平田好輝「長年」(「現代詩手帖」2008年09月号)
「あっというまに」という小詩集のうちの1篇。作品の終わり方がとてもいい。全行。
黒板拭きを使う仕事を
わたしは長年やってきた
教室を出るとき
自分が書いた字が一字も残っていないように
黒板拭きで隈なく消してから
出てきた
そんなことを四十年もしてきたのだが
白墨の粉をおびただしく余分に吸ったことは
まちがいない
書いた字を平気で残す人々が
羨ましかったが
わたしにはできないことだった
一字一句
四十何年間
全部自分で消してきたのだった
ただの習癖で
というふうにも言えるだろうし
いつもなんとなく
恥ずかしさが先に立って
とも言えるだろう
立派なことを考えてそうしていたことは
一度もなかった
「立派なこと」の対極にあるのはなんだろう。「普通」である。
この詩にあふれているのは「普通」の美しさである。「立派」は確かに美しいが、「普通」には「普通」の美しさがある。それは、とても静かな積み重ねの揺らぎの美しさである。使い込んだ肉体の美しさである。
「羨ましかった」「恥ずかしさが先に立って」。その2行が抱え込んでいる美しさである。
「羨ましさ」を肉体にしまいこんで生きる。「恥ずかしさ」を肉体にしまいこんでいきる。その、一種の自己抑制のようなものが、「四十何年間」のあいだに肉体に蓄積する。そして、その蓄積したものの呼吸が、すーっと吐き出されている。それがたまらなく美しい。
「まちがいない」「一度もなった」。2回出てくる、この断定もいいなあ。どれも平田自身に向けられている。そのことばは他人には向けられていない。平田は、自分の肉体と対話している。
ここに描かれているのは、ひとりの肉体である。それは孤立している。孤立して存在しうる肉体の美しさがある。
平田のことばの美しさは、たぶん他人に頼っていないことである。もたれかかっていない。黒板の字を自分で書いて、自分で消す--という作業が象徴的だが、平田はなんでも自分で完結させるのである。
「羨ましさ」も「恥ずかしさ」も自分のなかで完結させる。そして、一個の肉体になる。そういう肉体になるための訓練としてことばがあるのだ。
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