詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「ほろびのぽるか」

2009-08-02 15:29:05 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「ほろびのぽるか」(「歴程」561 、2009年07月31日発行)

 池井昌樹「ほろびのぽるか」のリズムが楽しい。前半。

あかねのそらがはらをみせ
どんどんながれるものだから
おれもどんどんかけてゆく
あいつもこいつもかけてくる
ああまいかりんもふきとばし
すっぱいぱんだもふきとばし
おれはおまえについてゆく

 「ああまいかりん」は「甘い花梨」。「あまい」を「ああまい」とゆったり声に出す。その延びた呼吸の中に「あまい」と短くいってしまったときには存在しないものが紛れ込んでくる。
 それは「あかねのそらがはらをみせ」というとき、すでに紛れ込んでいる。空に腹がある、空が腹を見せるというときにすでに入り込んでいるが、その、この世のもの以外がまぎれこんだことを1行目の池井はまだ見極めてはいない。感じてはいるけれど、それがどんなに異質なもの、異界のものかを知らずにいる。知らないまま、それに惹かれている。知らないからこそ、「どんどんながれるものだから/おれもどんどんおいかけてゆく」と「どんどん」というような「ありきたり」のことばで、つまり手さぐりで追いかける。
 「あいつもこいつも」としか書くことができないのは、異界ではそれまでのことばが通用しないからである。通用しないことばを捨て去って、いっしょに紛れ込むことのできるものだけを池井は無意識に呼び集めている。

ああまいかりんもふきとばし
すっぱいぱんだもふきとばし

 ことばでは、吹き飛ばしている。けれど、それは巻き込むことである。吹き飛ばすとき、池井の肉体は「ああまいかりん」「すっぱいぱんだ」に接触する。接触せずに「ああまいかりん」や「すっぱいぱんだ」を吹き飛ばすことはできない。
 そして、そのときの肉体の接触が、花梨やパンダに影響して、「ああまいかりん」「すっぱいぱんだ」になっていいる。
 この世を池井の肉体で蹴飛ばしながら、この世を池井の肉体で汚染する(これは、いい意味で書いている)。この世を汚染した「証拠」というと奇妙な言い方だけれど、この世を汚染した印として、池井は「ああまいかりん」や「すっぱいぱんだ」の存在そのものとなって、「あかねのそら」の「はら」を追いかけていく。
 「はら」(腹)という「肉体」を追いかけて行く。
 しぶしぶではなく、はずむように、肉で充実した肉体が弾むようなリズムで。
 いまはすっかりスマートになってしまったが、私は、こういうリズムに触れると、昔の池井の肉体をそのまま思い出してしまう。ラーメンを食べると、そのラーメンの量がそのまま腹をぷわーっとふくらませてしまう、あのやわらかな肉体を思い出してしまう。
 池井の精神の肉体は、あのときの、10代のままの肉体なのかもしれない。
 そして、それが楽しい。
 若い若い池井にもう一度出っている気持ちになる。

 詩のなかほど。

おれらほろびのたみだから
もともとほろびるやくそくだから
くろくもよりもくろぐろと
よろこびいさんでほろびゆく
おしあいへしあいほろびゆく

 「ほろびる」ことはふつうの感覚では楽しいことではないだろう。悲劇的なことだろう。けれど、池井はそれを楽しんでいる。「ほろびる」ことを「やくそく」と池井は呼んでいるが、「ほろびる」ことだけが「約束」なのか。
 ちがうと思う。
 池井は知っているのだ。「ほろびる」とこが約束というより、生まれ変わるためには「ほろびなければならない」というのが約束なのだろう。滅びたあとに、再生がある。その再生は、具体的にはどんなものかはわからない。けれど、池井は、ほろびのあとにしか再生がないことを知っている。
 詩は、池井にとっては「ほろびる」方法であり、それは同時に「再生する」唯一の方法なのだ。

あかねのそらがはらをみせ
どんどんながれてゆくはてに
きんしぎんしのおおたきがあり
たなばたにしきのおおたきがあり
おおよろこびのおおわらい
みんなものてをたかだかと
まっさかさまに
もろともに

 「ほろびる」ことは楽しい。大笑いしながら「生まれ変われる」からだ。



眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(46)

2009-08-02 07:38:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

四七
むさし野を行く旅者(たびもの)よ
青いくるみのなる国を
知らないか

 西脇はときどき奇妙なことばをつかう。たとえばこの詩の「旅者」。なぜ、「旅人(たびびと)」ではないのか。
 私は、どうしても「旅物」ということばを思い出してしまう。旅から送られてくるもの。「いま」「ここ」にあるのではなく、違った場所、違った時間から送り届けられるものを思ってしまう。
 「旅人」は「いま」「ここ」(むさし野)を行きながら、実は、違う場所、違う時間を歩いている--そう考えると、この詩はおもしろくならないだろうか。そして、「むさし野」を歩きながら、「いま」「ここ」にないものを、「いま」「ここ」に呼び出すのである。「旅からの贈り物」のように。
 それが「青いくるみ」。「青いくるみのなる国」。
 この「青いくるみ」ということばも、私は非常に好きだ。
 木になっているくるみ。夏の間は、まだ緑(青い)である。やわらかな緑の皮となまなましい肉に包まれて、その実は固い殻のなかにある。そして、その殻をたたきわって、熟していないくるみをすすると牛乳のような味がするのだ。--これは、私の子ども時代の夏の記憶だが、西脇も、そういう体験をしているのではないだろうかと思う。
 私は「むさし野を行く」旅人ではないが、「青いくるみのなる国」を知っている。だからこそ、思うのだ。西脇は「むさし野」を歩きながら、遠い新潟の野を歩き、青いくるみを割ってかじっているのだ。

七九
九月になると
長いしなやかな枝を
藪の中からさしのばす
野栗の淋しさ
その実のわびしさ
白い柔い皮をむいて
黄色い水の多い実を生でたべる
山栗の中にひそむその哀愁を

 この詩に書かれている熟れていない山栗の実のうまさを私は知っている。茶色く熟れて、イガがはじけるまで待てない子ども時代。そういう栗を私は何度もたべた。「青いくるみ」同様、そこには不思議な「いのち」の味がする。「いのち」が形になりきる前の、やわらかな感じ。
 「淋しい」「わびしい」は形になりきれないもの--という意味でもある。そして、それこそが「美」である。その美を、西脇は「哀愁」と呼んでいる。






西脇順三郎研究 (1971年) (近代日本文学作家研究叢書)

右文書院

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高橋睦郎『永遠まで』(2)

2009-08-02 01:20:10 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(2)(思潮社、2009年07月25日発行)

 生と死の交錯。そのことを高橋は次の行で書き直している。4連目。

このところ 繰り返される
少年たちによる老人殺し
息子たちによる親殺し
見聞きするうちに ぼくは
奇妙な思いにとらわれました
ぼくもまた 老いたあなたを殺し
ついでに 老いたぼく自身も殺し
アリバイ作りに 六十数年前の
写真を飾っているのではないか
写真の背後 窓のむこうの庭には
スイセンやユリの球根といっしょに
あなたとぼく 二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか

 「老いた母」を殺し、若い母として生き返らせる。そのとき、高橋は、「老いた僕自身も殺し」たのだと気がつく。「老いたぼく」が「若い母」を思い出すのではない。「若い母」を思い出すとき、高橋もまた生まれ変わり、「幼いぼく」になっているのだ。写真の若い母が、「あてたになった」ように、高橋も「幼いぼく」に「なった」。そして、そうなるためには、「老いたぼく」は死ななければならない。死なない限り生まれ変わることはできない。
 若い母、幼いぼく--それが現実であり、いま、ここにこうして生きている「老いたぼく」は幻なのである。

 この詩は、そんなふうにことばが時間を超えて交錯するのだが、引用した部分の最後の2行に、私は、たちどまり、ぞっとして、同時にうっとりしてしまう。

あなたとぼく 二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか

 これは、「意味」的には、

あなたとぼくの二つの腐乱死体が
仲よく 埋められていやしないか

 である。「あなたとぼく」が埋められているのではなく、あくまで「あなたとぼくの」死体が埋められている--というのが「意味」、論理としての世界である。
 ところが、高橋は「の」を省略する。そして1字アキにしてことばをつないでいる。
 「の」がないことによって、「あなたとぼく」は「死体」であることから切り離されて、まるで「生きている」ように感じられる。「腐乱死体」は死んでいない。生きたまま、腐乱して、庭に埋められている。
 そして、生きているからこそ、そこで夢を見ているのだ。
 「老いたぼく」が「老いた母」を殺す、という夢を。なぜ、そんな夢を見るかといえば、「若い母」「幼いぼく」になるためである。

 これは「錯乱」である。だから、ぞっとする。だから、うっとりしてしまう。

 「若い母」「幼いぼく」の親密な、充実した時間--その「時間」そのものに「なる」ためならなんでもする。
 「あなたとぼく」は「腐乱死体」であるときは「二つ」であるかもしれない。けれども、「あなたとぼく」は「二つ」ではない。「ひとつ」だ。生きているかぎり「ひとつ」である。「腐乱死体」は「二つ」であるかもしれないが、「腐乱死体」となって「生きている」とき、その「生」は「ひとつ」である。

 --私は、奇妙なことを書いているかもしれない。矛盾したことを書いているかもしれない。けれど、そういう矛盾した形でしか書けないこと、書けば書くほど奇妙になってしまうことを、私は、この高橋の詩から感じる。

 生と死は、どこかで交代してしまう。死をみつめるとき、ひとは生を思い出してしまう。そして生を思い出すということで、死そのものを殺している。
 死を殺す--というのは不可能なこと、絶対的矛盾である。しかし、ひとは、生を殺すだけではなく、死を殺し、死を殺すということをとおして生まれ変わる。そして、生まれ変わることによって、「いま」「ここ」にある生を殺す。そして、死を、すぎさって、とりかえすことのできない時間を生きる。

 これは、幸福、というより恍惚というものかもしれない。



未来者たちに
高橋 睦郎
みすず書房

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