『旅人かへらず』のつづき。
一六五
心の根の互にからまる
土の暗くはるかなる
土の永劫は静かに眠る
「からまる」のなかにある「か」と「る」がこまかに震えながら「くらくはるかなる」に変わるとき、あ、ことばに音があってよかったなあ、と思う。私は音読はしたことかないが、「くらくはるかなる」という音の美しさは、とてもいいと思う。
その音を取り囲む、「心の(根の)」「土の」「土の」という繰り返しを突き破って、「永劫」(えーごー)という強く長い音が、逆に「静かな」という異質のイメージを呼び起こし、「眠る」へと落ち着く。
あとは、夢のスピードでことばが動いていく。
種は再び種になる
花を通り
果(み)を通り
人の種も再び人の種となる
童女の花を通り
蘭草の果を通り
この永劫の水車
かなしげにまはる
水は流れ
車はめぐり
また流れ去る
「種は再び種になる/花を通り/果を通り」は「人の種も再び人の種となる/童女の花を通り/蘭草の果を通り」と長くなるとき、その長くなった部分、新たにつけくわえられた部分は、それが浮きでてくるというよりも、沈み込み、逆に、繰り返された音が、よりなめらかな音、スピード感のある音として、こころに残る。
そして、そのスピードがあまりにも快適なので、1連目で「土の永劫」であったものが、2連目で「永劫の水車」(水の永劫)に変わってしまっても、それが変なこととは思わない。
土が出てきて、水が出てきて、自然というか、宇宙が、ことばのリズムにのって、自然に広がり、「哲学」を誘う。
無限の過去の或時に始まり
無限の未来の或時に終る
人命の旅
この世のあらゆる瞬間も
永劫の時間の一部分
草の実の一粒も
永劫の空間の一部分
有限の存在は無限の存在の一部分
無限の中に有限がある--その、一部分として、ある。そして、その「一部分」であることが「淋しさ」なのだ。
次の部分に出てくることばたちは、無限のなかで、ふっと有限にかわってあらわれてくる「淋しさ」のエネルギーのようなものだ。
次の行の展開がとても好きだ。好きで、好きで、たまらない。
この小さな庭に
梅の古木 さるすべり
樫 山茶花 笹
年中訪れる鶯 ほほじろなどの
小鳥の追憶の伝統か
「さるすべり/樫 山茶花 笹」は、それぞれ庭に属していながら、常に庭から独立して出現するのだ。それは、奇妙な言い方になってしまうが、「淋しく」出現することによって、それぞれの木や花になるだけではなく、庭を作り上げる。つまり、木(草)であることを超越して庭という「場」そのものになる。
この、俳句のような「場」のあり方。
そして、そう思った瞬間、響いてくる音、音楽。
小鳥の追憶の伝統か
この行にある「お」の変化が、とても気持ちがいい。特に「でんとお」と「お」をゆったりと響かせたあと、唇をぱっとひらき、「か」(あ)に変わる時の、音の明るさの差とリズムが美しい。
このあとに出でくる
旅人のあんころ餅ころがす
という俗、笑いと「ころ」の丸々とした音の感じも、「淋しさ」を刺戟しておもしろい。それまでの「淋しさ」がより「淋しく」なるだけではなく、「庭」の存在すべてを「淋しく」する笑いのなかで、笑いは笑い自身の「淋しさ」を抱きしめるのだ。
西脇順三郎全集〈第8巻〉 (1983年)西脇 順三郎筑摩書房このアイテムの詳細を見る |