詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(69)

2009-08-26 03:05:21 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一六五
心の根の互にからまる
土の暗くはるかなる
土の永劫は静かに眠る

 「からまる」のなかにある「か」と「る」がこまかに震えながら「くらくはるかなる」に変わるとき、あ、ことばに音があってよかったなあ、と思う。私は音読はしたことかないが、「くらくはるかなる」という音の美しさは、とてもいいと思う。
 その音を取り囲む、「心の(根の)」「土の」「土の」という繰り返しを突き破って、「永劫」(えーごー)という強く長い音が、逆に「静かな」という異質のイメージを呼び起こし、「眠る」へと落ち着く。

 あとは、夢のスピードでことばが動いていく。

種は再び種になる
花を通り
果(み)を通り
人の種も再び人の種となる
童女の花を通り
蘭草の果を通り
この永劫の水車
かなしげにまはる
水は流れ
車はめぐり
また流れ去る

 「種は再び種になる/花を通り/果を通り」は「人の種も再び人の種となる/童女の花を通り/蘭草の果を通り」と長くなるとき、その長くなった部分、新たにつけくわえられた部分は、それが浮きでてくるというよりも、沈み込み、逆に、繰り返された音が、よりなめらかな音、スピード感のある音として、こころに残る。
 そして、そのスピードがあまりにも快適なので、1連目で「土の永劫」であったものが、2連目で「永劫の水車」(水の永劫)に変わってしまっても、それが変なこととは思わない。
 土が出てきて、水が出てきて、自然というか、宇宙が、ことばのリズムにのって、自然に広がり、「哲学」を誘う。
 
無限の過去の或時に始まり
無限の未来の或時に終る
人命の旅
この世のあらゆる瞬間も
永劫の時間の一部分
草の実の一粒も
永劫の空間の一部分
有限の存在は無限の存在の一部分

 無限の中に有限がある--その、一部分として、ある。そして、その「一部分」であることが「淋しさ」なのだ。
 次の部分に出てくることばたちは、無限のなかで、ふっと有限にかわってあらわれてくる「淋しさ」のエネルギーのようなものだ。
 次の行の展開がとても好きだ。好きで、好きで、たまらない。

この小さな庭に
梅の古木 さるすべり
樫 山茶花 笹
年中訪れる鶯 ほほじろなどの
小鳥の追憶の伝統か

 「さるすべり/樫 山茶花 笹」は、それぞれ庭に属していながら、常に庭から独立して出現するのだ。それは、奇妙な言い方になってしまうが、「淋しく」出現することによって、それぞれの木や花になるだけではなく、庭を作り上げる。つまり、木(草)であることを超越して庭という「場」そのものになる。
 この、俳句のような「場」のあり方。
 そして、そう思った瞬間、響いてくる音、音楽。

小鳥の追憶の伝統か

 この行にある「お」の変化が、とても気持ちがいい。特に「でんとお」と「お」をゆったりと響かせたあと、唇をぱっとひらき、「か」(あ)に変わる時の、音の明るさの差とリズムが美しい。
 このあとに出でくる

旅人のあんころ餅ころがす

 という俗、笑いと「ころ」の丸々とした音の感じも、「淋しさ」を刺戟しておもしろい。それまでの「淋しさ」がより「淋しく」なるだけではなく、「庭」の存在すべてを「淋しく」する笑いのなかで、笑いは笑い自身の「淋しさ」を抱きしめるのだ。



西脇順三郎全集〈第8巻〉 (1983年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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佐々木洋一「さくら」

2009-08-26 00:30:57 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木洋一「さくら」(「ササヤンカの村」19、2009年07月発行)

 佐々木洋一「さくら」は春の光が見えるような(佐々木は「ひざし」ということばをつかっているが、とても美しいことばだ)詩である。

ひざしのはざまで

ひら、ひら、ひらん
ひらひら、ひらん
ひら、ひら、ひらん

ちょうどその時

軽トラックが土手の小道を走って来て
花びらを積むと
一気に加速し
現実の方へ駆け抜けて行った

ひざしをつかむと

ひらひらりん
ひらひら、ひらん
ひらひらひらん
ひざしのかげりでは

朽ちた花びらの上に
折り重なるように

ひら、ひら、ひ、ら、ん
ひら、ひら、ひらん
ひら、ひら、ひ、ら、ん

 「ひざしをつかむと」が、とてもいいのだと思う。「ひらひらひらん」と口ずさみたくなる。--と、書いたたら、もう感想を書くことはなくなってしまったのだけれど。
 同じ号の「なめくじ」もいい。
 その一番好きな行。

地べたを謙虚に点のように汚点のように進みたい

 「汚点」がいいなあ。なぜいいのか--問われるとこたえに困るけれど、「汚点」がいい。落ち着く。美しくなくてもいいんだ、という安心感がある。
 「ササヤンカの村」18の「隙間切り」というのは、「なめくじ」の「汚点」につながるような「肉体」のさみしさ、いとおしさ、理不尽としかいいようのない美しさがあるけれど、18号は2008年03月の発行なので、ここでは感想を省略。できるだけ、新しい作品の感想を書くことを心がけているので。

 

佐々木洋一詩集 (日本現代詩文庫・第二期)
佐々木 洋一
土曜美術社出版販売

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