詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(72)

2009-08-29 10:40:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

一六八
永劫の根に触れ
心の鶉の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず

 2行目。「心の鶉」。なぜ、「うずら」なのだろう。「こころのうずらのなく」と、もし、ひらがなで書いたら「こころのうずく」と読み間違えるかもしれない。こころが、うずらのように美しい声で鳴く、うずく。--こころがうずく、と書いてしまえば、センチメンタルになる。特に「永劫の根」に触れ、こころが疼くと書けば、「意味」が強すぎて、詩から遠いものになるだろう。
 だから、「わざと」、そこに「うずら」を紛れ込ませる。紛れ込ませながら、音の遠く(?)というか、音を聞きとる耳の奥、声をだす口蓋や舌や喉に、かすかに「うずく」を感じさせる。
 そして、「うずら」を利用して、「野」に出て行くのである。
 あり得ないことだけれど、たとえば2行目が「鶉」ではなく、「カナリア」だったら、「永劫の旅人」は「野」には出て行かないだろう。草原に住む鶉だからこそ、3行目の「野」が自然に引き出される。「野ばら」「野末」。それから「の」。西脇の大好きな、助詞の「の」。
 野を通り、村を通り、町を通り、また山を越え、水を渡る。ときには曼陀羅に立ち止まるけれど、それは野や村を通るのが自然・暮らしの道を歩くのに対して、文化の道・哲学の道を歩くといいかえることができるかもしれない。自然を歩き、また文化をも歩く。
 そうやって、「永劫の旅人」は帰らなくなる。

 「帰らず」は、そのとき、人は人ではなくなるということだろう。詩人は詩人ではなくなる。自分ではなくなる。自分ではなく、別の人間に生まれ変わってしまう、ということだろう。
 詩は、何かに触れ、そのとき動いたこころ(こころのうずき)をそのまま書き写すことなのだろうけれど、ことばをうごかすと、人は自分のままではいられない。自分を超えてしまう。その超え方にはいろいろあるだろうけれど、ともかく自分ではなくなる。
 「旅人かへらず」のなかで、西脇は、歩きつづけた。歩きながら、「アムバルワリア」の詩人から、また違った詩人になった。そして、そのあとも、変わりつづけていく。生まれ変わりつづけていく。





西脇順三郎全集〈第3巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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フアン・ヘルマン「子どもたち」/田村さと子訳

2009-08-29 01:24:24 | 詩(雑誌・同人誌)
フアン・ヘルマン「子どもたち」/田村さと子訳(「孔雀船」74、2009年07月15日発行)
 フアン・ヘルマンについて私は何も知らない。見えることと見えないことを書いているのだが、そこに深い哀しみを感じた。

熱のある子がその熱に手を突っ込んで星々を取り出しては空に投げている それはだれにも見えない
僕にも見えない
目を閉じたまま 天を横切っている 悪寒の中で草を食んでいる
ちっちゃな動物たちを見ている熱のある子が僕には見えるだけ
僕にはそのような動物は見えない

 フアン・ヘルマンには子どもがいたのだろう。そして、その子どもは、いまはもういない。その子どもは熱があるとき、ひとりで遊んでいた。時間をまぎらわしていた。何をしているの?と聞いたら、子どもは星を投げているのだと言ったのだ。天にいる動物が草を食べている。その草になるように、きっと星を投げあげていたのだ。
 それは、熱のある子どもの、頭をよぎった幻想かもしれない。
 フアン・ヘルマンには、子どもの姿は見えるけれど、子どもの見ているものが見えない。それを見ることのできる人は、だれもいない。そのことを、フアン・ヘルマンは哀しんでいる。なぜ、見ることができなかったのか、と哀しんでいる。子どもが見たものを見るために、いったい何かをしただろうかと振り返り、何もしなかったことを哀しんでいる。
 子どもが見たもの--その何一つをも見ていない。
 いま、子どもは(というのは、思い出のなかの子どものことだが)、星を見ている。ちっちゃな動物を見ている。そのことを、フアン・ヘルマンは聞いて知っている。見えないけれど、子どもにはそれが見えることを知っている。
 こういうことを書くとき、フアン・ヘルマンは、フアン・ヘルマンの知らないところで、子どもが何を見たかを想像し、何を見たかを何も知らないことを嘆いているのだ。
 知っているのは、子どもが子どもだった時代、熱がでて、星を放りなげていたこと、天にいる動物たちに星の餌をやっていたこと--それだけだ。
 もっと知りたい。
 その哀しい願いが、「それはだれにも見えない/僕にも見えない」ということばのなかにある。

僕は自問する なぜ今日このようなことが起こるのだろうか
昨日、別のことが起こっていたのだろうか 昨日、この子らの魂から
多くの苦しみを取り除いたのだろうか 僕にただわかっているのは
子どもには熱があり 魂を閉じていて それを灰の中に埋め
そのまま埋めっぱなしにしておくだろうということ なぜなら魂は燃えてしまったから

 ここに書いてあることを、正確に追うことはできない。
 それはフアン・ヘルマンが、感じていることを正確に追えないような状態(深い哀しみ)のなかでことばを動かしているからだ。
 「昨日」--このことばが、ここではとても痛切である。
 ここには「昨日」、「昨日」につながる「過去」しかない。未来がない。「あした」がない。
 「あした」、この子が何を見るだろうか、ということは、もう想像できない。「あした」があり、そして子どもがまた何かを見るならば、それをいっしょに見ることができるかもしれないという夢は断たれてしまっている。だから「昨日」と書くのだ。そして、「昨日」と書いてみれば、やはり、フアン・ヘルマンには、「昨日」子どもが何を見たか、その見たものが見えないということしかわからない。
 わかるのは、それだけなのだ。

 一本の木が
窓のむこうで太陽を見ている
太陽が出ている
窓のむこうの通りに一本の木がある
今 その通りをズボンのポケットに片手をいれた子どもが通っている
楽しそうなようすで ポケットから手を出し
手を広げて 誰にも見えない熱を放出している
僕にも見えない
僕には光に向かって広げられている掌が見えるだけだ
彼は 何を見ているのだろうか
太陽を牽引する牡牛たちをみているのだろうか
僕にはまったくわからない
ズボンに手を突っ込んでいる子どもが何を見ているのかも
熱があって その心の中で大西洋の死骸や
荒れ狂っているあらゆる波の死骸を見ている子どものことも 僕にはわからない
僕には何も見えないし 何もわからない

 親として、子どもが何を見ているかわからないことほど哀しいことはない。そして、その子どもの見ているものが「死骸」(死)であるとき、その死をどんなふうに見ていたか、それがわからないことほど哀しくてやりきれないことはないだろう。
 死など、見たくはない。
 けれど、子どもがもしそれをひとりで見つめ、誰にもいっしょにいてもらえなかったのなら、それは哀しすぎる。せめて、見たいのだ。子どもが何を見たか。そして、せめて、その手を握ってやりたいのだ。

 作品の最後。

僕は食べる この窓のむこうにある木のように実在的であろうとして
今 子どもはその傍らに立ち止まった
ズボンのポケットから手を出して
光に向かって掌を広げている
そして考えている 死は死であり
それ以上のものではないと

 ここに、祈りがある。子どもに、せめて「死は死であり/それ以上のものではないと」考えてもらいたい。そういう考えにたどりついて、死を受け入れてくれていると祈りたいのだ。

 痛切な叫びに満ちた詩である。



サラマンドラ
田村 さと子
思潮社

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