詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ケント・オルターマン監督「俺たちダンクシューター」(★★)

2008-09-21 11:42:56 | 映画
監督 ケント・オルターマン 出演 ウィル・フェレル、ウディ・ハレルソン、アンドレ・ベンジャミン

 コメディーは普通、軽いものである。チャプリンのように、しんみりさせるものもある。ウディ・アレンのように皮肉っぽいものもある。しかし、チャプリンもウディ・アレンも体の小ささ(?)を有効につかっている。小さいイコール貧弱というわけではないが、一種の弱さのようなものが滲み出て、それが軽さにもつながる。深刻なことがあっても、その深刻さが小さく感じられる。人間の体の大きさと、そのひとが体験するできごとの大きさは無関係であるにもかかわらず、なぜか、そんなふうに感じる。小さい相手だと小馬鹿にしたところで反撃されてもこわくない、からかいやすい、というような心理も働くのかもしれない。こういうことは、たぶんチャプリンもウディ・アレンも承知していると思う。だからこそ、逆の(?)シーンで笑いも取る。たとえば、ふんぞりかえっていた肥った警官がバナナの皮を踏んで転ぶ、と。ひとを小馬鹿にして、ふんぞりかえっている人間が失敗するとおかしい--ということと、小さいひとをからかって笑うというのは一種のセットのようなものかもしれない。人間は、そんなふうにして、どこかで気分を発散させているのだろう。

 「俺たちダンクシューター」は、そういうコメディーではない。まずウィル・フェレルが小さくない。小さくないだけではなく、むしろ大きい。そして顔がまじめである。ユーモアなんてひとかけらもわからない、という感じがする。ひたすらまじめである。そんな印象がある。だからこそ、「主人公はぼくだった」というような作品の主役にもなるのだろう。真摯に悩むのである。
 そして、奇妙なことに、なぜか真剣であるということは、やはりおかしいのだ。
 小さいひとをからかって笑いの対象にしたり、あるいは大きいひとが失敗するのを見て笑ったりすることは、いまのことばでいえば「いじめ」になるかもしれないし、そういうことは最初からまじめなことではない。悪いとわかっていても、人はそういうことをしてしまう。
 ウィル・フェレが演じるコメディーはそういうこととは無縁である。まじめである。真剣である、ということがおかしいのだ。そこには何かやはり常軌を逸脱したものがある。逸脱しているけれど、人間の性格の真っ正直な部分があって、それがおかしいのである。
 たとえばバスケットボールの得点。ホームのゲームで 125点以上得点をあげると、観客にプレゼントを贈らなければならない。(大入袋のようなものである。)試合には勝たなければならないが、 125点以上上げてはだめ。チームメイトが勝とうと必死なのに、ウィル・フェレはその得点を妨害する。ウィル・フェレルはチームのオーナーでもあり、予想外の出費は困るのだ。--こういうシーンを手抜きをせずに、ていねいにとっている。
 そうしたどうでもいいシーンがおかしいのである。大男が真剣にやっているから、なんともいえず変なのである。
 どういうときでも、感情というか、思っていることが前面に出る。控えめに何かを要求する。何かを実現するために、あえて控えめに行動する。計画を立てる、ということがない。あくまで、全面に出す。そういう真剣さが、とてもおかしい。
 考えてみれば、いまは何をするにしても、深謀遠慮の時代、根回しの時代なのかもしれない。そういう時代に、深謀遠慮、根回しとは無縁の、思いを全面に出して行動するということ事態が笑いの対象になるのかもしれない。そのうえ、それが小さいからだではなく、大きな体からあふれだす。もし、こころというものが体の内部にあり、それが何かを通って体の外へ出てくるものだとしたら、ウィル・フェレルのこころは、大きな体の隅々をおおることで徐々に拡大し、普通の人の真っ正直よりも拡大されて出てくるのである。常軌を逸した大きさになって出てくるのである。
 そこが、おかしい。

 体の大きさとこころの大きさは無関係である。体が小さい人が小心で、体の大きい人が大胆とは限らない。ウィル・フェレルはどちらかといえば小心である。そして、その小心は小心のまま、小心であることすらも強調されて体からあふれてくる。あらゆるものが大きな体を行き渡らなければならないので、それが強調されてしまうのだ。それがおかしさの理由だ。



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福間明子「サカナのしんり」

2008-09-21 01:53:21 | 詩集
福間明子「サカナのしんり」(「水盤」4、2008年08月20日発行)

 おもしろい部分と退屈な部分が交互に出てくる。いいなあ、、と思う部分だけを抜粋してみる。

ある日を機に
サカナが我が家に押し寄せてきた
冷蔵庫の中は満杯になった
ドアを開けるたびにサカナが笑っている
(略)
夜寝ていると潮の匂いがしてくる
(略)
誘ったわけでもなく
誘われたわけでもないのに
サカナと暮らしはじめた
ただ思うにサカナは湿っぽくない
人付き合いも悪くない
時々懐かしそうな目をするから
誰かを思い出すが誰だかわからない
(略)
ちかごろは
サカナののうのうが
わたしにも移ってか
なんだかのうのうと
明け暮れしているわたしがいる

 (略)の部分には説明が入っている。福間にしてみれば(略)の部分こそ書きたいのかもしれない、とも思う。
 「誰かを思い出すが誰だかわからない」の1行のあとは、ずーっと誰だかわからないままでいてほしいが、福間は種明かしをしたいようで、「誰か」を書いてしまう。そのヒミツ(?)にこころを動かす読者もいるかもしれないが、私はにはわからないままの方が楽しい。
 誰かが誰かわからないまま、サカナの実感が「わたし」をつつみこんでしまう。「わたし」がサカナになってしまうということは、たぶんそういうことではないのか。最後は「のうのう」とサカナになってしまうのだから、「誰か」など思い出す必要はないのだ。「誰か」につながる、さらなる「誰か」なんて、さらに必要がない。
 どうせつながるなら、その「誰か」は会ったことのない「誰か」でないと、詩にはならない。

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