斎藤恵美子「チェロを背負う人」(「朝日新聞」2009年08月08日夕刊)
斎藤恵美子「チェロを背負う人」は少し変わった光景を描いている。全行。
2連目の「耳におもう」がおもしろい。「耳」という肉体から「背中」という肉体が登場するまでは、観念的でつまらないが、「耳」に追いつくように「背中」が登場すると、チェロケースそのものが斎藤の肉体にかわったような感じがする。
斎藤はチェロケースを見ながら、チェロケースという肉体になる。そのとき、斎藤の肉体のなかでは音楽が響いている。斎藤は、単にチェロケースであるだけでなく、音楽にもなっている。そして、音楽となって「彼女」をだきとったとき、「彼女」とも一体になる。斎藤と、斎藤のみつめるもの(みつめられた対象)が一体になる。
この一体感こそ、音楽かもしれない。だから、
この行の「足取り」の主語が混然とする。「音色」なのか、「彼女」なのか。融合したもの、一体となったものだ。そして、それが一体であるということは、そこに斎藤自身も含まれる。
だからこそ(というのは、論理の飛躍かもしれない、論理ではないことを論理的に言うために、だからこそ、と私はわざと書いている)、最後の2行の前に、1行空きが必要なのだ。チェロケースを背負って階段を降りる人を見た――その主語、斎藤を「一体」となったもの、音楽から引き離すために、1行空きという断絶が必要なのだ。斎藤という「主語」をもう一度登場させ、「見ている」という動詞を動かさないことには、世界は、落ち着く場所がなくなるからだ。
もっとも、世界を落ち着かせる必要はない。世界は暴走すればいい、という視線、そういう思想で書かれる詩もあるが、それは斎藤のスタイルとは違うということだろう。
それはそれとして。
「耳」「背中」「足(取り)」という肉体の広がり、特に最後が「足」ではなく「足取り」という運動になり、世界がそれとともに、溶け合うのがおもしろい。
斎藤恵美子「チェロを背負う人」は少し変わった光景を描いている。全行。
漆黒の 光沢のあるチェロケースを
等身大の影のように
背負いながら 階段を降りる人
木で包まれた
たっぷりとした空洞の たてる音を
耳におもう 月曜日
演奏の 核心は
音ではない 情念なのだ
そう言ったのは どの大陸の
ヴァイオリニストだったろう
ならば音から情念を 除くと
何が弦にのこる?
アルペジオーネ・ソナタが ふと
彼女の背中で 彼女だけを
抱きとる音色で
響き始めてしまいそうな
そんな ゆるやかな足取りを
遠い沈黙を 見送るように
しずかな気持ちで まだ見ている
2連目の「耳におもう」がおもしろい。「耳」という肉体から「背中」という肉体が登場するまでは、観念的でつまらないが、「耳」に追いつくように「背中」が登場すると、チェロケースそのものが斎藤の肉体にかわったような感じがする。
斎藤はチェロケースを見ながら、チェロケースという肉体になる。そのとき、斎藤の肉体のなかでは音楽が響いている。斎藤は、単にチェロケースであるだけでなく、音楽にもなっている。そして、音楽となって「彼女」をだきとったとき、「彼女」とも一体になる。斎藤と、斎藤のみつめるもの(みつめられた対象)が一体になる。
この一体感こそ、音楽かもしれない。だから、
そんな ゆるやかな足取りを
この行の「足取り」の主語が混然とする。「音色」なのか、「彼女」なのか。融合したもの、一体となったものだ。そして、それが一体であるということは、そこに斎藤自身も含まれる。
だからこそ(というのは、論理の飛躍かもしれない、論理ではないことを論理的に言うために、だからこそ、と私はわざと書いている)、最後の2行の前に、1行空きが必要なのだ。チェロケースを背負って階段を降りる人を見た――その主語、斎藤を「一体」となったもの、音楽から引き離すために、1行空きという断絶が必要なのだ。斎藤という「主語」をもう一度登場させ、「見ている」という動詞を動かさないことには、世界は、落ち着く場所がなくなるからだ。
もっとも、世界を落ち着かせる必要はない。世界は暴走すればいい、という視線、そういう思想で書かれる詩もあるが、それは斎藤のスタイルとは違うということだろう。
それはそれとして。
「耳」「背中」「足(取り)」という肉体の広がり、特に最後が「足」ではなく「足取り」という運動になり、世界がそれとともに、溶け合うのがおもしろい。
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