詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

一瀉千里「待ちくたびれた鬼」、秋山基夫「薔薇」

2008-09-18 09:52:29 | 詩(雑誌・同人誌)
一瀉千里「待ちくたびれた鬼」、秋山基夫「薔薇」(『四土詩集第Ⅲ集』2008年07月31日発行)

 一瀉千里「待ちくたびれた鬼」は節分の日の様子を描いている。それだけだけれど、不思議と笑いが込み上げてくる。後半部分。

時計を見ると 午後九時半で
そろそろ出番 と
鬼がやってくる
この氷点下じゃ 裸の鬼も辛い
早く用事を済ませたい
いつまで経っても あるじは帰宅せず
いいかげん退散したいと
いらつく鬼をひきとめる

午後十一時四十五分
もう限界と 立ち上がる鬼の背中をめがけて
豆を数回ぶつける
大役すんだと スタコラサッサ
鬼はすばやく 帰っていった
今年は仕事がはかどらなかったと苦言を残し

日にちが回って 午前一時
ようやく帰ったあるじに話すと
そうだったのかともう一回
あるじはひとりで豆をまく
鬼の足跡だけが残る からっぽな節分の夜

 この作品をおもしろくしているのは「と」である。「そろそろ出番 と」の「と」。「いいかげん退散したいと」の「と」。「もう限界と」の「と」。「大役すんだと」の「と」。「今年は仕事がはかどらなかったと」の「と」。「ようやく帰ったあるじに話すと」の「と」。「そうだったのかと」の「と」。
 「と」が世界をつないでいる。
 そして、この「と」は世界をつなぎながらも、世界にどっぷりつかってしまわない。ちょっと距離がある。一種の「客観視」のような気分がある。それが自然とユーモアをかもしだしている。
 一瀉千里は、どこか自分を「と」の力で客観視しているところがある。「鬼」と一瀉はどこかで重なり、どこかで分離している。「いらつく鬼」は「鬼」そのものではなく、一瀉でもあるのだが、随所に出てくる「と」の力で「鬼」にならずに踏みとどまっている。帰宅の遅かった夫に対して不平をいいながらも、相手の様子を「客観的」にみつめている。怒りに没入していない。

 「と」には不思議な、暮らしの「思想」がある。



 秋山基夫「薔薇」は、一瀉千里から「と」を取り除いた世界である。その全行。

雨の季節になった。通りすぎる白い人影が雨にまぎれ、雨は夕闇にまぎれる。

しばらく持ちこたえるだろう
息を吐きそのまま夜の方へ移る

夜の内側を伝い遠い音が聞こえつづける。

コップに水をそそぎ
薔薇をなげこむ

それは飛沫にもまれ断崖の底に落下する。

出来事の縁に盛り上がり
こぼれる記憶

雨が降っている。

 たとえば2連目と3連目のあいだ、その1行空き。そこに「と」を挿入してみる。そうすると、そのつながりがおだやかになる。いったん「夜の方へ移る」という行為をみつめ、それから「夜の内側」へと意識が動いていくのがわかる。4連目と5連目も同じである。「と」を挿入すると、「薔薇をなげこむ」という行為から、薔薇の動きを追う意識へとことばが変化していることがわかる。
 秋山は、一瀉の「と」を拒絶する。そして、「と」を拒絶することで、飛躍する。何から飛躍するかというと、肉体、肉体の暮らしから飛躍するのである。「夜」に「内側」「外側」などというものはない。現実にはないが、しかし、ことばはそういうないものを存在させることができる。意識は、存在しないものを実在させることができる。コップに投げこんだ薔薇が「断崖の底に落下する」ということも現実にはありえない。しかし、意識はそういうイメージを見ることができる。秋山のことばは、いわば「純粋意識」の世界でことばがどんなふうに動きうるかを追求したものである。そして、たぶん、秋山の作品の方が「現代詩」なのかもしれない。

 秋山の詩の方が「現代詩」であるかもしれないけれど、私には、一瀉の作品の方がおもしろい。日常のなかで動いていることばそのもののなかにある「思想」を浮かび上がらせるからである。
 「と」のどこが「思想」なのかと問い詰められると、答えようがないのだが、私は暮らしのなかで人の行為を支え、守っているものより勝る「思想」はないと考えている。暮らしをととのえ、人間を温かくするものが「思想」でなかったら、「思想」の意味はないと考えている。




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