詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

磯崎憲一郎「終の住処」

2009-08-14 15:45:55 | その他(音楽、小説etc)
 磯崎憲一郎「終の住処」(「文藝春秋」2009年09月号)

 芥川賞受賞作。ひさびさに、あ、おもしろい芥川賞作品だと思った。文章がいい。ていねいで、落ち着いている。
 ストーリーは、あって、ない。ストーリーはどうでもいいのである。

 妻はもう何年も前から知っていたのだ。「別に今に限って怒っているわけではない」おそらく妻は、俺と結婚する以前から結婚後に起こるすべてを知っていた、妻の不機嫌とは、予め仕組まれた復讐なのだ。妻は俺に復讐するために結婚した、しかし復讐せねばならないだけの理由、つまり俺の浮気は、じっさいには結婚した後に起こった。--この論理はあきらかにおかしい、因果関係が、時間の進行方向が反転している。しかし永遠の時間、過去・現在・未来いずれかの時間のなかで確実に起こることならば、ひとりの女といえどもそれを予め知ることが不可能などと誰がいえるだろう?

 ここに磯崎の書こうとしていることが集約している。「永遠の時間、過去・現在・未来いずれかの時間のなかで確実に起こること」は、人間は予め知っている。単純化していうと、人間は産まれ、死ぬ。これは、誰でもが知っている。そして、その間には、恋愛があり、結婚があり、ということも誰もが知っている。もちろん、そういうことをしない人もいるけれど、人の一生には、知らないことなど起きない。知らないことは、起きても、それがなんであるかはわからない。
 たとえば、9・11の同時テロ。起きてしまったことについて、私たちは何事かを知っているが、それが自分の生活とどんなふうにつながっているかは、誰も知らない。いや、わかっている人もいるかもしれないが、わからない人がほとんどである。どうして飛行機が何機も乗っ取られ、それが凶器になったのか。その劇的な変化と、自分の生活をつないで、生活のこととして語れる人は、誰もいないと言ってしまってかまわないくらいに、とても少ないはずである。
 ところが、そういう特別なことではなく、日常のことは、人は誰でも、何かが起きる前から知っている。この小説のテーマである結婚というか、男女のなかのことなど、特にそうである。男と女は出会ったときから、次に何が起きるかを知っている。知っていて、結婚するのである。そして、「やっぱりなあ」というような後悔(?)を抱きながら生きていく。(もちろん、逆に、「かならず夢がかなうとわかっていた」ということもあるのだが。)
 この、やっぱりなあ、というとき、その「やっぱりなあ」の向こう側(?)には、ことばにならないたくさんの思いがある。「やっぱりなあ」と思った瞬間、その思いの中に一気に結びついてくる過去の記憶というものがある。その結びつき方は、ある意味では、非論理的で、いい加減なものだが、突然、過去が現在と脈略をもち、同時に未来をも支配するということが、これもまた、ことばにできないくらいの「ひらめき」で頭のなかを駆け回る。
 これをことばにするのは、とても難しい。そこでは時間が収縮したり、逆にとてつもなく延びたりする。ことばにすると、どうしても非論理的で、くだくだとした愚痴(?)のようなもの、きいていてうんざりするようなもの、ぞれでどうしたの、といいたくなるようなものになってしまう。
 こういうことを、磯崎は、ていねいに書いている。
 たとえば。
 遊園地に妻と子供と一緒に遊びに行った。おもしろいことは何も起きない。さあ、帰ろうというときになって、

「せっかく来たのだから、観覧車にだけは乗っておきましょう」そのとき妻は、たしかに丘の頂上を見上げていた、しかしことばは別の遠い場所で話された過去の言葉のように、遥かに聞こえた。--そうか、しまった! もしかしたらこの観覧車は家(うち)の窓からでも、夕焼けのオレンジ色の稜線からわずかに飛び出る小さな黒い半円形として見えているのではないだろうか? きっとそうだ、そうに決まっている。結婚して、新居を構えてからの六年間というもの毎日、妻は遠くにこの観覧車が見えることだけを支えにして生活してきた、いつも妻が見ていた遠くの一点とは、まさしくこの観覧車にほかならないのではないか! --だが落ち着いて、冷静になって考え直してみれば、彼の家の窓が開いている南側は、この遊園地のある町とは真反対の方向だった、観覧車などは彼の家から見えるはずがないのだ。

 妻のことばをきっかけに、男は思いめぐらしている。一度は、「きっとそうだ」と思い、すぐに、その間違いに気がついてそれを否定している。ここでは、男の思い、錯覚がていねいに再現されているだけで、現実には何も起きていない。こういうことを、磯崎はていねいに書くことができる。
 こうしたことがら、いろいろな思い込み、錯覚、しかも、それは一瞬のことなので、現実にはなんの影響も与えないようなことは、いつでも人の思いの中にしまい込まれていて、ことばになることはない。そういう、ことばにならなかったことばを、すくいだし、小説の中にきちんと整理している。
 誰もが知っている、誰もが思っている--けれど、まだ誰も書かなかったことを書く。それが文学のおもしろさだ。醍醐味だ。



終の住処
磯崎 憲一郎
新潮社

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平岡敏夫『蒼空』

2009-08-14 15:02:22 | 詩集
平岡敏夫『蒼空』(思潮社、2009年08月01日発行)

 「あとがき」に「十四歳になって間もなく陸軍に入り、十五歳の夏の敗戦まで一年半ほど軍隊生活を体験した。」とある。そのときの体験を描いた詩集。
 「そら」という作品が一番こころに残った。

くろいほどのあおいそら
どこまでもひきこまれてしまうあおぞら
たましいのつながりがのぼってゆくそら

おんなのめのようにすみきったあおぞら
おんなのあしのようになめらかなそら
おんなのはだのようにあたたかいそら

たなびくしろいひげがみおろしているそら
くろいくろいまっくろなおくのおくのそら
あおぞらをかみがしずかにおりてくるそら

おれたはしごがうっすらうかんでいるそら
きれたいとがきらきらぶらさがっているそら
とっこうきがゆっくりすいこまれていったあおぞら

 3行目の「つながり」ということば。これが、たぶん平岡の「思想」である。平岡は何とつながっているのか。何につながりを見出すのか。
 特攻機が消えていく。その特攻機を操縦していた人も消えていく。「たましい」も消えていく。そして、それはひとつではない。いくつものたましい。同時に、そのたましいには「つながり」がある。「つながり」が「つながり」として、空をのぼってゆく。
 平岡の魂は、いま、ここに、地上にあるけれど、それはつながっているのである。
 見上げれば、空には、その「つながり」の糸が切れた状態でぶら下がっている。「きれたいとがきらきらぶらさがっているそら/とっこうきがゆっくりすいこまれていったあおぞら」。平岡は、いつでも、その空とつながっている。

 この「つながり」とは別に、平岡の「肉体」は、現実にあっては、また別のものと「つながり」を持っている。
 
浜町の飲食街の裏側からうどんの出し汁の匂いが、と思う間もなく、
重いブレーキ音とともに汽車は停車した。
                        (丸亀駅)

日朝点呼、五時四十五分。
ああ、木犀はにおっていたよ。          (木犀) 

道路ひとつ隔てた民家の奥から芋焼きの匂いが迫ってくる
                        (迫ってくる)

 平岡の健康な肉体は嗅覚を持っている。嗅覚が、軍隊の生活から日常の生活へ引き戻す。平岡の肉体は嗅覚で日常、平和とつながっている。
 「たましい」ではなく、ずっーと「匂い」とつながったまま生きる方がいい。
 健康な肉体と日常の平和とをつなぐ嗅覚--そのつながりを断ち切ってしまうのが「軍隊」(戦争)ということだろう。

 多くの「たましい」は嗅覚とは別の、平岡の知らない何かで「日常」とつながっていたかもしれない。そのつながりを断ち切られた無念さを思わずにはいられない。

 


蒼空
平岡 敏夫
思潮社

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廿楽順治「それから」

2009-08-14 11:38:52 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「それから」(「ガーネット」58、2009年07月01日発行)

 ことばは何のためにあるのだろう。存在しないことがら、事実ではないもの--いや、事実を超えたものを、事実の方に引き寄せるために、ことばは発せられる。
 きのう読んだ池田順子のことばに対する意識に似通うものが廿楽順治の作品にもあると思った。
 「それから」の冒頭。

つづくのがとてもいやになってしまった
ひとりひとり
刺身みたいに切れていたらどうだろう
意識はうすいよね
つづいて
いたときにはすこしも気づかなかった
かなしさ
お尻がまるだしなのにおしえてやれなかった

 人間は「つづいて」はいない。触れ合っても、手をつないでも、性交しても、肉体は「刺身みたいに切れて」いる。つながってはいない。
 つながっているのは「肉体」ではなく、「意識」である。「ことば」である。
 池田の「つつみ」では、少女と母の肉体はつながってはいないのに、つながっている。「意識」としてではなく、制御できない(制御する術のない)本能としてつながっている。本能が人間ひとりひとりを超越してつながっている。
 廿楽の「つづく」は、そういう本能とも違う。あくまで、「意識」である。だからこそ「意識はうすいよね」、ちょうど安い刺身のように……、と書かずにはいられない。
 安い刺身のように、とは、私がかってにつけくわえたことばではあるのだけれど、そんなふうに、なにかを「つづけ」てしまうのが、意識、人間の関係なのだろう。
 池田の「つながるいのち」の悲しみは愛しみであるが、廿楽の悲しみは哀しみである。愛と哀。どちらも「アイ」とも読めるのは、何か、理由があるのかもしれない。

(そういえば)
湖のなかにも
おなじような過疎の町があった
十九でそれをみた
住む
ためには私語が刺身にされなければならない
うすく
ひとや物と
このさき切れていかなければならない

に落ちていった友だちはひとり
なにかを探しにいったわけではないし
捨てにいったわけでもない
この空に
つづいていたくなかっただけ

 何もかもが「つづく」。(そういえば)ということばひとつで、過去のできごとも、いま、ここに「つづく」。
 つながるではなく、つづく。
 「つづいていたくなく」て、投身した友だちさえ、「つづいていたくな」かったということばで「つづいて」しまう。その矛盾。この矛盾を乗り越える方法、術はない。この矛盾を生きるしかない。それが、廿楽の哀しみである。


たかくおよぐや
廿楽 順治
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(57)

2009-08-14 07:42:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。
 
一二〇
色彩の世界の淋しき
葉先のいろ
名の知れぬ野に咲く小さき花
色彩の生物学色彩の進化論
色彩はへんぺんとして流れる
同一の流れに足を洗はれない
色彩のフラクリトス
色彩のベルグソン
シャバンの風景にも
古本の表紙にも
バットの箱にも
女の唇にも
セザンヌの林檎にも
色彩の内面に永劫が流れる

 「永劫」とそこに存在するのではなく「流れる」。そして、「永劫」が何かの「内面」に「流れる」とき「淋しい」。 
 この西脇哲学は、とてもおもしろい。
 けれど、それよりおもしろいのは、

色彩の生物学色彩の進化論

 ということばである。これはもちろん「色彩の生物学」「色彩の進化論」とふたつのことを書いているのだが、西脇は、そのふたつを改行もしなければ、一字空きもつかわずに、ひとつづきに書いている。だから、読み方によっては「色彩の、生物学色彩の進化論」というふうに読むこともできる。つまり、色彩、そのなかでも生物学色彩(というものがあると仮定しての話だが)の進化論、とも読むことができる。鉱物学色彩、水質学色彩、宇宙学色彩、文学色彩、哲学色彩などというものもあっても、いいじゃないか。そして、もし、そういうものがあるとすれば、そこにはやはり進化論というものがあって……、と私は読むのである。
 想像力は暴走し、誤読を勧めるのである。
 しかし、私の誤読は、そんなに的外れではないのかもしれない。

色彩のフラクリトス
色彩のベルグソン

 ほら、哲学色彩が出てきた。--というのは、冗談のようなものだが、「色彩の生物学色彩の進化論」は「色彩の生物学/(一呼吸)色彩の進化論」と読んではいけない。きっと、そう読んではいけない。あくまで、区切ることなく、呼吸の間を差し挟むことなく、一気につづけて読む。
 そうすると、そのリズムにのって、ことばがぐいぐい暴走する。ベルグソンも古本もバット(たばこだろう)の箱も、同列に並んで動く。この明るさ、軽快さが、とても気持ちがいい。

 セザンヌが大好きな私としては、「一二〇」は前の部分を全部叩ききって、最後の2行、

セザンヌの林檎にも
色彩の内面に永劫が流れる

 という行だけが独立していた方が、もっと、うれしい。--これは、西脇の詩の読み方に反する思いかもしれないけれど、まあ、私は、誰の作品も、自分勝手にしか読むことしかできないのだが、確かに、セザンヌの林檎の内面には永劫が流れている。だから美しく、そして淋しい。



幻影の人 西脇順三郎を語る

恒文社

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高橋睦郎『永遠まで』(14)

2009-08-14 01:15:35 | 詩集
高橋睦郎『永遠まで』(14)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「学ぶということ」はイギリスへの旅を描いている。「ヒーニーに」という副題をもつ「本と人」が好きだ。

あなたはカシの枝をたたえ
ぼくはヤドリギの葉叢をうたう
たかが木の枝とはいうまい
いつも彼方からぼくらを招く手
よい香りのする 緑の魂なのだ

 自然--緑の魂。そして、それには「よい香り」がする。この「よい香り」の発見が、とてもうれしい。この「よい」香りの発見があるからこそ、反省がうまれる。反省をうながすものは「よい」ものなのだ。「よい」思想、よい「哲学」に匹敵する「よい」香り。それは哲学や思想とは違ってことばを持たない。それゆえに、矛盾しない。とても強い存在である。しかし、人間は、その強い存在を、緑の魂である自然を破壊してきた。殺してきた。そのことについて触れた、後半部分。

ぼくらは何をして来たか
鉞(まさかり)をもって 幹を切り倒した
ナイフでもって枝を払った
あげくに その下で語り合う
読み 考える緑のないのを嘆く
むしろ 声を挙げて哭くべきなのだ
寛大な庇護者を殺したと
敵を殺す者は敵に復讐される
しかし 庇護者を殺した者には
殺されるやすらぎすらもない
影のない曠野(あらの)をさすらいつづけ
永遠に死ぬこともできない

 自然を殺した人間は、死ぬこともできない。それは死が人間にやってこないということではない。死んで、死ぬことによって、いのちをつないでいくことができないということだ。
 しかし、高橋は、そう書くことで、かろうじて死ぬことができる人間になった、といえるかもしれない。死のあとに、死後があり、その死後を生きるために何をすべきかを知ったからである。死後を、生きるために、書く。ことばを書く。
 「永遠に死ぬことはできない」と書く。

 「学ぶということ」は明るい響きに満ちた作品だ。

大学の町を迷っていて 突然出た明るい墓地
五月の草花が咲き乱れ 蜜蜂が羽音を震わせる中
碑銘板に背を凭(もた)せ 墓蓋に腿を伸ばして
テクストを読むのに余念のない 髭の若者
隣の墓蓋には少女が腰掛けて ヘッドフォンに瞑目中
向いあった墓に胡坐(あぐら)して 議論に夢中の二人もある
通りかかる大人の誰一人 咎める者もない
咎めないのは 蓋の下の死者たちも同じ
若い体温の密着を むしろ悦んでいる面持ち
生は死と 死は生と いつも隣り合わせ
学ぶとはつまるところ その秘儀を学ぶこと
生きて在る日日も 死んでののちも

 死んでののち、死後を生きるとは、つまり、「学ぶこと」なのだ。ことばを動かすことなのだ。常に自分のことばを捨て、新しい他人のことばを生きる。他人になる。究極の他人とは、死んでしまった「私」である。絶対に出会えない存在としての、「死後の私」。それを生きるため、その準備のために、ことばを動かす、詩を書く。それが高橋の「生き方」(思想)である。




すらすら読める伊勢物語
高橋 睦郎
講談社

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