詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中島悦子『マッチ売りの偽書』

2008-09-22 10:33:24 | 詩集
中島悦子『マッチ売りの偽書』(思潮社、2008年09月18日)

 「小川」という作品が最初の方に出てくる。その最後から2連目。

行く先が、ほんの少しずれる。旅がずれていく。A点からE点までの直線がずれていく。小川にかかる反目板もすでに割れて、心なしか、旅そのものがずれていく。

 「ずれる」。これが中島悦子の「キーワード」、いわば「思想」である。そして、その特徴は「A点からE点までの直線がずれていく。」ということばのなかにある。ごくごく一般的には、直線がずれていくというとき、「A点からB点までの直線」という。抽象的な言語は「1、2、3……」か「A、B、C……」「甲、乙、丙……」というふうに規則的に進む。突然途中をはぶいてどこかへ飛躍することはない。飛躍してしまっては、ものごとを抽象的に考えるという思考から「ずれる」。
 「AからEへ」というのでは、AもEも抽象化された存在ではなく、固有名詞を引きずっている。それは、いわば頭文字になってしまっている。頭文字というのは、わかっているのにわざと固有名詞を隠して書くことであり、また頭文字を書くことで固有名詞をほんとうは隠すのではなく知らせるものである。それは抽象化とは無縁のものである。
 ところが、中島の「小川」という詩では、AもEも固有名詞ではない。誰にもそれが何をあらわしているかわからない。離れた2点をさしているとしかわからない。つまり、抽象的な存在である。
 「A点からE点まで」ということ(と書くこと)、それ自体がすでにごく普通の抽象的思考(たとえば数学や科学的思考)のスタイルから「ずれ」ている。「ずれ」は中島の「頭」ではなく「肉体」になってしまっている。

 ある直線を「A点からB点まで」ではなく「A点からE点まで」と書くことは「ずれ」を通り越して「飛躍」である。
 これは、実は、中島は「飛躍」を「ずれ」と認識しているということの裏返しの表明である。

 たとえば、「石動」という作品。

この間は酔っぱらいにからまれた。東海大学前からは、東海大学の学生が乗ってくる。東京学芸大学前からは、東京学芸大学の学生が乗ってくる。そうだろ、そうに決まっているだろって。そうですね、そうですね、って私。蛇骨原という駅を通ってきたら、蛇の骨が乗ってくるんですよね。石動(いするぎ)からは、重たい石が。青土駅からは、まっさおな土が流れ込んで、列車の中はずいぶんと混雑した墓ができそうではありませんか。

 「東海大学前からは、東海大学の学生が乗ってくる。」と「石動からは、重たい石が(乗ってくる)。」というのは「ずれ」ではなく、「飛躍」である。それも小さな「飛躍」ではなく、とんでもない「飛躍」である。しかし、中島は、そういう「飛躍」を「ずれ」と呼ぶのだ。
 なぜ「飛躍」が「ずれ」なのか。
 「飛躍」の土台となっているのが「ことば」にすぎないからだ。現実ではなく、ことば。中島は、ことばと現実をきっちりと結びつけようとはしない。現実は現実で動いていく。ことばはことばで自在に動いて行く。ことばが現実ときっちり対応していると考えるからこそ、「石動からは、重たい石が(乗ってくる)。」は「飛躍」になる。それが現実とは無関係に、単なることば、意識であるなら、「石動からは、重たい石が(乗ってくる)。」と「東海大学前からは、東海大学の学生が乗ってくる。」はともに「乗ってくる」という動詞でひとつの動きになり、主語が「重い石」か「東海大学の学生」かの違い(ずれ)があるだけである。

 ことばは、それが現実と対応しているもの(現実を伝達するもの)という考えを放棄すれば、あらゆることばは「主語」となって自由に動き回ることができる。そういう世界を中島は、きっとどこかで夢見ているのだ。こういう夢は何も中島に限ったことではない、と中島は主張するだろう。
 たとえば「石動」。これは富山県にある地名だが、石は動くはずがない。しかし「石動」という地名があるのは、かつてはそこに住む人々が石が動くと信じたからかもしれない。実際に動いたかもしれない。ことば、なにかしら「秘密」を持っているのである。
 中島は、ことばが抱え込んでいる「秘密」をあばきだすために、秘密をあばいて、自由に動かすために、つまりことばの「秘密」を解放するために詩を書いているのだといえるだろう。

 この詩集の「序」は「マッチ売りの少女」をテーマにしている。「マッチ売りの少女」は「現実」ではない。もともとことばである。ことばであるなら、それは「石動」と同じように、何らかの「秘密」を持っている。その「秘密」をこの作品では、「詩」(言語の化学反応)と「哲学」を持ち込むことで解体しようとしている。「マッチ売りの少女」という物語の中にからみあっている「ずれ」を解きほぐし、「ずれ」を「飛躍」とわかるまでに拡大しようとしている。

 奇妙なもののなかには「ずれ」がある。「マッチ売りの少女」の薄幸の物語のなかには何かしらの人間の歪んだ(?)夢、「ずれ」がまぎれこんでいる。それを解きほぐし、「飛躍」にまで追いつめていくとき、その果てから、こんどは、「飛躍」を「ずれ」、それもほんとうの些細な「ずれ」として認識しよう、受け入れようとするこころが動きはじめる。これを、たとえば「愛」と呼ぶこともある。ヒューマニズムと名付けることもある。そうなのだ。中島は、奇妙な内容のことを書きながら、ひたすら暮らしのなかの「いのち」のようなものに触れて、そこから現実に異議を申し立てているのだ。
 ほんとうは、ことばが「ずれ」ているのではなく、現実が「ずれ」てしまっているのでは? と問いかけているのだ。



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中島 悦子
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コメント (1)
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