしまう。そのときの後味の悪さ。けれども「ま/これくらい仕方がないだろう」とも思い、自分を納得させる。そういうことは、誰彼にも起きうることかもしれない。それは「理性」ではなく、「肉体」が、人間の「本能」のようなものが、引き起し、同時に、納得することがらである。
 このときの、

これくらいは仕方がないだろう

 の「これくらいは」。ここに、桐野の「正直」と「透明」が凝縮している。「これくらい」って、どれくらい? それはことばにできない。でも、だれもが知っている。知っているつもりになっている。

 桐野の「思想」は「これくらい」でできているのだ。

 「死ねばいいのに」と思う。「これくらい」のことは誰もが思う。「それしかないという道をつくっておいて/時間をかけ/ゆっくりとそこへ追いこんでゆく」。「これくらい」のことはだれもがする。「これくらい」は暗黙の了解である。そして、暗黙の了解であるから、それはことばにしない。
 「透明」と「暗」は一致する。
 見えるものは、「透明」ではないもの、「暗」とは違うもの、不透明なもの、つまり明るい光を反射するものだけである。--世界の見え方を、桐野はそんなふうにとらえているのだろう。そして、そのとらえ方は、私たちの「肉体」が抱えこんでいる「思想」と完全に一致する。肉眼は「透明」なのものは見えない。「暗い」場所でも何も見えない。桐野は何一つ、そのことに関して嘘をついてはいない。つまり「正直」に肉眼の実際を報告している。肉眼とともにある「肉体」のあり方、世界とのかかわり方(つまり、思想)を報告しているのである。

 この「正直」は別のことばでいえば、どういうものか。その「正直」の対極にある世界はどういうものか。「絶叫男」におもしろい行がある。隣の部屋で絶叫する男がいる。絶叫の理由はわからない。

寝言であんな大声を出す人はほかにもいるんだろうか
ジグムント・フロイトの書いた本でも読めば
何か合点のいくことがあるかもしれないが
そういう学問的なことと
こういう日常の卑近なこととを結びつけて考えるのは
何だかこじつけのような気がして気が進まない

 「正直」とは「日常」であり「卑近」である。「肉体」に身についてしまっていて、それを剥がして提示して見せるためのことばはないのである。「いわなくてもわかる世界」である。この対極にあるのが「学問的な世界」である。「頭」でとらえた世界である。「いわなくてもいいこと」を「頭のいい人」はいいたがるものである。「いわなくたっていいことばっかりいって」「そんなこと、いわなくたってわかっているのに」。でも、そんな声は「頭のいい人」には届かない。
 そういうことばが届かない人には、ま、仕方がない。わかってもらえなくてもいい。そういう感じで、桐野のことばは動いている。

 読めば読むほど、味が出てくる。




桐野かおる詩集―1988-2002
桐野 かおる
文芸社

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