監督 ショーン・ペン 出演 エミール・ハシュート、ハル・ホルブルック、キャサリン・キーナー、ウィリアム・ハート、ヴィンス・ヴォーン
映画を見ながら思い浮かんだことばは、「初恋」。そして「片思い」。
主人公がさまよう自然(都会以外の場所)はとても美しい。大地と水と空気。そのあいだに存在するものいわぬ木々、草花、岩、動物。そのすべてが美しい。その美しさをカメラは存分にとらえる。
それは、人間に汚染されていない。人事に汚染されていない。特に荒野の美は人間を拒絶した美だ。
主人公は、その美に「片思い」をする。
目の前に信じられない美が存在する。それは目にはっきりと見える。ときどき、その美しい存在が自分の目を見てくれたように感じる。その一瞬、まるで自分のすべてがうけいれられたように錯覚する。そういう至福がまずやってくる。「初恋」のときのように。
この野性の美(人事を離れた美、非人情の美)は、すべて自分のものである、と錯覚する。その美に触れるとき、彼自身が人事の汚れから解放される気持ちになる。「自由」を感じる。そのときの、明るく、快活なこころを、そのまま野性は受け入れて輝く。そんなふうにカメラは自然の美しさをとらえる。これはほんとうに美しい。
しかし、これはほんとうの恋ではない。愛ではない。
目で恋をして、目で感じて、あるいは耳で、あるいは肌で(というのは、相手とのあいだで揺れ動く空気を肌で感じる、という意味だが)恋して、主人公は野性と一体になったと錯覚するが、そこにはほんとうの一体感はない。
完全な拒絶にあっているわけではない。野性の草木を食べ、野性の動物を食べ、生きる。でも、たどりつけない。どうしても一体になれない。ときに食べ物がなくなる。飢えが襲ってくる。やっとしとめた獲物は、ハエに奪われ、狼に奪われ、鷲に奪われる。「初恋」のときのように、「現実」というものを知らされる。これが第2段階だ。
どうしても一体になれない。野性そのものが生きている「場」にたどりつけない。その、たどりつけない苦悩のなかで、とぎすまされていく感性。意識。そして、そのとき感じるのだ。それは自分とは一体ではない。それは「自己」(私)の発見へとつながる。自分にできること、できないことがわかってくる。これが「初恋」の第3段階。
拒絶され、だまされ、(自然からいわせれば、勝手な誤解なのだが)、間違って毒草を食べ、衰えて行く主人公。近づいてくる死。
その瞬間、とんでもない至福がやってくる。「世界」が一瞬のうちに切り開かれる。人間が生きる「場」がくっきりと見えてくる。「初恋」の第4段階(最終段階)だ。
「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合ったときだ。」
自分は分かち合えるものをもっていない。そればかりか、もとうとしてこなかった。一方的だった、と自覚する。
主人公の青年は、「人生において必要なのは自分ひとりで生きること、自分の頭と肉体しか頼るものがない状況のなかでひとりで立ち向かうこと、そういうことを体験すること」と考えて、荒野(ワイルド)をめざしたのだが、そこでたどりついたのは、そういう「哲学」とはまったく逆の考えである。
人間が生きるのに必要な哲学はただひとつ「分かち合い」なのだ。
とてもおもしろい。とても充実している。
この映画が最終的に描いているもの、提出しているメッセージが、説教臭くならないのは、何よりも荒野の、野性のはりつめた美しさがきちんと映像化されているからだ。人間を拒絶する荒野の美が、拒絶されてとぎすまされていく意識、片思いの意識と拮抗するように強く描かれている。人間の意識をあざ笑うように剛直に生きる力として描写されている。
たどりつけない美。そこにあるのに、自分とは一体になれない美。それなのに至福をもたらしてくれる美。それは矛盾なんだけれど、その矛盾のひとつひとつが、主人公の感性・生き方に触れてきて、主人公を変えていくのがわかる。
ふと、チェ・ゲバラの青春を描いた「モーターバイスクール・ダイアリー」を思い出した。その作品とも通い合っている。矛盾にぶつかりながら、人生を変えていくという青春のあり方が。
*
この映画は、主人公の青年が荒野をめざした理由を「家庭不和」にもおいているが、ちょっと余分なような気がした。
人間に情をかけない自然は、その拒絶する力だけで、とても美しい。初恋の(片思いの)相手がより美しくなるのは拒絶が明らかになったときである。拒絶という力にあって、それでもその拒絶するものに近づきたいという欲望。そういう矛盾したというか、理性的に考えると無駄な行為に人間を駆り立てる力が人間の中にある。それだけに的をしぼって自然と主人公の対比だけを描けば、「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合ったときだ。」はファミリー・ドラマとは違った次元にまで高まったのではないかと思う。
冒頭の、列車(?)からとらえされた風景(人間の生きている場の近くの自然)さえ、あんなに美しく、はりつめた感じで描出できるのだから、もっともっと自然の美と主人公の対話に集中してほしかった。
欲張りすぎだろうか。
映画を見ながら思い浮かんだことばは、「初恋」。そして「片思い」。
主人公がさまよう自然(都会以外の場所)はとても美しい。大地と水と空気。そのあいだに存在するものいわぬ木々、草花、岩、動物。そのすべてが美しい。その美しさをカメラは存分にとらえる。
それは、人間に汚染されていない。人事に汚染されていない。特に荒野の美は人間を拒絶した美だ。
主人公は、その美に「片思い」をする。
目の前に信じられない美が存在する。それは目にはっきりと見える。ときどき、その美しい存在が自分の目を見てくれたように感じる。その一瞬、まるで自分のすべてがうけいれられたように錯覚する。そういう至福がまずやってくる。「初恋」のときのように。
この野性の美(人事を離れた美、非人情の美)は、すべて自分のものである、と錯覚する。その美に触れるとき、彼自身が人事の汚れから解放される気持ちになる。「自由」を感じる。そのときの、明るく、快活なこころを、そのまま野性は受け入れて輝く。そんなふうにカメラは自然の美しさをとらえる。これはほんとうに美しい。
しかし、これはほんとうの恋ではない。愛ではない。
目で恋をして、目で感じて、あるいは耳で、あるいは肌で(というのは、相手とのあいだで揺れ動く空気を肌で感じる、という意味だが)恋して、主人公は野性と一体になったと錯覚するが、そこにはほんとうの一体感はない。
完全な拒絶にあっているわけではない。野性の草木を食べ、野性の動物を食べ、生きる。でも、たどりつけない。どうしても一体になれない。ときに食べ物がなくなる。飢えが襲ってくる。やっとしとめた獲物は、ハエに奪われ、狼に奪われ、鷲に奪われる。「初恋」のときのように、「現実」というものを知らされる。これが第2段階だ。
どうしても一体になれない。野性そのものが生きている「場」にたどりつけない。その、たどりつけない苦悩のなかで、とぎすまされていく感性。意識。そして、そのとき感じるのだ。それは自分とは一体ではない。それは「自己」(私)の発見へとつながる。自分にできること、できないことがわかってくる。これが「初恋」の第3段階。
拒絶され、だまされ、(自然からいわせれば、勝手な誤解なのだが)、間違って毒草を食べ、衰えて行く主人公。近づいてくる死。
その瞬間、とんでもない至福がやってくる。「世界」が一瞬のうちに切り開かれる。人間が生きる「場」がくっきりと見えてくる。「初恋」の第4段階(最終段階)だ。
「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合ったときだ。」
自分は分かち合えるものをもっていない。そればかりか、もとうとしてこなかった。一方的だった、と自覚する。
主人公の青年は、「人生において必要なのは自分ひとりで生きること、自分の頭と肉体しか頼るものがない状況のなかでひとりで立ち向かうこと、そういうことを体験すること」と考えて、荒野(ワイルド)をめざしたのだが、そこでたどりついたのは、そういう「哲学」とはまったく逆の考えである。
人間が生きるのに必要な哲学はただひとつ「分かち合い」なのだ。
とてもおもしろい。とても充実している。
この映画が最終的に描いているもの、提出しているメッセージが、説教臭くならないのは、何よりも荒野の、野性のはりつめた美しさがきちんと映像化されているからだ。人間を拒絶する荒野の美が、拒絶されてとぎすまされていく意識、片思いの意識と拮抗するように強く描かれている。人間の意識をあざ笑うように剛直に生きる力として描写されている。
たどりつけない美。そこにあるのに、自分とは一体になれない美。それなのに至福をもたらしてくれる美。それは矛盾なんだけれど、その矛盾のひとつひとつが、主人公の感性・生き方に触れてきて、主人公を変えていくのがわかる。
ふと、チェ・ゲバラの青春を描いた「モーターバイスクール・ダイアリー」を思い出した。その作品とも通い合っている。矛盾にぶつかりながら、人生を変えていくという青春のあり方が。
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この映画は、主人公の青年が荒野をめざした理由を「家庭不和」にもおいているが、ちょっと余分なような気がした。
人間に情をかけない自然は、その拒絶する力だけで、とても美しい。初恋の(片思いの)相手がより美しくなるのは拒絶が明らかになったときである。拒絶という力にあって、それでもその拒絶するものに近づきたいという欲望。そういう矛盾したというか、理性的に考えると無駄な行為に人間を駆り立てる力が人間の中にある。それだけに的をしぼって自然と主人公の対比だけを描けば、「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合ったときだ。」はファミリー・ドラマとは違った次元にまで高まったのではないかと思う。
冒頭の、列車(?)からとらえされた風景(人間の生きている場の近くの自然)さえ、あんなに美しく、はりつめた感じで描出できるのだから、もっともっと自然の美と主人公の対話に集中してほしかった。
欲張りすぎだろうか。
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