詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小川三郎『流砂による終身刑』

2008-09-16 09:47:25 | 詩集
流砂による終身刑
小川 三郎
思潮社、2008年07月05日発行

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 「要領」という詩がある。詩集は、そのあたりから急におもしろくなる。その前の詩も悪いという感じではない。たぶん、それぞれにおもしろい作品なのだろうけれど、私にはちょっと抵抗がある。たとえば「昏倒日和」。

瞳に映る雨とは別に
欠片が世界を横切って
光に混入し
人はそれを
幻と見るか
未来と見るか

 ふいに進入してくる「人」の視線。それが「意味」にかかわってくる。それがうるさい。
 「壁」にも似た感じの行がある。

しかし時々
ノックが聞こえる。
人はそれを空耳と呼ぶ。
壁の上には青い空
越えた者はまだないはずだ。
しかし空耳は実在する。

 「人」と対比して、自己の意識を確認している。その部分がとてもうるさい。「人」と「意味」が交錯する部分でことばのスピードが極端に落ちる。スピードが落ちたために、何かが見えなくなる。「意味」をかき消して行く快感が見えなくなる。快感が見えず、余分な「意味」だけが見える。
 しかし、「要領」以後、何かがかわっている。突然おもしろくなる。

見上げると
古びた枝に
熟した柿がなっていて
すると背後の青空が
弾力を増した。
柿の赤を縮ませるほど
こちらに押し込む青になり
柿と空と私とを
切り離し難い秋にした。

 「柿と空と私とを/切り離し難い秋にした。」この2行の文体のスピードがいい。ここでは「人」に有無をいわせていない。「私」の独断(?)が世界を一気にひきしめ、同時に解放している。漢文に似た世界だ。
 この独断(?)を小川は別のことばで言い換えている。小川自身ではなく、「自然の声」として書いている。

それは人への裏切りから来る
豊穣な秋の色だ。

 「人への裏切り」。それは「人」を考慮しないということだ。配慮しないということだ。自然は人間など配慮しない。その清潔さに「私」が共鳴するとき、世界はきれいさっぱりと雑音を消してしまう。音のすべては音楽になる。--西脇順三郎の詩のように。

 私が何か書くよりも、ただ、その作品を全行引用する方がいいだろう。「性」という作品。

中華料理屋の
裏に捨てられた家具を
集めて歩けば一式になる。
そうして始めた今の暮らしなのだが
猫が寄って来て困る。

寒寒とした匂いが染みついた家具だから
私に似合いと考えたのだが
既にそれは猫のものであって
私は思い上がっていたようだ。

またも私は
他人の庭に住み込む事となった。
彼らは
闖入者の私を迷惑そうに一瞥するが
それまでで
テーブルに丸くなってつんとしている。
性悪でないようだから
うまくやっていけそうだ。
彼らもそうやって
ひとかたまりになったのだろう。

暖かい季節になったのに
家具は冷えたままだった。

 ひとつだけ言わずもがなの注釈をすると、この詩のなかほどに出てくる「他人の庭」の「他人」とは「人」ではない。猫である。「彼ら」も猫である。小川は「人」と対等に向き合うのではなく「自然」(人事とは無縁のいのち、ここでは「野良猫」、たぶん飼い猫ではなく、ノラ)と対等に向き合っている。
 そこでは「人事」というものが洗い落とされている。そして、「人事」が洗い落とされた分だけ精神が身軽になり、ことばにスピードが出てきているのだと思う。
 「人事」を精神の運動としてではなく「物理」として客観化すれば、西脇のユーモアになるのだろうけれど、そこまで行ってしまうと、西脇そのものだし……。と、思いながら、続きの詩を読んだ。

 西脇の「神話」のような世界も出てくる。これもスピードがあって、とても美しい。「風化石」の後半の一部。

昨日獣に子供が生まれた。
その子はまだまだ眠るようだ。
夜明けが優しくその羊水を
神のしずくを洗い流して
ぐんと力を増してやる。
すると田んぼの稲も伸びる。
端では神が石のまんま
今日一日を
沈黙している。

 「すると田んぼの稲も伸びる。」の1行の闖入がすばらしい。このスピード。こんな輝かしいスピードに満ちたことばに出会ったのは久しぶりだ。



2006年04月07日の「日記」で下記の詩集の感想を書いています。

永遠へと続く午後の直中
小川 三郎
思潮社

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コメント
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