河邉由紀恵「マミーカー」(『四土詩集第Ⅲ集』2008年07月31日発行)
繰り返しがとても効果的だ。ことばは繰り返されると、それが自然に「肉体」のなかに入ってきて、「意味」がなくなる。そして、その「意味」がなくなった瞬間に、すっ、と別のものにかわる。そこに詩が出現する。
河邉由紀恵「マミーカー」の書き出し。
「おばあさん」が繰り返されるので、おばあさんがどんどん変わって行って、「さなぎ」になってしまっても、それでいいような気がしてくる。というより、「さなぎ」にかわってしまったために、よりくっきり見えてくる。
変でしょ?
その変なところが詩なのである。ありえないことが、ことばの運動のなかで、ありえるものになってしまう。いままで存在しなかったものがことばの力によって目の前に存在しはじめる。それが詩である。
「さなぎ」はもちろん比喩なのだけれど、では、それはなんの比喩? こたえなんかはどこにもなくて、むしろ「比喩」そのものがリアリティーをもって、おばあさんをのみこんでしまう。
だからこそ、河邉はもういちど「マミーカー」をひっぱりだしてきて、おばあさんをもとに戻す。
そんなふうにして、もういちどおばあさんにもどってしまったところで、また「変化」がはじまる。
「さなぎ」は、もういない。そればかりか「さなぎ」が「かわいている」のと違って、反対に、おばあさんは「しんのしんまでしめってくる」。
そして、この「しめってくる」の「くる」がすばらしい。「しめっている」のではなく「しめって・くる」。変化・変質・生成が、ここにある。この変化・変質・生成をへるからこそ、その後、それは一気にかわる。ことばが大転換する。
おばあさんは、突然「わたし」になる。「わたし」になった瞬間、それは読者と重なる。読み手と重なる。私たちが目撃するのは「おばあさん」ではなく、「わたし」(読者)の過去なのである。
「おばあさん」から「わたし」へのこの変化こそ、この作品の本質、詩の中心である。
どのような作品でもそうだが、そのなかに登場する人物が(動物や植物であってもいいが)、それが「わたし」そのものに思える瞬間がある。そのとき、読者は知らずに登場人物を生きている。読者は「わたし」を超えて「わたし」以外の人間になっている。
「わたし」を超えて「わたし」以外のものになる--すべての文学(芸術)は、そのための通り道である。
この大転換を、河邉は「おばあさん」と「マミーカー」ということばを繰り返すことで、てとても自然に、なんでもないことのように実現している。繰り返しのことばが、読者を無意識に誘うことを知っているようだ。いったん無意識をくぐるからこそ、大転換が「大」とも「転換」とも意識されないような(つまり、無意識のまま)、そこに出現する。
とてもいい作品だ。
繰り返しがとても効果的だ。ことばは繰り返されると、それが自然に「肉体」のなかに入ってきて、「意味」がなくなる。そして、その「意味」がなくなった瞬間に、すっ、と別のものにかわる。そこに詩が出現する。
河邉由紀恵「マミーカー」の書き出し。
夕方になるとおばあさんはマミーカーを押してだりや荘を出るがらがらとマミーカーの音をひびかせておばあさんは区民センターの前を通りすぎるおばあさんはだれとも喋らないからおばあさんの舌はもう小鳥の舌よりも短いおばあさんは手入れをしないからおばあさんの髪はもう白くてぼうぼうだおばあさんは日の光りにあたらないからおばあさんはもうさなぎのようにかわいている
「おばあさん」が繰り返されるので、おばあさんがどんどん変わって行って、「さなぎ」になってしまっても、それでいいような気がしてくる。というより、「さなぎ」にかわってしまったために、よりくっきり見えてくる。
変でしょ?
その変なところが詩なのである。ありえないことが、ことばの運動のなかで、ありえるものになってしまう。いままで存在しなかったものがことばの力によって目の前に存在しはじめる。それが詩である。
「さなぎ」はもちろん比喩なのだけれど、では、それはなんの比喩? こたえなんかはどこにもなくて、むしろ「比喩」そのものがリアリティーをもって、おばあさんをのみこんでしまう。
だからこそ、河邉はもういちど「マミーカー」をひっぱりだしてきて、おばあさんをもとに戻す。
おばあさんのマミーカーは五福饅頭店をすぎ揚柳の布がかかったさくら整骨院をすぎさらに路地をまがりさらにお好み焼きぼっこうをすぎ(略)
そんなふうにして、もういちどおばあさんにもどってしまったところで、また「変化」がはじまる。
おばあさんはここまでくるといつもあまいようないたいようなへんな気持ちになるおばあさんのかわいた体は桃の湯の湯気によってねっとりとしずかにしめってくる本当におばあさんの唐田はしんのしんまでしめってくる
「さなぎ」は、もういない。そればかりか「さなぎ」が「かわいている」のと違って、反対に、おばあさんは「しんのしんまでしめってくる」。
そして、この「しめってくる」の「くる」がすばらしい。「しめっている」のではなく「しめって・くる」。変化・変質・生成が、ここにある。この変化・変質・生成をへるからこそ、その後、それは一気にかわる。ことばが大転換する。
毎日会いつづけないとだめなのよしめったこの場所であのひとは盃からお酒をのむようにわたしの髪をひとすじ口にふくんで遠い目をして泣いていたわたしは泣いているあのひとのうすい背中をさすりつづけたぬるいお湯のなかでわたしたちの膝は洋梨のようにゆがんでゆらゆらゆれていた
おばあさんは、突然「わたし」になる。「わたし」になった瞬間、それは読者と重なる。読み手と重なる。私たちが目撃するのは「おばあさん」ではなく、「わたし」(読者)の過去なのである。
「おばあさん」から「わたし」へのこの変化こそ、この作品の本質、詩の中心である。
どのような作品でもそうだが、そのなかに登場する人物が(動物や植物であってもいいが)、それが「わたし」そのものに思える瞬間がある。そのとき、読者は知らずに登場人物を生きている。読者は「わたし」を超えて「わたし」以外の人間になっている。
「わたし」を超えて「わたし」以外のものになる--すべての文学(芸術)は、そのための通り道である。
この大転換を、河邉は「おばあさん」と「マミーカー」ということばを繰り返すことで、てとても自然に、なんでもないことのように実現している。繰り返しのことばが、読者を無意識に誘うことを知っているようだ。いったん無意識をくぐるからこそ、大転換が「大」とも「転換」とも意識されないような(つまり、無意識のまま)、そこに出現する。
とてもいい作品だ。
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