詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「夢の墓」

2009-08-05 09:41:22 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「夢の墓」(「歴程」561 、2009年07月31日発行)

 粕谷栄市「夢の墓」は夢でみた光景を描いている。

 寒い霧の暁、ひとりの男が、石の墓を抱き起こしているのを見た。何故か、私は、その墓地にいて、鉄の柵を隔てて、その姿を見ることになった。どこからか、僅かに、光が漏れていて、一瞬、その彼が見えたのだ。

 夢の中なので、主客は入れ替わる。主客どころか、人間と墓石さえもが入れ替わるということもある。ようするに、区別がつかなくなる。

 寒い霧の暁、私が、その男で、石の墓を抱き起こしていたのかもしれない。いや、私自身が、石の墓で、彼に抱き起こされていたのかもしれない。

 ここまでは「夢」の話であるから、何があってもおかしくはない。
 このあと、粕谷のことばは、夢を突き破って、夢以上のもの、夢を超越したものになる。そこが、すごい。

 ひとりの人間の記憶は、彼だけのものである。彼は、さまざまな記憶を持ったまま、死んでゆく。この私の夢のできごとの記憶も、そうなるだろう。

 「彼だけのものである」というときの「彼」をどうとらえるべきなのか。人間一般か。それとも、石の墓を抱き起こしていた男か。もし、人間一般をさす、つまり、その「彼」に粕谷自身も含まれるのだとすれば、後半の文章は奇妙である。主語を「私」にすれば、「私も、この夢のできごとを記憶として持ったまま死んでゆく」ということになるが、粕谷はそうは書いてはいない。奇妙にねじれている。「彼は」という主語が、「夢のできごとの記憶」にすり変わっている。「主語」が消えているのだ。
 「彼」を主語に置き換えて書き直してみると、つまり、「私の夢、その夢でおきたできごとも、彼の記憶となって、彼はそれをかかえたまま、死んでゆく」ということにならないだろうか。
 粕谷の夢は粕谷しか知らない。それを語ったことばをとおして、読者である私たちは知っているが、夢の登場人物である「男」には、その夢の内容などわかるはずがない。論理的にはそうなのだけれど、夢の中ではなにもかもが入れ替わり、同一のものなので、現実の論理を超越したことが起きるのだ。
 夢の中の登場人物が、夢見られたまま、その記憶をかかえて死んでいく--ということが起きるのだ。

 非・論理というよりは、超・論理なのだ。

 粕谷の詩は散文詩である。散文詩は、どちらかというと、論理的である。行から行への飛躍が少ない。けれど、粕谷のことばは、飛躍を粘着力にすりかえて(?)、不思議な具合にねじれ、飛躍するかわりに、論理の闇へおりていくときがある。

この私の夢のできごとの記憶も、そうなるだろう。

 という1行は、そういう粕谷の特徴が、あやしく表にでてきたものである。



転落
粕谷 栄市
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(48)

2009-08-05 07:41:37 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

八五
よもぎの藪に
こひるがほの咲く夜明
あさめしに招かれて
そばを喰べに急ぐ
露の旅は無情の天地
日天月天の間にすだく
生命の時間今日も過ぎ行く

 1行目と2行目には不思議な音がある。濁音の響きの中から、何か透明な音がある。「咲く」の「さ」。この音がとても美しい。
 そして、そのあと次々に「さ行」の音が出てくる。「あさめし」「そば」「無情」(「さ行」でありながら、濁音という微妙な音の変化)「すだく」「せいめい」「時間」(ここにも濁音)「過ぎ行く」。
 この音の登場する間合い、リズムがとても気持ちがいい。こういう音の操作は、きっと意識ではできないことだと思う。肉体が無意識に選んでしまう音なのだと思う。

八七
古木のうつろに
黄色い菫の咲く
うつつ
春の朝

 ここでは「うつろ」と「うつつ」が美しい。「春の朝」は、私の感じでは、かなりうるさい。

八六
腐つた橋のまがりに
あかのまんま傾くあの
細長い風景をまがつて
歩いた

 「まがる」(まがった)に対する強い嗜好が西脇にはある。何度も何度も「まがる」ということばが西脇の詩には登場する。

 この詩には不思議なリズムがある。2行目。「あかのまんま傾くあの」。なぜ「あかまんまの傾くあの」ではないのか。「あかまんま」を「あかのまんま」というのは、それとも西脇の育った新潟の言い方なのだろうか。
 「わざと」、西脇は「あかのまんま」と書いていると判断して、読んでみる。(詩は、いつでも「わざと」のなかにある。)
 「あかのまんま傾くあの」という行であっても、私は無意識に「あかまんまの傾くあの」と読んでしまう。そして、読んでしまったあと、あ、何かが違うと感じ、その行を読み直す。そして「の」の位置が、ふつうのことばの感覚とは違うことに気づく。
 その瞬間。
 「あかのまんま傾くあの」という行の「あの」という終わり方にも意識が動いていく。「まがって」いるのは橋の曲がり角、その曲がり角にしたがって風景を曲がるという行動だけではない。音も「まがっている」。西脇は風景にあわせて、音も「まげた」のである。
 まがって、まがって、まがる。すると、なんだか、まっすぐになった感じがする。最終行の「歩いた」から、なぜか「まがる」という印象が、私の場合、消える。曲がっているにもかかわらず、まっすぐに歩いている肉体が目の前に浮かんでくる。
 この不思議さ。



詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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高橋睦郎『永遠まで』(6)

2009-08-05 00:16:20 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(6)(思潮社、2009年07月25日発行)
 
 生と死、死と生の入れ替わり。そのことは、何度も小夜子が経験することである。服飾学校(?)で小夜子がつかみとった思想、高橋は小夜子となって生きなおす。

古い門 新しい階段
布を裁ち ミシンを踏む学校
教科書で指名され 立ち上がり
読まされて 忘れられない一節
「化粧術は死者をよみがえらせ
衣裳術は蘇生者を立ちあがらせる」
それは 遠い古代の死んだ国の谺
いいえ お墓の中からの
なつかしい声

 小夜子は古典の中のことばを生きなおす。それを遠い国の古いことばではなく、小夜子自身の子供時代の、なつかしい遊びのときの声として生きなおす。そうすることで、ふたたび、「お墓の住人」と出会うのだ。
 教室でのモデル体験は、小夜子にとっては、ままごと遊びの反復であった。ひとが認めない「遊び」ではなく、ひとに認められる「遊び」。ひとに認められて、その「遊び」ま遊び」ではなく、現実になる。「幻」ではなく「事実」になる。「遊び」として無意識におこなっていたこと、本能としてやっていたことが「永遠」につながる「真実」になる。「思想」になる。

教室の発表会で人台にさせられた
人台とは代わりに着ること
代わりに着ることに抵抗はなかった
小さいときからずうっと
顔のない 体のないお客たちの
代わりに着ていたから それは
体のない人の代わりに
体を持つこと
顔のない人の代わりに
顔をもってあげること

 死者になることを小夜子は学ぶ。死者として生きることを小夜子は学ぶ。そのことに「抵抗はなかった」。そう書くことで、高橋は、死者となって、死者を生きなおす小夜子を肯定する。
 高橋の夢は、いつでも、そうなのかもしれない。
 小夜子をとおして語っている夢こそ、高橋の、永遠の夢なのだろう。
 死者たちの永遠の夢、かなえられなかった夢を生きなおす。生きなおすことで、その思想をもう一度、ことばとして浮かび上がらせる。そのことばを、高橋の「死」を超えて、読者に引き渡す。そこに「永遠」というものが見えてくる。

たんねんに粧って
かろやかに着て
細長いステージを行き戻り
私が知ったことは
死んだ人と生きている人に
本当は差がないということ
生きている彼女たちにも
本当は体がない 顔がない
だから 代わりに粧い
代わりに着る者が要る
自分がいま お墓のあいだを
歩いていると 私は思った

 「死んだ人と生きている人に/本当は差がないということ」。それは、死者と生者に区別がないということ。生と死に区別がないということ。

 逆の視点から、見つめなおすこともできる。

 体がない、顔がない--を逆の視点から見つめなおすこともできる。体は、顔は、いつ「存在」しうるのか。「ある」という状態になるのか。
 「着る」「粧う」。そのふたつの運動をとうして体は生まれ、顔は生まれる。着る、粧うという行動をとおして体と顔が生まれてくる。着る、粧うは体を、顔をつくることなのだ。
 ここから、高橋の詩の世界までは、もう違いがない。「差」がない。
 小夜子が着て、粧って、体と顔をつくったように、高橋は、ことばを人に着せる、ことばで人を粧うことで、ことばの運動の中に人間を誕生させる。
 この詩自体が、そういう運動をしている。高橋のことばが、小夜子の体をつりく、顔を作る。高橋のことばのなかで、小夜子が生まれ変わる。
 ことばを動かしながら、高橋は死者・小夜子とともに歩くのである。小夜子がステージを歩くとき、「お墓のあいだ」を歩いていると感じたように、高橋はことばで小夜子を描き出しながら、小夜子の人生の一瞬詩一瞬、小夜子という時間を歩いているのである。お墓のあいだではなく、時と時の間としての「時間」を。


未来者たちに
高橋 睦郎
みすず書房

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