詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八木幹夫「かわら」

2009-08-31 00:23:14 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「かわら」(「交野が原」67、2009年10月01日発行)

 詩には「時間」がない。「いま」「ここ」がない。だが、それは「永遠」というものとも違う。
 そんなことを、八木幹夫「かわら」を読みながら考えた。

真っ赤な夕陽をみた
相模川の石ころばかりが
ころがる川原で

真っ赤な夕陽をみた
私の中を流れる
どここも知れない川原で

私は少年だったのだろうか
私は老人だったのだろうか

 論理的(?)にことばを追うなら、八木は相模川の川原で夕陽を見ていることになる。そして、その夕陽を見ながら「いま」「ここ」ではない夕陽を見ている。「いま」「ここ」が消えて、「どことも知れない」場所にいて、夕陽を見ている。「場」がわからないだけではなく、「時間」もわからない。自分が「少年」なのか「老人」なのか、それがわからない。
 もし、過去に見た夕陽を思い出しているのなら、八木は「少年」であるはずである。少なくとも、「いま」の自分よりは若いはずである。「いま」の自分より「老人」であるはずがない。「未来」は思い出せないからである。
 けれども、詩は論理ではない。
 詩のなかでは、ひとは「未来」を思い出すことができる。想像するのではなく、思い出すことができる。詩を感じる瞬間、ひとは「時間」を超越しているからである。(時間を超越すると「永遠」になるのだが、八木の場合は、少し違う。)そして、いったん、時間を超越すると、その瞬間、ひとはひとでもなくなる。(ひとがひとでなくなる、というのも絶対的な真理?と考えれば「永遠」の一種だが、八木の場合は少し違う。--地眼底ルように私には感じられる。)

 先に引用した部分につづく4連目が美しい。

繰り返し川に向かって
きいてみた
川は横向き 水はどんどん流れていく

 「私」は「私」ではなくなっている。「少年」でも「老人」でもなくなっている。何になっているか。「川」になっている。「川」になってしまえば、「川に向かって/きいてみた」ということはできない?
 それは、論理のことばで考えるから、できない。
 川に向かって「私は少年だったのだろうか/私は老人だったのだろうか」と聞くとき、その答えに答えるのは川だが、川は人間ではないからことばを持たない。答えようがない。それなのに川に聞く。ほんとうに川に向かって聞いたのなら、そのとき「私」は問いかけると同時に、「川」になって、「私」に答えようとしている。「川」になった、「川」に答えさせようとしている。
 だが、聞くためには、「私」でもなければならない。
 「私」と「川」--同時に、ふたつの存在であることはできない。矛盾。その矛盾のなかで、「私」と「川」は区別がないものに、混沌になる。(永遠の真理とはまた別のもの、混沌、無になる。)

川は横向き 水はどんどん流れていく

 「いま」でも「ここ」でもない。「いつ」でも「どこ」でもない。それなのに、水は流れる。ものが動くとき、そこには「時間」がある。水が流れるは「時間」が流れるというのにひとしい。ここに「永遠」ではない時間が姿をあらわす。
 「いま」でも「ここ」でもない。「過去」でも「未来」でもない。「私」は「少年」であり、「老人」であり、また「川」でもある--という「混沌」のなかにいて、ただ「時間だけ」が確実に過ぎ去っていく。確実なのは「過ぎ去る」ということである。
 「少年」も過ぎ去れば、まだなっていない「老人」でさえ、八木から遠ざかっていく。過ぎ去っていく。
 これは、八木がたどりついた「無常」である。

 そして「無常」は「非情」でもある。人間の気持ちなど考慮しない、という意味である。「川は横向き」が「非情」である。どんなに聞いてみても、聞かない。聞こえない。人間の感情とは違う世界を生きている。「非情」とは情けを拒むのではなく、情けというものを理解しないのである。
 情けというものが入り込む余地がない--非情。
 だから、そこには、べたべたしたセンチメンタルがない。


どうしてこんなところで
来るはずのないひとを待っているのだろう
どうしてこんな時間に
たったひとりで棒など振り回しているのだろう

夕暮れはまちがいなく
胸を暗くつつみはじめているというのに

真っ赤な夕陽をみた
どことも知れない川原で

帰らなければならないのだが
早く帰ってあやまらなければならないのだが
もう私には叱ってくれる
だれもいない

真っ赤な夕陽をみた
ゆっくりゆっくり沈んでゆく

 八木の「無常」は「ゆっくりゆっくり」である。「ゆっくり」であるということは、そのあいだ、こころがどうしてもあちこちさまようということである。「私は少年だったのだろうか/私は老人だったのだろうか」という、いわば極端をさえもさまようのである。そこに、哀しみがある。






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