詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ハナ・マフマルバフ監督「子供の情景」(★★★)

2009-08-22 22:56:27 | 映画

監督 ハナ・マフマルバフ 出演 ニクバクト・ノルーズ、アッバス・アリジョメ

 アフガニスタンの子供の姿をリアルに描いている。マーク・ハーマン監督「縞模様のパジャマの少年」のような「美化」がない。悲劇に仕立てるという美意識がない。そこが、とてもいい。
 6歳の少女が、学校へ行きたい、と思う。隣の男の子が学校でならってきた本を読んでいる。「男が昼寝をしている。くるみが落ちてきて、頭にこっつん。ああ、よかった、これがカボチャだったら俺は死んでいる。」というような話。何とか字が読めるようになりたい。「お話」を読みたい。だから、学校へ行きたい。
 学校へゆくにはノートと鉛筆がいる。合わせて20円(円、というのは、いい加減な私のでっちあげ。ほんとうはナントカカントカという通貨の単位があるのだが、面倒なので、円で我慢してね)。でも、お金がない。卵を4個売れば20円になる。生み立ての卵を持って市場を歩く。でも、だれも買ってくれない。そればかりか、2個は落としてしまう。10円にしかならない。あっちこっち歩くが買い手はいない。鍛冶屋さんがパンなら買う、という。そこで、パン屋へ行って物々交換。パンを持って、鍛冶屋へ行って、やっと10円。文房具屋へ行って、ノートだけ買う。鉛筆は、おかあさんの口紅で代用することにする。
 で、子守をしなければならないのだけれど、赤ん坊の足を紐でしばって、男の子と一緒に学校へ。でも、そこは男子校。「女の子は、川の向こう、あっちへ行け」と言われ、追い出されてしまう。女の子の学校へ行ったは行ったで、座る場所がない。それでも、なんとか、もぐりこむ。鉛筆がわりの口紅をみつけられ、教室はにわかに化粧ごっこがはじまる。それを先生にみつかり、またまた追い出されてしまう。なかなか、学校へ通うのもたいへんである。(おしんのように、学校の外から窓越しに勉強--というわけにはいかない。)
 このあたりの描写もおもしろい。卵を売り歩くシーンもいいが、特に、ノートと鉛筆の金がほしくて、おかあさんを探してあっちへ行ったりこっちへ来たりするシーンが、なかなかいい。険しい尾根の道を歩きながら、「おかあさん、どこ。崖の道を歩くのはこわいよ。崖から落ちたらおかあさんも困るでしょ。おかあさん、どこにいるの?」とさまようシーンがいい。尾根には深い亀裂も入っている。傍から見ていても危険なのだが、そこはやはり、現地の子(と、思う)。おぼつかない足どりではあるのだけれど、どことなく慣れている。何度も何度も、その道を通った感じが全身から滲んでいる。子供は、とても順応性がある。とても、たくましい。その感じが、このシーンにとてもよくでている。
 だからこそ、その後の「子供の情景」がいきいきとしてくる。
 女の子は、学校へ行きたい。ただ、そのことしか考えていないが、男の子たちはそうではない。非日常。とんでもないことに、こころを奪われる。アフガンでとんでもないこと、と言えば、戦争。それしかない。「タリバンごっこ」に夢中である。(私たちの世代が「アンポ」ごっこ、みんなで集まって「アンポ反対、アンポ反対」とデモもごっこするのに似ている。)
 みんなで女の子を取り囲んで、棒切れの機関銃で「プシュー、プシュー」(バンバン、バキューン」とは言わない)、ノートを取り上げ、まっさらな紙で紙飛行機つくる。友だちの少年をアメリカのスパイに見立て、落とし穴に落としたりもするし、ほかの女の子たちさらってきて(?)、洞窟に監禁したりもする。遊びだから、撃たれて死んだふりをすれば解放されるのだが、女の子たちには、その遊びのルールもわからない。男の子たちは、野原の道も洞窟だけでタリバンごっこをするわけではない。大人たちが一生懸命働いている畑(?)でも、みさかいなしに女の子やその友だちを追いかけ、「プシュー、プシュー」。大人は大人で、「やめなさい」というような注意などしない。子供相手に時間をつぶしたくないのだ。
 大人は、こどもをかまわない。最低限のことしか、しない。それ以外のことをする余裕がない。これが戦争の「日常」なのだ。庶民の「戦争」の日常なのだ。そのなかで、子供は、かなえられない夢を、それでも追いかける。学校で文字を習いたい。物語を読んでみたい。何が起きているのかわからないが、タリバンごっこは、棒切れがあればできる。体を動かし、時間を忘れることができる。勉強と、戦争ごっこに、区別はない。どちらも、自分の知らないことが、そこで起きている。だから、それに夢中になる。そこで生きるしかない。
 悲惨だけれど、そこには不思議ないのちの輝きがある。「縞模様のパジャマの少年」のような、悲劇はない。現実が悲劇になるには、ある虚構が必要なのだろう。子供は何も知らない、というような、大人にとって都合のいい虚構が。「子供の情景」の監督は、そういう「虚構」を排除している。そのかわりに、子供の欲望が引き寄せる世界をていねいに描写している。それはある意味で悲惨だが、とてもたくましい。そこが、この映画のいいところだ。

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誰も書かなかった西脇順三郎(65)

2009-08-22 07:02:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一五九
山のくぼみに溜(たま)る木の実に
眼をくもらす人には
無常は昔の無常ならず

 「くぼみ」から「くもらす」への移動。「くぼみ」の「ぼ」は「たまる」の「ま」を通って「くもらす」になる。「ば行」と「ま行」のゆらぎ。ともに唇をいったん閉じて、それから開く音。
 「無常」は「むじょう」。突然、あらわれたことばのようであるけれど、「むじょう」もまた「ま行」を含む。
 ここにも「音楽」がある。

一六〇
草の色
茎のまがり
岩のくずれ
かけた茶碗
心の割れ目に
つもる土のまどろみ
秋の日のかなしき

 「つもる土のまどろみ」という音が美しい。「ど」と「ろ」。さて、この「ろ」はRかLか。私の場合、Rの音になる。
 「つもる」の「る」はLに近づく。TとLは相性(?)がいい。
 けれどもTが濁音(?)Dになったとき、ら行はLよりもRに近づく。
 この行には、LとR、TとDが交錯し、口蓋、舌、歯の接触が微妙に違って、とてもたのしい。清音と濁音では声帯の響き方も違う。その変化に、私は音楽を感じる。



 


西脇順三郎全集〈別巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
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木村草弥「風力分級」、三井葉子「橋上」

2009-08-22 00:44:32 | 詩(雑誌・同人誌)
木村草弥「風力分級」、三井葉子「橋上」(「楽市」66、2009年08月01日発行)

 知らないことを読むのはとてもおもしろい。そして、私のようなずぼらな人間は知らないことがあると、それについて調べるのではなく、知らないことの中にある「知っていること」(わかっていること)、いや正確にいうと知っていると思っていること、わかっていると思っていることを中心にして「誤読」へ踏み込み、そこで勝手に「わかった」と自分だけで喜んでしまうのである。
 木村草弥「風力分級」は蟻地獄のことを延々と書いている。そこには「感想」というよりも事実が書いてある。(たぶん。)そして、その事実は専門的なことなので、私にはわからないことばがある。
 蟻地獄は、粒揃いでない荒地でどうやって巣(わな?)をつくるか。粒揃いになるように「整地」するのだそうだ。そして、そのとき「風力分級」という作業をする。

<風力分級の極意をアリジゴクに学ぶ>など考えてもみなかった。
つまりアリジゴクは整地作業をする際に砂を顎の力で刎ね飛ばすのだが
その際に「風力分級」という「物理学」を応用するのである。

 「風力分級」というのは風の力を利用して「ふるい」にかけるようなものなんだろうなあ。軽いものは遠くへ飛んで行く。重いものは近くに落ちる。それを利用して、自分にふさわしい砂(罠にふさわしい砂)を集める。うーん、アリジゴクのことを思うと気が遠くなるけれど、きっと、そういうことなんだろう。
 木村さん、あっています? 間違っています? 間違っていた方が、私はうれしい。
 どんな間違いであっても、その間違いさえも土台にしてことばう動いていける。間違っていた方が、とんでもない「思想」にたどりつけるからね。バシュラールは想像力を「ものを歪める力」と言ったような気がするが(あっています? 間違っています?)、このものを歪めてみる力の中にこそ、「思想」がある--と私はまたまた勝手にかんがえているので……。
 そして、このアリジゴク。成長する(?)とウスバカゲロウになるのだけれど、巣(罠)のなかにいる間は、糞をしないそうである。巣が汚れるのがいやだからだそうである。(アリジゴク語、ウスバカゲロウ語で聞いたのかしら?)そして、羽化してから、「二、三年分の糞を一度に放出するらしい。」(ああ、よかった。やっぱり、見えることを手がかりに、想像しているだけだね。--私のやり方と同じ、…………じゃないか。私は、ことばを勝手に「誤読」するのであって、事実を観察して、そこから推論を築いているわけではないから。)
 というようなことを、書いてきて、突然、最終連。

何も知らなかった少年は
年月を重ねて
女を知り
<修羅>というほどのものではないが
幾星月があって
かの無頼の
石川桂郎の句--《蟻地獄女の髪の掌に剰り》
の世界を多少は判る齢になって
老年を迎えた。

 あ、あ、あ。「女を知り/<修羅>というほどのものではないが/幾星月があって」なんて。小説(私小説)なら、その<修羅>を綿密に描くのだけれど(最近、詩でもそういうことを書いたものを読むけれど)、その肝心なこと(?)は書かずに、アリジゴクにぜんぶまかせてしまっている。
 きっと、そのなかには木村独自の「風力分級」があり、何年も糞をこらえているというようなこともあったんだろうなあ。(触れて来なかったけれど、途中に水生のウスバカゲロウの「婚姻飛翔」についての説明もあるのだ。)
 まあ、これは私の勝手な想像だけれど、この瞬間、アリジゴクの生き方が木村の「思想」そのものに見えてきて、とても愉しい。笑いたくなる。陽気になる。(申し訳ないけれど。)きっと、女との「修羅」を具体的に書かれても、これほどまでにはおもしろくないだろうと思う。女のことを書かずに、アリジゴク、ウスバカゲロウを科学的(?)に書くということの中にこそ、木村の「思想」がある。女、その修羅については、「科学的」には書けない。だから、書かない。書けることを(知っていること)を積み重ねて、その果てに、これは女と男の世界のことに似ているなあ、とぽつりと漏らす。その瞬間に、木村の「肉体」が見えてくる。
 私は、こういう作品が好きだ。



 三井葉子「橋上」は入院した友人のことを書いている。

いつ 死んでもいいよ
でも 今日でなくてもよい とわたしの友人が言いました

 という2行で始まり、その友人のことばに驚いたことを書いている。「今日でなくてもよい」は、とても傑作である。

あの世とこの世は彼岸と呼び 此岸と呼び
虚空には
橋が
懸かっていると言いますが

この友人のあしの軽さ あしどりのよさ
そう言えば北斎にも谷にかかる橋を渡るひょうきんな人たちを描いた
あでやかな
浮世絵がありました

あの世にも
この世にも傾かない
名人のあしが
座敷を歩いたり
縁先きを歩いたり。

 「あの世にも/この世にも傾かない」はいいなあ。たしかに、そういう「思想」を、「名人」の思想と呼んでいいのだと思う。「いつ 死んでもいいよ/でも 今日でなくてもよい」ということばを聞きながら、友人が座敷を歩いたり、縁先きを歩いたりしているときの、その軽やかな、けれど確かな足どりを思い出している。そういうふうに歩きたいと思っている。
 友人に対する親密さ、友人が三井によせる安心感のようなものが漂っている。





茶の四季―木村草弥歌集
木村 草弥
角川書店

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