詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤恵美子「チェロを背負う人」

2009-08-08 18:45:17 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵美子「チェロを背負う人」(「朝日新聞」2009年08月08日夕刊)

 斎藤恵美子「チェロを背負う人」は少し変わった光景を描いている。全行。

漆黒の 光沢のあるチェロケースを
等身大の影のように
背負いながら 階段を降りる人

木で包まれた
たっぷりとした空洞の たてる音を
耳におもう 月曜日

演奏の 核心は
音ではない 情念なのだ
そう言ったのは どの大陸の
ヴァイオリニストだったろう
ならば音から情念を 除くと
何が弦にのこる?

アルペジオーネ・ソナタが ふと
彼女の背中で 彼女だけを
抱きとる音色で
響き始めてしまいそうな
そんな ゆるやかな足取りを

遠い沈黙を 見送るように
しずかな気持ちで まだ見ている

 2連目の「耳におもう」がおもしろい。「耳」という肉体から「背中」という肉体が登場するまでは、観念的でつまらないが、「耳」に追いつくように「背中」が登場すると、チェロケースそのものが斎藤の肉体にかわったような感じがする。
 斎藤はチェロケースを見ながら、チェロケースという肉体になる。そのとき、斎藤の肉体のなかでは音楽が響いている。斎藤は、単にチェロケースであるだけでなく、音楽にもなっている。そして、音楽となって「彼女」をだきとったとき、「彼女」とも一体になる。斎藤と、斎藤のみつめるもの(みつめられた対象)が一体になる。
 この一体感こそ、音楽かもしれない。だから、

そんな ゆるやかな足取りを

 この行の「足取り」の主語が混然とする。「音色」なのか、「彼女」なのか。融合したもの、一体となったものだ。そして、それが一体であるということは、そこに斎藤自身も含まれる。
 だからこそ(というのは、論理の飛躍かもしれない、論理ではないことを論理的に言うために、だからこそ、と私はわざと書いている)、最後の2行の前に、1行空きが必要なのだ。チェロケースを背負って階段を降りる人を見た――その主語、斎藤を「一体」となったもの、音楽から引き離すために、1行空きという断絶が必要なのだ。斎藤という「主語」をもう一度登場させ、「見ている」という動詞を動かさないことには、世界は、落ち着く場所がなくなるからだ。

 もっとも、世界を落ち着かせる必要はない。世界は暴走すればいい、という視線、そういう思想で書かれる詩もあるが、それは斎藤のスタイルとは違うということだろう。
 それはそれとして。
「耳」「背中」「足(取り)」という肉体の広がり、特に最後が「足」ではなく「足取り」という運動になり、世界がそれとともに、溶け合うのがおもしろい。


ラジオと背中
齋藤 恵美子
思潮社

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松岡政則『ちかしい喉』(2)

2009-08-08 12:07:19 | 詩集
松岡政則『ちかしい喉』(2)(思潮社、07月15日発行)

 松岡は、とてもいい耳をしているのだと思う。「山犬」には、きのう見たのと同じような、自然のというか、人間とは違ったリズムを生きるものの音が、しっかりと書かれている。

薪をくべ、
また薪くべ、
いっしんに火を焚いている
燃えさかる火の穂が
こどもの顔を照らしているのがわかる
バキッ、
またバキッと薪が割け
そのたびに記憶の底面がずれた

 この、自分以外の生きるものの音を聞く耳は、人間に触れるとき、とても繊細になる。「名のるひと」を読んで、そう思った。全行。

うすみどりの風が
街なかをわたるころ
近くのスーパーのレジに
背の高いひとが入った
躰のどこかに
えくぼのようなものを残すひとだ
何気に名札を見ると
<李>
とあった
い。
り。
どちらもいい音がする
名札は何かに抗う、
というのではなくただそこに、
あるがままに凛然と名のっているのだった

何ヶ月かして
その人をぱったり見かけなくなった
レジのあたりがなんだかうす暗い
悪い時代がきている

桃を買う。

 「えくぼのようなものを残すひとだ」が印象的だが、「い。/り。」の2行がもっといい。句点「。」で、しっかりときって、音を確かめている。声に出して言ったわけではないだろうけれど、呼吸が、ぐっとことばを押さえている。こういう呼吸をそのまま文字にできるのは、耳がしっかりしているからだと思う。自分のだした声を聞きとる耳を持っているのだ。
 私は音痴なので、自分の出している声を自分で聞きとるのが苦手だが、松岡は、きちんと自分の声を聞き取り、その呼吸、リズムに、思いを託すことができるひとである。
 それは「名札は何かに抗う、/というのではなくただそこに、」という2回の読点「、」の動きにもあらわれている。
 自分の声を聞いて、立ち止まり、確かめるようにしてことばを運ぶ。

 声高に主張するわけではないのだが、松岡自身が彼の声をていねいに聞いているので、読んでいる私も、静かに、その声の奥にあるものへと誘われる。

 こいう耳の持ち主だから、次の詩が美しく響く。「行方知れず」。

嫌がるあなたを
コンクリートの橋桁に圧しつけて
ハズカシイ、といわせたい
ぼくは何もいわない
絶対に。
わかっている
いえば青空が台無しになる

 いい耳は、自分以外の、つまり他者の、ことばにならない声さえ聞きとることができるから、言うべきことと、言わないでおくべきことをしっかり区別するのだ。松岡がいわなくても、相手に聞こえる声があることを知っているのだ。
 ことばは必ずしもすべてを言わなくていいのだ。言わない方が、強く強く、相手にとどくということもあるのだ。
 ことばを超越して、耳で、会話する。奇妙な言い方になるが、松岡は耳で会話することができる人なのだと思った。

あなたに、ぼくの目は見えない
杉山の匂いだけがあなたの背後にひろがる
ぼくはぐしょ濡れた指先の無言からどろどろ溶けて
そのまま日向の行方知れずになりたい行方知れずになりたい

 あ、いいなあ。最後の、読点「、」さえない「行方知れずになりたい」のくりかえし。ことばにならないからこそ、耳の中でこだまする。そのこだまだけがどこまでもどこまでも世界へひろがってゆく。「肉体」は、いま、ここに、取り残されて。
 切ないなあ。けれど、うれしいなあ。矛盾が、美しい。




草の人
松岡 政則
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(51)

2009-08-08 07:34:22 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

九八
露にしめる
黒い石のひややかに
夏の夜明け

 俳句のような世界。この3行も、とても絵画的だと思う。同時に、触覚も刺戟する。目に見えて、同時に手が触れてしまう。感覚の融合--その喜びがある。

一〇二
草の実の
ころがる
水たまりに
うつる
枯れ茎のまがり
淋しきひとの去る

 2行目の「ころがる」がとても不思議だ。落ちている、を「ころがる」と書く。実際には動かないのだが、「ころがる」ということばによってそのとまっているはずの草の実が動きだす。過去から現在へ。あるいは現在から未来へ。そこに「時間」が生まれてくる。そして、その「時間」が「空間」を呼び込む。「時間」と「空間」はとけあい、ひとつになる。
 「うつる」--その静止と、「ころがる」の対比。そこに越境してくる「まがり」。
 すべてが自然に動いていく。動きながら、世界が広がる。

一〇四
八月の末にはもう
すすきの穂が山々に
銀髪をくしけづる
岩間から黄金にまがる
女郎花我が国土の道しるべ
故郷に旅人は急ぐ

 「銀髪をくしけづる」は銀色に輝くすすきの描写だが、濁音、半濁音、もういちど出てくる濁音の感じが、秋風の、いろいろな温度の空気がまじっている感じにぴったりあう。(と、私の肌は思う。)
 4行目の「岩間から黄金に」という音が、私にはとても美しく聞こえる。「い」という狭い母音から「あ」のつらなりによって、発声器官が解放され「おーごん」という「お」の深い音が静かに閉じていく感じが気持ちがいいのかもしれない。
 また、「黄金にまがる」の「黄金」はきっと夕陽の色だろう。夕陽はまっすぐに進んでくる--と私は思っていたが、そうか、光にも「まがる」瞬間があるのか、となんだか驚いてしまう。




西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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高橋睦郎『永遠まで』(8)

2009-08-08 00:18:31 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(8)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「おくりもの」には「七年後の多田智満子に」という副題がついている。とても美しい行がある。

今朝がた 夢にあなたを見た
あなたはうしろ向きで
地面に しゃがんでいた
ぼくは声をかけようとしたが
やめた
あなたが ぼくのことを
憶えていない と思えたから
死の床のあなたは
未知のむこうが愉しみだ
と 顔じゅうでかがやいた
むこうがわに着いて
そこがどんなか
知らせる方法が見つかったら
きっと背中を押すから
と ほほえんだ
あれから七年
あなたは忘れてしまったのだ

 高橋にとって、多田とは常に未知のものに対して顔を輝かせる人間だったのだろう。高橋は、多田になって死んでみる。その死を生きてみる。そうすると、未知のもの、いままで知らなかったものがいっぱい見えてくる。それは愉しい。至福だ。「そこがどんなか/知らせる方法がみつかったら/きっと背中を押すから」という約束さえ忘れてしまうほど、きっと愉しい。
 死の床であってさえ、未知に対する愉しみを知っていた。実際に、未知の国へ行ってしまえば、もう、その愉しみのとりこになる。昔の約束など、覚えているはずがない。
 それは当然のことなのだ。未知のものを書くこと、詩を書くことに生涯を捧げた多田なら、きっと、死をそんなふうに生きる。そうでなくてはならない。高橋などを思い出して、この世に未練を残してもらっては困るのだ--と高橋は思っている。それほど、未知にこころを奪われてしまう多田を高橋は愛していた。高橋にとって、多田は未知を愛する知だったのだ。
 このことを、高橋は、詩の後半で言い換えている。

生きている者は 生きる中で
死者について 忘れっぽい
と世間でいうのは 正しくない
忘れるのは 死者のほう
いいえ 咎めるのではない
忘れることが 死者にとって
生者にとっては 忘れないことが
なによりの慰謝なのだ

 死者は生者を忘れてしまわなければならない。そうしないと、せっかくの(?)死を生きたことにならない。
 高橋は、死んでこそ、というか、死んだなら、その死を生きるのが人間にとっていちばん大切なことだと考えている。
 生きている(生き残っている)高橋は、常に、死者(多田)を思い出し、といっても、昔の、生きているときの多田を思い出すというのではなく、死の世界を生きているという多田を思い出すこと、思うことが、「慰謝」である。多田は、死の世界、その未知の世界を夢中になってことばにしようとしている。それを、高橋は、生きながら、追いかけるのである。ことばで。

あなたは忘れ ぼくは忘れない
忘れないぼくも 死んだ瞬間から
あなたと同じに 忘れてしまうだろう
忘れたあなたと 忘れたぼくが
そこで出会うことは たぶんない

 それは寂しいことか。悲しいことか。それを寂しい、悲しいと思うのは、生にとらわれた考えなのだろう。知を生きる二人、多田と高橋は、新しい世界では新しいことばを追いかける。そのことばを追いかけることに夢中になって、二人が知り合いであったことさえ忘れてしまっている。それは、死を生きている二人にとっては至福である。なぜなら、もし、そのとき二人が出会って、互いを認識できるとしたら、二人は「新しい世界(未知の世界)」を生きているのではなく、過去を、わかりきった世界を生きていることになるからだ。
 そんなことでは、死んだかいがない。
 死んでしまったからには、生きていたときは知ることのできなかった新しい世界を発見し、それをことばにし、自分自身を喜びでみたさないで、どうしよう。

忘れたあなたと 忘れたぼくが
そこで出会うことは たぶんない
そのことが あなたの死のおくりもの
あなたのおくりものを育てるために
おりおり あなたを思い出す
ときには 夢に見る
そのことが 黄泉であり
ハデスなのですね
明るくも 暗くもない
それが生きること
いつか死ぬことなのですね

 哲学を死の練習とソクラテスは言ったが、高橋にとって、死を生きている多田を思い出すことが、死の練習--つまり、生きることなのだ。




十二夜―闇と罪の王朝文学史
高橋 睦郎
集英社

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