詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(47)

2009-08-04 10:43:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『旅人かへらず』のつづき。

八三
雲の水に映る頃
影向寺の坂をのぼる
薬師の巻毛を数える秋
すすきの中で菓子をたべる
帰りに或る寺から
安産のお札を買つて
美術史の大学院生にやつた
なにのたたりかかぜをひいた

 前半と後半ががらりとかわる。かわるのだけれど、何かが重なる。ことばの動くスピード、リズムを、後半でそのままくりかえしている印象がある。音の数(?)を数えてみると、きちんとは重ならないのだが、なんとなく似ている。
 1行目に「雲の水に映る頃」とあるから、3行目の「秋」はなくてもわかると思うが、わざわざ書いている。これは、7行目の音の動きと重ねあわせるための操作としか私には思えない。

やくしのまきげをかぞえるあき
びじゅつしのだいがくいんせいにやつた

 音の数はたしかに違う。けれどそれは文字でみた場合のこと。7行目は「じゅ」は1音、「いん」も1音、「せい」は(せー)で1音、「やつた」の「やっ」(あるいは「った」」か)で1音。そう数えなおすと、ともに14音になる。3行目の「秋」をリズムをあわせるための操作と見るのは、そういうことが起きているからである。
 微妙に違うのだけれど、微妙に似ている。この、微妙な感じが、どこかで音楽とユーモアを感じさせる。
 そして、その微妙な感じが、聖と俗との出会いを楽しくさせている。
 最終行の「なにのたたりか」は、もちろん「安産のお札(お守り)なんて失礼しちゃうわね」という大学院生の「たたり」である。「たたり」などというものは、非現実的だけれど、そういう非現実が「俗」として働くとき、その「俗」がユーモアにかわる。あたたかい笑いになる。

八四
耳に銀貨をはさみ
耳にまた吸ひかけのバットをはさむ
かすりの股引に長靴をはく
とたんの箱をもつ
人々の昔の都に
桜の咲く頃

 5行目の「昔の」がとても楽しい。「昔の」がなければ、単なる花見のスケッチだ。「昔の」をはさむことで、過去と現代の時間が出会う。
 昔の花見の雅と現代の俗。
 「昔の」というたったひとことで、「花見」を反復している。現代と過去を出会わせている。「銀貨」も「バット」も「とたん」も音そのもののなかに「俗」がある。「雅」にしばられぬ自由がある。


雑談の夜明け (講談社学術文庫)
西脇 順三郎
講談社

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高橋睦郎『永遠まで』(5)

2009-08-04 01:51:06 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(5)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「小夜曲」には「サヨコのために」という副題がついている。山口小夜子に寄せて書かれた作品である。山口小夜子の生涯をどれくらい正確に反映したものか、私には判断材料がないけれど、1連目がとても不思議である。
<blocquote>
私が育ったのは
山の上の小さな家
家の前には小さな墓地
咲き乱れる草の花を摘んで
いちんち ままごとをした
お客はお墓の住人たち
住人たちは 大人も子供も
小さな私と同じ背丈
</blocquote>
 死者との不思議な交感。もちろん、死者が墓地から実際にあらわれるということはないから、それは山口小夜子の子供時代の空想を語ったものだろうけれど、死者をよみがえらせて遊ぶということのなかに、不思議さがある。空想の不思議さがある。
 それは死者を生きている存在として思い描くということではなく、死者をそのまま生きている人間として生きなおすことである。お墓の「住人たちは 大人も子供も/小さな私と同じ背丈」の「同じ」が、小夜子のいのちと死者を「同じ」にしてしまう。
 小夜子は自分の生を生きたのではなく、死者たちを生きた。正確には、小夜子自身の生と、死者たちを同時に生きた。「ふたつのいのち」を生きた。ふたつのいのちを「同じ」もの、つまり「ひとつ」(ひとり)として生きた。

 2連目。
<blocquote>
親たちはいつも留守
小さな留守番を不憫がって
とっかえひきかえ着せた
春は草いろ
夏は海いろ
秋は月いろ
冬は火の色のお洋服
お客はみんな
私の服を欲しがった
</blocquote>
 これは、山口小夜子自身は、その服をほしくはなかった、ということだろう。自分はほしくはない。だから、それをほしがるひとが必要だったのだ。もしかすると山口小夜子は、自分の服を(親が与えてくれる服を)ほしがる人間が必要だったのかもしれない。最初に、その必要があって、それから死者を呼び出したのかもしれない。
 小夜子は「ひとり」であるけれど、「ひとり」では何もできない。「もうひとつ」のいのちが必要だったのだ。

 奇妙な言い方だが、山口小夜子は死者になりたかったのかもしれない。もし、死者になれば、留守番をしなくてもいい。小夜子がそうしているように、親がきっと墓のなかから死者である小夜子を呼び出し、「ままごと遊び」をしてくれる。いつでも、呼び出され、いつでも小夜子といういのちを生き直してくれる。
 死者を生きながら、小夜子は、死者が感じるよろこびを感じていたのだ。自分のよろこびではなく、死者たちのよろこび。生き直してもらえることの、絶対的な至福。生きている限りはあじわえない、超越的なよろこび。
 高橋は、小夜子に、そういうこの世のものではないような、超越的なものを見ていたのだと思う。そして、その超越性を、高橋自身、生きてみたいと思っているのだ。

 自分を生きるではない。死者、死んでしまった小夜子自身を生きる。この世に呼び戻して、その死を生きる。生ではない。生きていながら死んでいた小夜子。その彼女が死んで、ほんとうにいなくなったいま、その死をこの世によみがえらせ、もう一度生きる。こんどは、死から呼び戻された小夜子として……。
 言い換えると、小夜子自身になって、小夜子の死を生きる。それはいのちの絶望を生きることでもある。生きているということ、死んではいないということを知り、死の不可能生を生きるということでもある。死の不可能性--その不可能性のなかにある、全体的な死、理念としての死……。
<blocquote>
自分の血の匂いを知った朝
私は忘れない それは
かつてのままごとのお客たちと
決定的に疎遠になったこと
彼女たちは死に
私は生きている それは
山よりも海よりも
大きな隔てを置くこと
下着を洗いながら 私は泣いた
泣きたいだけ泣いて 涙を拭いた
家を出て 山を下りた
</blocquote>
 なぜ、疎遠になったのか。小夜子の中で、「いのち」がつづいていくことがわかったからだ。人間は死んだらそれでおしまいではない。いのちはどこまでもつづいていく。その証拠としての初潮がある。
 小夜子は死ぬかもしれない。人間は、誰でも死ぬ。かもしれないではなく、小夜子は絶対死ぬ。しかし、それは彼女にとっての死であって、「いのち」にとっての死ではない。いのちは形をかえながら生き延びる。「彼女たちは死に/私は生きている」。
 その絶望。
 墓の前で、死者たちを呼び戻し、ままごとをする--そういうことは、空想にすぎない。死者は存在しない。死者にはなれない。墓から呼び出した死者は、幻である。

 生と死、死と生は、どこかで入れ替わってしまう。入れ替わりながら生と死という「二つ」のものではなく、「いのち」という「ひとつ」のものになる。
 小夜子の死を生きることで、高橋は、そういう「思想」を手にいれている。



永遠まで
高橋 睦郎
思潮社

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高橋睦郎『永遠まで』(4)

2009-08-04 00:08:07 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(4)(思潮社、2009年07月25日発行)

祖母は八十歳

横顔の祖母は 八十歳
つやつやと張った片乳房を
古寝巻の襟から こぼして
両の手でもみしだく しぼりたてる
細い 勢いのいい 乳の筋が二本 三本
小さな金だらいのふちを 叩く
たらたらと音を立てて つたい落ちる
「朝になると 張りつめて痛くてね」
驚いて見つめるぼくを 尻目に
言いわけのように つぶやくのだ
彼女の末の息子 ぼくのあこがれの叔父が
二十歳で ビルマの野戦病院で死んで
もう 何年も経っているというのに
この奇怪な若さは 何だろう
がっしりと 骨太な怒り肩
掘り出された土俗の女神の横顔
だが こちらからは見えない
むこうがわの片目は 潰れている
ぼくは七歳 いいや 七十歳
横の祖母は 永遠に若若しい八十歳
三十年後 ぼくが百歳になっても

 七歳のときにみた祖母の記憶。乳房から乳を絞り出している。その若いいのちの記憶--それを描いている。そして、その記憶を高橋は「横顔」として覚えている。1行目の冒頭に出てくる。
 この「横顔」には「意味」がある。

掘り出された土俗の女神の横顔
だが こちらからは見えない
むこうがわの片目は 潰れている

 見えている「横顔」の裏側には、見えているものと違ったものがある。--そして、その「事実」は冒頭の1行そのものをも裏切って動く。「八十歳」の祖母。その横顔は、ほんとうは片目がつぶれている。ほんとうは高橋はつぶれた方の目の横顔を見ている。けれど、意識は、そのむこうがわにある「若い時代の祖母」を見てしまうのだ。
 ほんとうに七歳のときにみた光景なのか。あるいは、乳房が張って痛い、だからあまった母乳を絞り出して捨てる--という若い母性の話を聞いて、その話の中に若い祖母の姿が重なるようにして紛れ込んできたのか。
 それがほんとうであるか、それとも紛れ込んできた錯覚であるか--それは重要なことではないのかもしれない。それが錯覚であっても、ことばとして動かしていくとき、そこに「いのち」があふれだす。

横の祖母は 永遠に若若しい八十歳
三十年後 ぼくが百歳になっても

 これは、ことばの力がそうさせるのだ。ことばは記憶をよみがえらせるためにある。ことばのなかに、記憶がよみがえる。それは、死んだひとがふたたび生き返ることである。ただ生き返るのではない。生き返って、詩人のことばを生きなおす。詩人といっしょに、もう一度、人生をやりおなすのである。そのやりなおしの人生の伴侶としての詩人。そこに、愛がある。

漢詩百首―日本語を豊かに (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論新社

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