フアン・ヘルマン「子どもたち」/田村さと子訳(「孔雀船」74、2009年07月15日発行)
フアン・ヘルマンについて私は何も知らない。見えることと見えないことを書いているのだが、そこに深い哀しみを感じた。
熱のある子がその熱に手を突っ込んで星々を取り出しては空に投げている それはだれにも見えない
僕にも見えない
目を閉じたまま 天を横切っている 悪寒の中で草を食んでいる
ちっちゃな動物たちを見ている熱のある子が僕には見えるだけ
僕にはそのような動物は見えない
フアン・ヘルマンには子どもがいたのだろう。そして、その子どもは、いまはもういない。その子どもは熱があるとき、ひとりで遊んでいた。時間をまぎらわしていた。何をしているの?と聞いたら、子どもは星を投げているのだと言ったのだ。天にいる動物が草を食べている。その草になるように、きっと星を投げあげていたのだ。
それは、熱のある子どもの、頭をよぎった幻想かもしれない。
フアン・ヘルマンには、子どもの姿は見えるけれど、子どもの見ているものが見えない。それを見ることのできる人は、だれもいない。そのことを、フアン・ヘルマンは哀しんでいる。なぜ、見ることができなかったのか、と哀しんでいる。子どもが見たものを見るために、いったい何かをしただろうかと振り返り、何もしなかったことを哀しんでいる。
子どもが見たもの--その何一つをも見ていない。
いま、子どもは(というのは、思い出のなかの子どものことだが)、星を見ている。ちっちゃな動物を見ている。そのことを、フアン・ヘルマンは聞いて知っている。見えないけれど、子どもにはそれが見えることを知っている。
こういうことを書くとき、フアン・ヘルマンは、フアン・ヘルマンの知らないところで、子どもが何を見たかを想像し、何を見たかを何も知らないことを嘆いているのだ。
知っているのは、子どもが子どもだった時代、熱がでて、星を放りなげていたこと、天にいる動物たちに星の餌をやっていたこと--それだけだ。
もっと知りたい。
その哀しい願いが、「それはだれにも見えない/僕にも見えない」ということばのなかにある。
僕は自問する なぜ今日このようなことが起こるのだろうか
昨日、別のことが起こっていたのだろうか 昨日、この子らの魂から
多くの苦しみを取り除いたのだろうか 僕にただわかっているのは
子どもには熱があり 魂を閉じていて それを灰の中に埋め
そのまま埋めっぱなしにしておくだろうということ なぜなら魂は燃えてしまったから
ここに書いてあることを、正確に追うことはできない。
それはフアン・ヘルマンが、感じていることを正確に追えないような状態(深い哀しみ)のなかでことばを動かしているからだ。
「昨日」--このことばが、ここではとても痛切である。
ここには「昨日」、「昨日」につながる「過去」しかない。未来がない。「あした」がない。
「あした」、この子が何を見るだろうか、ということは、もう想像できない。「あした」があり、そして子どもがまた何かを見るならば、それをいっしょに見ることができるかもしれないという夢は断たれてしまっている。だから「昨日」と書くのだ。そして、「昨日」と書いてみれば、やはり、フアン・ヘルマンには、「昨日」子どもが何を見たか、その見たものが見えないということしかわからない。
わかるのは、それだけなのだ。
一本の木が
窓のむこうで太陽を見ている
太陽が出ている
窓のむこうの通りに一本の木がある
今 その通りをズボンのポケットに片手をいれた子どもが通っている
楽しそうなようすで ポケットから手を出し
手を広げて 誰にも見えない熱を放出している
僕にも見えない
僕には光に向かって広げられている掌が見えるだけだ
彼は 何を見ているのだろうか
太陽を牽引する牡牛たちをみているのだろうか
僕にはまったくわからない
ズボンに手を突っ込んでいる子どもが何を見ているのかも
熱があって その心の中で大西洋の死骸や
荒れ狂っているあらゆる波の死骸を見ている子どものことも 僕にはわからない
僕には何も見えないし 何もわからない
親として、子どもが何を見ているかわからないことほど哀しいことはない。そして、その子どもの見ているものが「死骸」(死)であるとき、その死をどんなふうに見ていたか、それがわからないことほど哀しくてやりきれないことはないだろう。
死など、見たくはない。
けれど、子どもがもしそれをひとりで見つめ、誰にもいっしょにいてもらえなかったのなら、それは哀しすぎる。せめて、見たいのだ。子どもが何を見たか。そして、せめて、その手を握ってやりたいのだ。
作品の最後。
僕は食べる この窓のむこうにある木のように実在的であろうとして
今 子どもはその傍らに立ち止まった
ズボンのポケットから手を出して
光に向かって掌を広げている
そして考えている 死は死であり
それ以上のものではないと
ここに、祈りがある。子どもに、せめて「死は死であり/それ以上のものではないと」考えてもらいたい。そういう考えにたどりついて、死を受け入れてくれていると祈りたいのだ。
痛切な叫びに満ちた詩である。