詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「アタマとココロ」

2009-08-03 18:39:25 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「アタマとココロ」(朝日新聞2009年8月01日夕刊)

 谷川俊太郎「アタマとココロ」は、誰もが感じたことのある頭とこころの問題を描いている。(「8月の詩」というコーナー)
<blockquoute>
「怒りだろ?」とアタマに訊(き)かれて
「それだけじゃない」とココロは答える
「口惜しさなのか?」と問われたら
「それもある」と歯切れが悪い
「憎んでるんだ」と突っこまれると
「うーん」とココロは絶句する

アタマはコトバを繰り出すけれど
割り切るコトバにココロは不満
コトバで言えない気持ちに充電されて
突然ココロのヒューズが切れる!

殴る拳と蹴飛(けと)ばす足に
アタマは頭を抱えてるだけ
</blockquoute>
 誰もが感じるけれど、誰も解決方法を知らない。だいたい、アタマとココロと、どこが違う? そのことも人間は知らない。
 頭は一応(?)脳にあることになっている(なっていない?)けれど、ココロのありかは分からない。ココロは心臓にある? 心臓がドキドキするから、そんなふうに考えることもできるかもしれないけれど・・・。
 アタマは理性、ココロは感情?
 谷川は、そういう区別をしているようで、していない。
 アタマとココロが対話している。両方とも、ことばを使っている。ことばを使うのは、アタマだけではない――この区別のなさが、この詩を面白くしている。
 そして、もうひとつ。
 人間には「肉体」がある。アタマもココロも「肉体」の中にあるはず(?)。それを動かしているのはアタマ? ココロ? もし、ココロが肉体を動かすとしたら、何を使って? ココロも「神経」につながっている?
 わからないことだらけ。
 わからないのに、
<blockquoute>
コトバで言えない気持ちに充電されて
突然ココロのヒューズが切れる!

殴る拳と蹴飛(けと)ばす足に
アタマは頭を抱えてるだけ
</blockquoute>
 といわれると、納得してしまうなあ。

 そうして、また思う。(アタマで? ココロで?)
 ココロがこころ(心臓?)を抱え込むって、どういうときだろう。怒りではなく、恋愛したとき? アタマはあれこれな策略(?)を考える。でも、うまくいかなくて・・・。そのとき悩むのはアタマ? ココロ? うーん。
 谷川さん、教えて。
 9月の詩で、回答を書いてくださいね。


谷川俊太郎質問箱
谷川俊太郎
東京糸井重里事務所

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誰も書かなかった西脇順三郎(46)

2009-08-03 09:21:52 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

八〇
秋の日ひとり
むさし野に立つ
ぬるでの下に

八一
昔の日の悲しき
埃(ほこり)のかかる虎杖(いたどり)
木の橋の上でふかすバット
茶屋に残るリリー

 「ぬるで」「虎杖」。植物の名前の中に隠れている音は美しい。この美しさは、西脇はここでは書いていないが、やはり「淋しい」美しさだ。それは、そのことばのなかで完結する美しさと言い換えることができるかもしれない。
 虎杖は埃を被っていて、完結していない、孤独ではないという見方もあるけれど、逆に埃をかぶることでより一層完結したものになるともいえる。完結することで「昔の日」に「なる」。だから「悲しき」。このことばも「淋しき」につながる。

八二
鬼百合の咲く
古庭の
忘らるる
こはれた如露のころがる

 「こわれた如露」。こわれなくても完結するかもしれない(いまの時代にあっては)。だが、「こわれた」ということばによってさらに如露が完結する。そこに「淋しい」美しさがある。
 「こわれた」「ころがる」、「じょろ」「ころがる」。その音の響きあいも、私はとても気に入っている。音の繰り返しが人工的に(作為的に)なる寸前で踏みとどまっている。素朴である。西脇の音楽は、とても素朴で、それゆえに力強い。




西脇順三郎全詩引喩集成 (1982年)
新倉 俊一
筑摩書房

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高橋睦郎『永遠まで』(3)

2009-08-03 01:28:00 | 詩集
高橋睦郎『永遠まで』(3)(思潮社、2009年07月25日発行)

あなたとぼく 二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか

 この「あなたとぼく」は切り離せない。「二つ」の「腐乱死体」なのに、「二つ」ではない。死体は二つであっても、「あなたとぼく」は「ひとつ」。
 このことは、それにつづく連で書かれる。

でも肉親殺しをいうなら
あなたの方が ぼくより早かった
六十数年前 若い寡婦のあなたは
幼い姉とぼくに睡眠薬を服(の)ませ
自分も服んで 無理心中を計った
机の上に サクラが無心に散っていた
幸か不幸か 祖父母が訪ねて来て
内から釘付けした戸をこじあけ
医者が呼ばれて 三人は生還
あなたの子殺しは 未遂に終わった
姉は 子のない叔母のもとへ拉致
写真は その直後に撮られたもの
ぼくがその写真を持ち出すことで
あなたの未遂をやり遂げたとしたら
ぼくらは 奇妙な共犯関係ですね

 「あなたとぼく」は「共犯関係」。「共犯」--この美しいことば。それを発見するために、高橋の詩は書かれている。
 「ひとつ」のことをやりとげる二人。「ひとつのこと」の「こと」のなかで、二人は完全に重なり合う。完璧にひとつになる。そこに至福がある。
 そして、この作品の場合、共有される「こと」というのは、互いに相手を「殺す」ということだ。「殺す」--そして、生まれ変わる。

 殺すとは、ひとのいのちを奪うことだが、それは「いま」「ここ」とつながる「いのち」を否定することであり、その否定の奥には、「いま」「ここ」とはつながらない、まだ見ぬ「いのち」とつながる夢が託されている。
 別の生き方という夢が託されている。
 それはどんな夢か。「いま」「ここ」という時間までの「いのち」を永遠にとどめるという夢である。これから先の、何が起きるかわからない「いのち」ではなく、いままで生きてきた「いのち」を何度も何度も生きなおすこと、「いま」「ここ」から絶対に先には進まないということ。そういう夢。

 だが、夢のなかで「共犯」になれても、現実は、どうか。「肉体」「いのち」はことばとは違う。ことばでは「ひとつ」なれても「肉体」「いのち」はひとつにはなれない。

 最終連。

ぼくの完遂の結果
あなたは写真の中に入って
若い寡婦になりおおせた
ぼくも写真の中のあなたに抱かれ
幼い男の子になりおおせた
と言いたいところだが
では この写真の前にいて
写真の中のあなたとぼくとを
見ている老人は誰でしょう

 「共犯」の夢は、やりとげられなかった「現実」となって破られる。高橋は遅れて来た「共犯」者なのだ。生き遅れたのではなく、死に後れた共犯者なのだ。そして、死に後れたものは、生きなければならない。
 どうやって生きるか。

いま ぼくがしなければならないのは
写真の前の奇妙な老人を 殺すこと
みごと殺しおおせた暁には
その時こそは 言えますね
ぼく 一歳になりました
もう 二歳にも 三歳にも
もちろん七十歳にも なりません
安心して ずっと二十五歳の
若い母親でいてくださいね
ぼくの大好きな たったひとりの
おかあさん

 ぼくを殺すことによって生きるのである。そして、ぼくを殺すとは、このとき、「いま」「ここ」を否定して、「生きながらえた」出発点の一歳になることだ。一歳になって、成長を拒絶する。一歳のまま、いつまでも一歳を反復する。
 それは、ことばによって可能な反復である。

 ことばによる反復--それは、一歳のその瞬間だけのことではない。一歳から七十歳までの「いのち」を反復し、反復しながら一歳以外の時間を、一歳以外の高橋を殺す--そして、実際、いま、高橋はそうしている。その結果として、最後に、

安心して ずっと二十五歳の
若い母親でいてくださいね
ぼくの大好きな たったひとりの
おかあさん

 という。
 このとき、高橋は「母」になり、そして「母」として一歳の高橋に対して「ずっと一歳の/幼い息子でいてくださいね/私の大好きな たったひとりの/息子よ」と呼びかけている。
 「母」になり、そう語りかけるために、高橋は死んだ母を殺す、七十歳の自分自身を殺す。

 「二十五歳の母」になり、「一歳の息子」になる。そのとき「あなたとぼく」は永遠の共犯者として生きる。「七十歳のぼく」を「七十八歳の母」を殺すことで「ひとつ」になる。その「ひとつ」を「愛」と呼ぶために。


語らざる者をして語らしめよ
高橋 睦郎
思潮社

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