『旅人かへらず』のつづき。
前半と後半ががらりとかわる。かわるのだけれど、何かが重なる。ことばの動くスピード、リズムを、後半でそのままくりかえしている印象がある。音の数(?)を数えてみると、きちんとは重ならないのだが、なんとなく似ている。
1行目に「雲の水に映る頃」とあるから、3行目の「秋」はなくてもわかると思うが、わざわざ書いている。これは、7行目の音の動きと重ねあわせるための操作としか私には思えない。
音の数はたしかに違う。けれどそれは文字でみた場合のこと。7行目は「じゅ」は1音、「いん」も1音、「せい」は(せー)で1音、「やつた」の「やっ」(あるいは「った」」か)で1音。そう数えなおすと、ともに14音になる。3行目の「秋」をリズムをあわせるための操作と見るのは、そういうことが起きているからである。
微妙に違うのだけれど、微妙に似ている。この、微妙な感じが、どこかで音楽とユーモアを感じさせる。
そして、その微妙な感じが、聖と俗との出会いを楽しくさせている。
最終行の「なにのたたりか」は、もちろん「安産のお札(お守り)なんて失礼しちゃうわね」という大学院生の「たたり」である。「たたり」などというものは、非現実的だけれど、そういう非現実が「俗」として働くとき、その「俗」がユーモアにかわる。あたたかい笑いになる。
5行目の「昔の」がとても楽しい。「昔の」がなければ、単なる花見のスケッチだ。「昔の」をはさむことで、過去と現代の時間が出会う。
昔の花見の雅と現代の俗。
「昔の」というたったひとことで、「花見」を反復している。現代と過去を出会わせている。「銀貨」も「バット」も「とたん」も音そのもののなかに「俗」がある。「雅」にしばられぬ自由がある。
八三
雲の水に映る頃
影向寺の坂をのぼる
薬師の巻毛を数える秋
すすきの中で菓子をたべる
帰りに或る寺から
安産のお札を買つて
美術史の大学院生にやつた
なにのたたりかかぜをひいた
前半と後半ががらりとかわる。かわるのだけれど、何かが重なる。ことばの動くスピード、リズムを、後半でそのままくりかえしている印象がある。音の数(?)を数えてみると、きちんとは重ならないのだが、なんとなく似ている。
1行目に「雲の水に映る頃」とあるから、3行目の「秋」はなくてもわかると思うが、わざわざ書いている。これは、7行目の音の動きと重ねあわせるための操作としか私には思えない。
やくしのまきげをかぞえるあき
びじゅつしのだいがくいんせいにやつた
音の数はたしかに違う。けれどそれは文字でみた場合のこと。7行目は「じゅ」は1音、「いん」も1音、「せい」は(せー)で1音、「やつた」の「やっ」(あるいは「った」」か)で1音。そう数えなおすと、ともに14音になる。3行目の「秋」をリズムをあわせるための操作と見るのは、そういうことが起きているからである。
微妙に違うのだけれど、微妙に似ている。この、微妙な感じが、どこかで音楽とユーモアを感じさせる。
そして、その微妙な感じが、聖と俗との出会いを楽しくさせている。
最終行の「なにのたたりか」は、もちろん「安産のお札(お守り)なんて失礼しちゃうわね」という大学院生の「たたり」である。「たたり」などというものは、非現実的だけれど、そういう非現実が「俗」として働くとき、その「俗」がユーモアにかわる。あたたかい笑いになる。
八四
耳に銀貨をはさみ
耳にまた吸ひかけのバットをはさむ
かすりの股引に長靴をはく
とたんの箱をもつ
人々の昔の都に
桜の咲く頃
5行目の「昔の」がとても楽しい。「昔の」がなければ、単なる花見のスケッチだ。「昔の」をはさむことで、過去と現代の時間が出会う。
昔の花見の雅と現代の俗。
「昔の」というたったひとことで、「花見」を反復している。現代と過去を出会わせている。「銀貨」も「バット」も「とたん」も音そのもののなかに「俗」がある。「雅」にしばられぬ自由がある。
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