詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小長谷清実「立ち尽くす日」

2008-09-05 11:12:34 | 詩(雑誌・同人誌)
小長谷清実「立ち尽くす日」(「交野が原」65、2008年10月01日発行)

 小長谷の詩で感心するのは、どの詩でも「音」である。「音」が何かを飲み込んでふくれてゆく。膨張して、世界を奇妙に変えてしまう。その、論理では追うことができない(もちろんこれは私の論理では、という意味であって、ほかの読者には論理で追うことができるかもしれない)、何か、膨らんで、膨らむことによってずれていく、その感じが私にはここちよい。(この対極にあるのが、岩佐なをである。岩佐の場合、膨らんでゆくというより崩れてゆく、そのずれ、ずれをひきおこす「音」が気持ち悪い。そのくせ、その気持ち悪いものをもっと見てみてみたい、聞いてみたいというキミョウな欲望をそそる。) 小長谷のことばの音の気持ちよさ。「立ち尽くす日」の冒頭。

崩れかけたレンガ塀の上を
過度に肥ったネコが歩いている
喘ぎ喘ぎ歩いていく
昼下がりの風 なまぬるく
かれの足にまとわり
まとわりついて
その足どりのけだるさや
わたしの過ぎてきた日々の
その息づかいに
呼応しているかのようであり

 4行目からが、とても気持ちがいい。
 どうして、この行が私にここちよく感じられるのか。
 たぶん「昼下がりの風 なまぬるく」の1字空きが大きく影響していると思う。この1字空きのなかには助詞の「が」が省略されている。(と、私は思う。)そして、省略することで、「論理」の構造を少し緩めている。そこから、「論理」ではなく、「音楽」が始まる。思い出したように次々にあらわれる「の」。その繰り返しのリズムと「音」。それがとても気持ちがいい。
 「昼下がりの風がなまぬるく」だと、とても窮屈である。重たくなる。1字空きがあるために、その空きを意識が飛び越えなければならない。この飛躍は、もしかすると飛躍というよりは肉体への沈下(沈み込み、もぐりこみ)かもしれないが。そして、意識はその飛び越え(あるいは沈下)の瞬間、論理を振り払ってしまう。
 歩いているのはネコのはずなのに、ネコが意識から消えてしまう。ネコは知らないあいだに「かれ」になり、「わたし」ととけあってしまう。その、ほんとうは違ったものを、くりかえされる「その」が、いっそう混濁させる。この、混濁。区別がなくなって、音だけが残る、この瞬間が私にはとても気持ちがいい。
 私は音痴だし、歌は好きではないが、こういう「音楽」はとても好きだ。酔ってしまう。黙読するだけだが、そのときも、喉や舌や口蓋が動き回る。ただただ音を出すことに酔って、動き回る。その「音」がどんな意味を語っているかなんかは関係なくなる。「ネコ」「かれ」「わたし」が「呼応」して、まじってしまっているのだから、そんなところに「意味」なんてありえないだろうし、ただ「音」に酔えばいいのだ、と思ってしまう。
 こんなふうに酔わせておいて、小長谷は、ものすごい意地悪をする。
 詩のつづき。

(だからと言って、次行を)
それからネコは
崩れかけた世界のはずれまで来て
少し思案し 飛躍 落下
夏草繁る空き地の中へ
(などと続けて終わりにしても
はじまらない、か?)

 むりやり「ネコ」に引き戻し、「論理」を築き上げるふりをして、「論理構造」そのものを脱臼させる。すべてのタガを外してしまう。「続き」「終わり」「はじまり」がいっしょに登場して、すべてが解体されてしまう。
 こういう意地悪は、最高である。日常のなかでも、ときどき、意地悪されながらいっしょに笑ってしまうしかないようなことがあるが、この詩でも、もう笑うしかない。「続き」「終わり」「はじまり」って、ことばだけで、音だけで、ほかにはなにもないじゃん。
 途中の「思案し 飛躍 落下」もよーく読むと変でしょ。「ネコ」は普通は「落下」はしません。「思案し 飛躍 着地」。その「着地」を「落下」にすることで、解体が完全になる。論理を「解体」したあと、瓦礫が残るのではなく、そこには「夏草繁る空き地」があらわれる。何もない「空気」がぽん、と出現する。

 それで、詩は、どうなるの?

 途中を省略して、最後の6行。

ネコよ わたしよ 世界よ
その妄想 追いやれず
ぶつぶつ呟き 立ちつくす
(次行だって、
いつまでもあるわけじゃ
ないし、な?)

 「ネコ」「わたし」「世界」がいっしょになってしまう。ことばのなかで、音のなかで、区別がつかない存在になる。そして、「音楽」だけが残る。
 「ぶつぶつ呟き 立ちつくす」の「ぶ」「つ」の連続と入れ替え、「つ」の甦り。そのリズムのおかしさ。ね、小長谷さん、この行が書きたいだけのために、この詩を書いたんでしょう。そう言いたくなる。
 そして、そういう質問を知っているかのように、最後の「ないし、な?」の「な」のくりかえし。最後まで「音」をばらばらにし、もう一度「音楽」を生み出す。その、音の動きすべてがとても気持ちがいい。

 こういう詩を読むと、詩人の「声」を聞きたくなる。「声」と言っても、別に肉声のことではなく、聞こえない「声」、小長谷の頭の中で響いている声のことなのだけれど。でも、それは実際には聞けない。想像するだけだ。それが残念だけれど、残念であることが、なんとも楽しい。こんな音かな、あんな音かな、と自分の頭の中で、声には出さず舌や喉を動かしてみる楽しみがある。





わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田

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