詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(59)

2009-08-16 07:47:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一二六
或る日のこと
さいかちの花咲く
川べりの路を行く
魚を釣ってゐる女が
静かにしゃがんでゐた
世にも珍しきことかな

 「世にも珍しきこと」と言われているのは何だろうか。釣りをする女? しゃがんでいる女? 私は「音」から「しゃがんでいる」の方だと思う。思ってしまう。
 「さいかちの花」というのは、私はどうしても思い出せないのだが、さいかちというのは幹に棘があり、豆のような実がなる木である。その豆のような実は、田舎の川の、小さい名前もないような魚が釣り針にかかったように、哀れである。
 西脇がこの詩を書いたとき、ほんとうに釣りをしている女を見たのか。
 私には、どうも、さいかちを見ているうちに思いついて書いた空想のように感じられる。さいかちの棘は釣り針の先っぽである。さいかちは川の近くにある。だから、釣りを思いついたのだろう。そして、釣り人は、男ではなく、女の方が、なぜかはっとさせるものがある。だから、女。--そして、その姿を描こうとしたとき、「さいかち」ということばの冒頭の「さ」が「静かにしゃがんで」の「さ行」を誘い出したのだ。(「さ」と「しゃ」の子音は正確には別の音ではあるけれど……。)私には、そんなふうに感じられる。「さいかち」という音には、そんな力がある。

一三二
茶碗のまろき
さびしきふくらみ
因縁のめぐり
秋の日の映る

 3行目、「因縁のめぐり」という音が異質である。起承転結の「転」という感じで、1行目、2行目の音を破っている。その破壊によって、「秋の日の映る」がとても静かな感じになる。そして、そのまま、もう一度1行目へ帰っていく。
 この循環運動は「秋の日の映る」の「の」の力が大きいと思う。「秋の日が映る」でもいいのだろうけれど、「の」の方が静かに循環する。「まろき」の「ろ」の中にある「お」と「秋の日の」の「の」の中にある「お」が通い合う。「が」の場合は、音の明るさが違ってしまう。


随筆集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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松川穂波『ウルム心』

2009-08-16 01:54:34 | 詩集
松川穂波『ウルム心』(思潮社、2009年07月10日発行)

 松川穂波『ウルム心』を読んだ。私は不勉強な人間なので、松川穂波という詩人を知らなかった。同人誌か何かで作品を読んでいるかもしれないけれど、まったく記憶にない。たぶん、今回読むのが初めてだと思う。
 読みはじめてすぐ引き込まれた。文体が安定している。とても安心して読むことができる。ただし、文体が安定しているのだけれど、その安定がどこから来るのかよくわからない。そして、文体が安定していると言っても、それは何かを積み上げていくというような文体ではない。うまくいえないけれど、ことばを積み上げて、その果てに何かを築き上げるというような文体ではない。築き上げていくのではないのだけれど、その細部のひとつひとつが堅牢で、その堅牢さが、文体が安定しているという印象を産むのだ。
 この堅牢さ、叩いてもこわれない感じ--れは、何なのだろう。
 その疑問を抱いたまま、読みはじめたら、やめられない。
 表題作「ウルム心」に何か手がかりがあるだろうか。私は、急いで、急いで、急いでページをめくるのだけれど、「ウルム心」という詩がない。目次を見る。やっぱり、ない。どこか、ある1行に隠れているのだろうか。またまた、ぺらぺらぺらとページをめくる。でも、見つからない。一気に読んだので読み落としているかもしれないが、どの作品にも「ウルム心」ということばがない。(もし、どこかにあるのなら、ごめんなさい。読み落としです。)
 たしかに、この詩集の文体は、先に書いたように何かを築き上げていくような文体ではないから、うるむ、うるうるゆるむ、というような感じなのだけれど、それはじめじめしていないし、ゆるむといっても構造がゆるやかになるというだけであって、けっしてこわれない。こわれないようながっしりした細部でできあがっている。
 これはいったい何なのだろうなあ。
 詩集を片手に持って、掌に叩くようにして、ぽんぽんぽん。ふと、「帯」に目がとまった。倉橋健一が書いている。「頽唐意識」などという不思議なことば、私の知らないことばがあっていやだなあ、と思いながら、そのつづきを読むと。

「窓」の一字を「ウルム心」と覚えればと教えてくれた

 びっくりした。「ええっ」と思わず、声がでた。
 「窓」という漢字を分解したのが「ウルム心」なんだねえ。昔、「疑問」の「疑」という字を、「ヒ、マ、矢(や)」から疑問が浮かぶんだと説明してくれた友人がいたが、それを聞いたときと同じような衝撃を受けた。私は、そんなふうには漢字を見ることができない。
 そして、同時に、ああ、そうなのだ、と納得した。というか、何かがわかったような気持ちになった。
 松川の文体は、あることがらを、分解して見せたものである。「何かを積み上げていく文体ではない」と最初に書いたが、それは「いま」「ここ」を、独自の距離感で分解していく文体なのだ。安定している--というのは「窓」を「ウルム心」と分解するように、その分解の方法が、誰もが知っているものに向けて分解していて、その誰もが知っているということをけっして踏み外さないところにあるのだ。
 そして、この誰もが知っているものを、松川は「部品」と呼んでいる。
 「海辺の市」という作品に出てくる。私は本を読むとき、ドッグイヤー(ページの端を三角に折る、犬の耳みたいにね)をつくり、鉛筆で、この部分からなら感想が書けるかな、と思うところに傍線を引きながら読む。最初のドッグイヤーと傍線が、そこにあった。

海は荒れていた

海辺の市にまぎれこむ
ひとたばの菊 鍋 古い切手 鳥かご 歳時記 干魚 ひしゃく 線香 錠前
わすれられたような
部品が並べられ
世界をあたらしく淋しくしていた

 この行に、私は「ウルム心」を感じたのだ、きっと。「世界をあたらしく淋しくしていた」の「あたらしく」はあくまで「あたらしく淋しく」である。「あたらしくしていた」ではない。その「あたらしいさびしさ」が「部品」のなかに宿っている。「世界」という「構造物」から解体された「部品」が、何も作り上げることもできず、こんなふうにして実は「世界」をささえていたのは、実は私たちです--と静かに主張するように、そこに存在している。
 「世界」の「構造」の一部、その部品となって生きているものたち。そのひとつひとつに、ひっそりとよりそって、そのさびしさを代弁する。ああ、いいなあ、この抒情。

売るものは何もない
買うものは何もない
白い波が沖から押し寄せ
黙って帰っていった

ぼうぼうとテントが鳴り
悪寒が鳴り

わたしはある老人から 南の国の毒蛇のエキスだと称する薄赤いビン入りの水
薬を買わされた 蛇のジュースでしょうか いや 肩こりの特効塗り薬だとい
う 老人の南の国のなまりは温かい テインの下に飾られた毒蛇の剥製の目が
海をみつめていた

その日
海は無心に荒れていた
海も無心も
世界の部品であった
南の国も肩こりも
遥かに連結されていた
海辺の市をさまよいながら
わたしは わたしだけのあたらしい日々を望郷した

白い波が沖から押し寄せ

 「遥かに連結されていた」にも、私は傍線を引いていた。世界が部品に解体され、それは同時に、それまでとは違った「構造」というか、「連結」をさびしく夢見ているのだ。その連結の中には「南の国」も「肩こり」もある。
 日常の、流通言語でとらえた世界の構造では、そういうものは連結されない。けれど、松川は、そういうものを静かに連結する。
 「窓」を「ウルム心」という部品に解体し、そのあと「窓」として連結するとき、窓は少しあたらしいさびしさになっている。
 それと同じことが、「海辺の市」の「部品」と「世界」の関係で起きている。「さびしれ」が新しく定義しなおされている。いままで、誰も書かなかった抒情詩である。傑作詩集である。





ウルム心
松川 穂波
思潮社

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高橋睦郎『永遠まで』(16)

2009-08-16 00:21:18 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(16)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「ぼくはいつか」。北欧の詩人、ニルス・アスラク・ヴァルケアパー、通称アイルに捧げた詩。その書き出し。

ぼくはいつか みたことがある
はげしく吹きつける雪片(ひら)の中
せめぎあい ぶつかりあう枝角(づの)
吐き出され たちまち霧粒(つぶ)となる息と唾(つば)
大きく見ひらいた 血走った目 目 目
吹雪の森を抜け 凍てついた川を渡り
進む 進む けもの けもの けものの群
群に寄り添い 群を守る毛皮の人の群
雪に国境がなく けものに国境(くにざかい)がないように
毛皮の人の群にも 国が 国境がない

 トナカイの群れと狩猟の人々の描写だが「雪に国境がなく」がとても美しい。大地だけではなく、天にも国境がない。大地のことは国境と結びつけて想像するのはたやすいが、天のこととなると、私は思いもつかなかった。この天を、領土の上の「空」と考えれば、領空というものがあるから、そこに「国境」はあるのだが、私は「雪に国境がない」ということばを呼んだ瞬間、横にひろがる「空」ではなく、どこまでもどこまでも高みへのぼっていく天を思ったのだ。
 私の、この読み方は、誤読かもしれない。高橋は「領空」の意味で「雪に国境がない」と書いたのかもしれないが、私には「天」が真っ先に浮かんだのだ。そして、その「天」で起きている「気象」、空気の運動、水分の運動、蒸気が上昇し、冷やされ雪になって降ってくるという運動--その運動こそ、「国境」(国家)を超越している。その運動は、繰り返される真実である。地と天を行き来するその真理の運動に国境はない。そして、その運動は、天地とか東西南北とかいう、人間の意識をも超越して、自由である。真理というのは(あるいは、事実と言い換えてもいいと思うのだが)、自由なものなのである。

 そんな思いに、ぐい、と引っぱられるようにして詩を読み進むと、詩人・アイルの生涯が語られてゆく。アイルはトラックにはねとばされて宙を舞う。無事、回復し、高橋たちと連詩を読む。そして、突然、死んでしまう。昇天する。アイルは、地と天の間で、雪のように運動したのだ。軽やかに。

 詩の、最後の部分。

あれから四年 年ごとに透明になるきみの
気配の記憶に ことしまた はじめての雪
降りつづく雪の中で 国もなく 国境もなく
ぼくらが 習いおぼえなければならないのは
絶えず発つこと 発って無重力になること
無重力ですらない 透明な無の翼になること
無の翼でいっぱいの天(そら)に 宇宙になること

 「天」と「宇宙」が登場する。「雪に国境がなく」に、やはり「天」は隠れていたのだ。詩のことばは、たぶん、詩人の書きたいことを誘導するように動く。その誘導を信じて、そのことばについていくことができる人間が詩人なのかもしれない。
 そのとき、詩人のことばは、アイルそのままに、雪となって天を舞う。(そら)と高橋はルビを降っているが、その(そら)は「領空」とは無縁の、どこまでもどこまでも高い(そら)である。そのはてしない(そら)をことばが舞うたびに、高橋はアイルを思い出すのだ。高橋は、アイルのことばを追いながら、アイルそのものに、つまり、天と地を結ぶ真実になるのだ。
 とても美しい詩だ。


宗心茶話―茶を生きる
堀内 宗心,高橋 睦郎
世界文化社

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