詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小野山紀代子『望遠鏡を見る人』

2008-09-15 22:01:06 | 詩集
小野山紀代子『望遠鏡を見る人』(梓書院、2008年09月01日発行)

 詩は、突然、詩ではなくなるときがある。たとえば、「橋の上」。3連目までは詩が動いている。

静かに満ちてくる
夕暮れの汽水を
鷺が一羽歩いている

歩みを止めて
橋の上から
その鷺を見ている人がいる

一枚の絵だが
その人は
帰る道を見失ってそこにいるのだ

 この3連を動かしている詩は視線の詩である。河口に近い場所だろう。その広がりから鷺、鷺から人、そして絵。絵のなかに焦点を絞り込んだあと、人のなかへ反転する。このリズムがとてもいい。
 ただし、そこまでである。
 視線がとまり、観念が動きはじめる。

否定され取り残され
忘れられて
鷺を見ている

なにもかもどんどん通りすぎる

 何が通りすぎたのか。「どんどん」とは具体的にはどれくらいか。目が動いていない。小野山は、見えないものを見ようとして観念を動かしているが、それでは詩にならない。見えないものも肉眼で見なければならない。視線が、その見えないものをひっぱりあげてこなければ、詩にはならないのである。
 ことばの動かし方を誤解していると思う。

 「忘れかけた子守歌」にも魅力的な行がある。

あれは窓ですか
鏡ですか

 だが、この作品でも、そういう魅力的な行が登場したとたんに、そこで詩が変質してしまう。あと観念になってしまう。

ジャン・コクトーの「オルフェ」の
ガラス売りでもやって来そうな路地
少女の頃に見た仏映画の
ガラスの反射
鏡のゆらぎ

 「少女の頃」がせっかくの現実を「枠」のなかにとじこめてしまう。思い出という「枠」のなかに。他人の思い出など、おもしろくもおかしくもない。もし、それがおもしろいとしたら、それはほんとうは思い出ではなく、思い出という形を借りた現実である場合だけだ。

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滝田洋二郎監督「おくりびと」

2008-09-15 00:36:01 | 映画
監督 滝田洋二郎 出演 本木雅弘、山崎努、笹野高史、吉行和子

 私はこの映画見たのはたいへんスクリーンの汚い映画館であった。スクリーンが汚れていて、雪のシーンなど、白の向こう側に汚れが浮いて出る。もっと美しいスクリーンで見たら印象はもっとよくなったかもしれないが……。
 *
 この映画のなかで私がいちばん好きなのは、本木雅弘が山形の自然のなかでチェロを弾いているシーンである。すでにチェロを弾く仕事をしていない。聴衆もいない。それでも本木はチェロを弾いている。なぜか。チェロを弾くことが好きだからである。チェロの演奏者(プロ)であることをやめて、納棺師という仕事をしはじめてから、チェロを心の支えとして弾いている。自分のために弾いている。自分から出て行くのではなく、自分から出て行かない。ただそこにいる、ということのために弾いている。
 人はだれでも自分から出て行こうとする。いまの自分であることをやめ、いまの自分を超えた存在になろうとする。そういう「夢」を持っているものである。本木もまた納棺師になることで、いままでの自分ではない自分、自分を超越した新しい自分になろうとするのではあるけれど、そのときの自己実現は、他人を押し退けてというのではない。他者を主人公にしたまま、脇にいる。脇であることが求められている。そのときの「脇」の感覚を、それでいいのだ、と納得することが本木の仕事には重要である。自分から出て行かないこと、それが大切な要素である。自分から出て行かず、自分の内部をひとり、大切にして、生き続ける。その感じと、チェロを弾いている姿がとてもよく重なる。気持ちがいいのである。
 本木のしている仕事がとても大切なものである、ということは、実際にその仕事に触れた人しか知らない。それは個人と個人との、秘密の触れ合いである。秘密というよりも、親密な触れ合いと言った方がいいかもしれない。それはほかの人にいう必要のない親密な関係である。他人には言わないことを前提とした触れ合いである。(他人には言わないことを前提としているからこそ、こういう職業があることを、多くの人は知らない。--少なくとも私は知らなかった。)
 他人には語らないこと--その親密さをしっかりと自分のなかだけにとどめておくのはたいへんむずかしいことである。人はだれでも、自分の感じていることを語りたい。しかし、それを語らないことによって、自分をふくらませていく。だれにも知られなくてもいい。そういう世界を誰もが持っている。だれも知らない世界を自分の内部に抱えたまま、人間は生きている。それを大切にして生きている。そういう、一種の「脇」の人間のしずかな美しさが、チェロを弾く本木の姿にあらわれている。

 いくつかのエピソードが描かれているが、人はだれでも秘密をかかえて生きている。秘密をこころの支えにして生きている、ということは最後の本木の父との体面にくっきりと描かれる。本木は父の「内部」をまったく知らない。本木がこどものとき、彼を捨ててどこかへ出ていったということしか知らない。その父親がこども時代の本木とかわした約束を大切にし、小石を大事に持っていること、死の瞬間もそれを手放さなかったことは、最後の最後になってわかる。そういう秘密がふっと目の前にあらわれたとき、親密さが真実になる。そういう真実は、多くの人に見せる必要はない。いっしょに生きている人だけにわかれば十分なのである。
 人にはだれにでも告げたい何かがあると同時に、いっしょに生きている人、親密な人にだけ知ってもらえればいいこと、というものがある。そのいっしょに生きている人だけに知ってもらえればいいことを、この映画はとても大切に描いている。

 納棺師の仕事とは、たぶん、故人の美しさ--それも親密な人にだけ知ってもらえればいい美しさを引き出す人のことなのだろう。いっしょに生きている人はいっしょに生きているがゆえに、相手の美しさを知らない。どんな思いを生きていたかをあまり考えない。自分の考えを相手におしつけ、ついついけんかしたりする。そうして、ますます美しさを見うしなう。そんなふうにして見失われた美しさを納棺師は引き出すのだ。
 手で触れる。その顔に。その体に。チェロ--弦にふれておだやかな美しい音、音楽をつむぎだすように、本木の手は故人の体に触れながら、美しさを引き出す。故人が持っていたもの、語ろうとして語れなかったものを引き出す。それは本木にとっては一種の「音楽」なのである。そういうことを、この映画は感じさせてくれる。
 手のアップ、指の動きが何度もこの映画では描かれ、とても重要な役割をしている。吉行和子の手。その傷。峰岸徹の手。小石をにぎりしめた手。その手は何かをつたえようとしている。こころのなかからつかみ取ってきて、ほら、と開いて見せる前のしっかりにぎられた手のようだ。手にこそ、親密さの秘密がある。
 納棺師は、その最後に、故人の手を合掌させる。そっと自分の手でつつみ、相手の胸の上で合掌させる。納棺師が引き出した美しさ、その秘密、親密なものの奥にあるものを、故人がもう一度自分自身の宝物として死後の世界へ持って行けるように。その手の中には、美しさをみんなに見てもらうことで受け止めた何かがあるかもしれない。遺族のこころからの感謝、悲しみ、愛しさなどが……。そういうことも考えさせられた。




壬生義士伝

松竹

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