粕谷栄市「夢の墓」(「歴程」561 、2009年07月31日発行)
粕谷栄市「夢の墓」は夢でみた光景を描いている。
夢の中なので、主客は入れ替わる。主客どころか、人間と墓石さえもが入れ替わるということもある。ようするに、区別がつかなくなる。
ここまでは「夢」の話であるから、何があってもおかしくはない。
このあと、粕谷のことばは、夢を突き破って、夢以上のもの、夢を超越したものになる。そこが、すごい。
「彼だけのものである」というときの「彼」をどうとらえるべきなのか。人間一般か。それとも、石の墓を抱き起こしていた男か。もし、人間一般をさす、つまり、その「彼」に粕谷自身も含まれるのだとすれば、後半の文章は奇妙である。主語を「私」にすれば、「私も、この夢のできごとを記憶として持ったまま死んでゆく」ということになるが、粕谷はそうは書いてはいない。奇妙にねじれている。「彼は」という主語が、「夢のできごとの記憶」にすり変わっている。「主語」が消えているのだ。
「彼」を主語に置き換えて書き直してみると、つまり、「私の夢、その夢でおきたできごとも、彼の記憶となって、彼はそれをかかえたまま、死んでゆく」ということにならないだろうか。
粕谷の夢は粕谷しか知らない。それを語ったことばをとおして、読者である私たちは知っているが、夢の登場人物である「男」には、その夢の内容などわかるはずがない。論理的にはそうなのだけれど、夢の中ではなにもかもが入れ替わり、同一のものなので、現実の論理を超越したことが起きるのだ。
夢の中の登場人物が、夢見られたまま、その記憶をかかえて死んでいく--ということが起きるのだ。
非・論理というよりは、超・論理なのだ。
粕谷の詩は散文詩である。散文詩は、どちらかというと、論理的である。行から行への飛躍が少ない。けれど、粕谷のことばは、飛躍を粘着力にすりかえて(?)、不思議な具合にねじれ、飛躍するかわりに、論理の闇へおりていくときがある。
という1行は、そういう粕谷の特徴が、あやしく表にでてきたものである。
粕谷栄市「夢の墓」は夢でみた光景を描いている。
寒い霧の暁、ひとりの男が、石の墓を抱き起こしているのを見た。何故か、私は、その墓地にいて、鉄の柵を隔てて、その姿を見ることになった。どこからか、僅かに、光が漏れていて、一瞬、その彼が見えたのだ。
夢の中なので、主客は入れ替わる。主客どころか、人間と墓石さえもが入れ替わるということもある。ようするに、区別がつかなくなる。
寒い霧の暁、私が、その男で、石の墓を抱き起こしていたのかもしれない。いや、私自身が、石の墓で、彼に抱き起こされていたのかもしれない。
ここまでは「夢」の話であるから、何があってもおかしくはない。
このあと、粕谷のことばは、夢を突き破って、夢以上のもの、夢を超越したものになる。そこが、すごい。
ひとりの人間の記憶は、彼だけのものである。彼は、さまざまな記憶を持ったまま、死んでゆく。この私の夢のできごとの記憶も、そうなるだろう。
「彼だけのものである」というときの「彼」をどうとらえるべきなのか。人間一般か。それとも、石の墓を抱き起こしていた男か。もし、人間一般をさす、つまり、その「彼」に粕谷自身も含まれるのだとすれば、後半の文章は奇妙である。主語を「私」にすれば、「私も、この夢のできごとを記憶として持ったまま死んでゆく」ということになるが、粕谷はそうは書いてはいない。奇妙にねじれている。「彼は」という主語が、「夢のできごとの記憶」にすり変わっている。「主語」が消えているのだ。
「彼」を主語に置き換えて書き直してみると、つまり、「私の夢、その夢でおきたできごとも、彼の記憶となって、彼はそれをかかえたまま、死んでゆく」ということにならないだろうか。
粕谷の夢は粕谷しか知らない。それを語ったことばをとおして、読者である私たちは知っているが、夢の登場人物である「男」には、その夢の内容などわかるはずがない。論理的にはそうなのだけれど、夢の中ではなにもかもが入れ替わり、同一のものなので、現実の論理を超越したことが起きるのだ。
夢の中の登場人物が、夢見られたまま、その記憶をかかえて死んでいく--ということが起きるのだ。
非・論理というよりは、超・論理なのだ。
粕谷の詩は散文詩である。散文詩は、どちらかというと、論理的である。行から行への飛躍が少ない。けれど、粕谷のことばは、飛躍を粘着力にすりかえて(?)、不思議な具合にねじれ、飛躍するかわりに、論理の闇へおりていくときがある。
この私の夢のできごとの記憶も、そうなるだろう。
という1行は、そういう粕谷の特徴が、あやしく表にでてきたものである。
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