詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(70)

2009-08-27 07:39:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

一六六
若葉の里
紅(べに)の世界
衰へる
色あせた
とき色の
なまめきたる思ひ
幻影の人の
かなしげなる

 この詩は、なんだか不思議である。「若葉」と「紅」のとりあわせが奇妙である。「若葉」はふつうは「みどり」。「紅」(赤)は補色である。1行目と2行目のあいだに、深い断絶がある。あるいは、「わざ」とつくりだされた対立がある。
 だが、この「わざと」があるから、それにつづく行がおもしろくなる。
 衰えた色(とき色)の「衰えた」には「なまめき」がある。それは「いのち」の最後の輝きなのか。「衰え」と「なまめく」は一種の矛盾、対立であり、それは「補色」のように、互いを引き立てる。--そういう補色の構造をうかびあがらせるために、西脇は、わざと「若葉」と「紅」を隣り合わせに置いたのだろう。
 
 それとは別にして。

 ここの部分の音の動きもおもしろい。「衰える」と「なまめく」を対比させ、結びつけるのにつかわれている「とき色」。その「き」が「なまめきたる」の「き」のなかにつよく残っている。「衰え」の「と」、「色あせた」の「た」という「た行」の音は、「なまめきたる」の「た」のなかにあるが、同じように、「とき色」の「と」にもある。
 「衰える」と「なまめく」という二つの概念を結びつけるには、どんな色でもいいというのではない。特別な色でなければならない。そして、その色を決定しているのは、光学的(美術的?)な「色」ではなく、その色の呼び名の「音」なのだ。
 そして。

なまめきたる思ひ
幻影の人の
かなしげなる

 最終行の「かなしげなる」のなかには「なまめきたる」の「な」が2回繰り返され、同時に「幻影の人の」の「げ」もある。
 ただし、この「げ」の音は、「幻影」の「げ」は鼻濁音ではなく、「かなしげ」の「げ」は鼻濁音だから(標準語なら、という意味だが)、この二つの音が響きあうとしたなら、西脇は鼻濁音をつかっていなかったことになる。
 私は西脇の話すのを、テープやテレビラジオを含め、聞いたことがないので、いつもこの点が気になる。


西脇順三郎全集〈第7巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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北爪満喜「飛手」、松本真希「シンバ」

2009-08-27 00:12:45 | 詩(雑誌・同人誌)
北爪満喜「飛手」、松本真希「シンバ」(「モーアシビ」18、2009年07月30日発行)

 北爪満喜「飛手」のことばは静かに動いていく。そして、その静かさゆえにとても自然に見える。現実をきちんと踏まえて書いているように見える。前半。

掌の右と左
うちがわの親指の第一関節をつけて
コピー機の上にそっと並べる

覆いを下ろしてコピーすると
ゆるく指の曲った二つの掌の形は二枚の羽になる
コピー機からはき出された紙には 蝶がいる

わたしから剥がれることができて
手の形は
自由に飛んでゆく
羽ばたいてゆく

手は秘密にしていても
ほんとうは飛ぶことができる潜在能力があって
夢のなかでは
いつも自由に飛んでいる

 コピーされた掌。それが蝶に見える。--これは、現実描写のように見える。その形を想像できないひとはいないだろう。誰にでも想像できることばを、私たちは「現実」と呼んでいる。
 北爪の書いていることは、そういう「自然」を含んでいるので、とても静かで、わかりやすい。
 と、言いたいのだけれど、実は、違う。
 
覆いを下ろしてコピーすると

 と書いているが、どの手で? 右手で? 左手で? 両方の手はスキャナーの上にあるはず。どうやって? 足で? 口で?
 北爪の詩は、あたかも自分の両手をコピー機で蝶の形に写し取ったように書いてあるけれど、実は、そうではないのだ。
 最初から、現実を書こうとはしていない。現実の、日常の世界を描こうとはしていない。意識を描こうとしている。
 意識に特権があるとすれば、それは現実をねじまげることができるという特権である。「肉体」は現実をねじまげることはできない。いや、できないことはないけれど、実際に現実を「いま」「ここ」にある形から変形させようとするとたいへんな労力がいる。ひとりではむりで、たいてい多くのひとの力、協力が必要になる。ところが、意識はそういう協力を必要としない。いつでも、どこでも、現実を歪めてしまえる。
 この能力を、バシュラールは「想像力」と呼んだ。現実を歪めて、平気でいられる精神の力を「想像力」と呼んだ。
 北爪は、それを「自由」と呼んでいる。

手の形は
自由に飛んでゆく

 もし、この詩に「自由」ということばがなかったなら、この詩はうそ、でっち上げになる。「頭」だけで書いた、でたらめになる。先に私が指摘したこと、両手をコピー機の上において、どうやって蓋を閉めることができる?という矛盾にぶつかり、うそを書いたことになる。
 けれど、北爪は最初から「現実」や「日常」をそのまま描こうとしているのではなく、精神が(意識が)、どのように「現実」「日常」を裏切って「自由」に動き回れるかを描こうとしているのだ。

手は秘密にしていても
ほんとうは飛ぶことができる潜在能力があって
夢のなかでは
いつも自由に飛んでいる
窓の上を
トウキョーの空を
母と家電の買い物をした楽しかったアキハバラの空を
いつか読んだ小説のグラーツの空を

 そして、その「自由」は「夢のなか」にしかない。--ここに、北爪の、抒情の神髄がある。
 ことばのなかにしかない。
 現実を、日常を、歪めた「夢」のなかにしかない。ことばでみる「夢」のなかにしかない。「母と家電の買い物をした楽しかったアキハバラの空を」という行の「楽しかった」ということばのさびしさ。かなしさ。「楽しかった」という「過去形」のことばは、北爪の意識が「いま」「ここ」という現実、日常ではなく、すでにことばのなかにしか存在しない「過去」を中心に動いていることを明確に語っている。

 ことばの願望。「いま」「ここ」を超越して、「いま」「ここ」にないものを出現させる--そのためのことば。そのための、詩。そうしたものへの、せつない希望が、北爪のことばのなかを、それこそ「飛んでいる」。飛びながら、北爪を誘っている。
 最終連。

でも
一人になって 何か手を動かしたくなったとき
ボールペンの先から 変わった葉っぱや
ぐるぐるした蔓や
繋がりのよくわからない単語などが
インクの線であらわれるとき
飛んだ記憶が そこまで来ている

 「変わった葉っぱ」は「変わったこと葉」、「繋がりのよくわからない単語」は、「繋げて、繋げて」と叫んでいる意識。文字にして、紙に繋げると、それは「想像力」という世界、現実とは違う世界になり、そこには「自由」がある。



 松本真希「シンバ」は、ことばのかなしさのなかにいる。1連目。

私の体の
表面に生えている無数の毛が
棘となって
あなたの皮膚を擦る
夜ごとにあなたの皮膚は傷ついていくのに
血の滲んだ体のまま やさしい声をかけようとする
アシタハイツモチガウマイニチ
私は苛立ち
傷つけても
皮膚をいくら傷つけても
心には とどかない

 「私の体は」と1行目から「体」が登場する。人間には「体」と「体ではないもの」があり、その「体ではないもの」が、「私」の「体」を意識させるのだ。それは「声」。そして、その「声」も、北爪の「ことば」と同じように「自由」なのだが、松本の「自由」は、いま、「傷つける」という「自由」のなかにいる。そこに、かなしさがある。





青い影・緑の光―北爪満喜詩集 (現代詩人叢書)
北爪 満喜
ふらんす堂

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