監督 マーク・ハーマン 出演 エイサ・バターフィールド、ジャック・スキャンロン、デヴィッド・シューリス
たいへん丁寧につくられた映画だ。ナチス将校の家庭の描写からはじまるが、どっしりしたベルリンの家の雰囲気がとてもいい。街並みの描写も美しい。戦争中だが、すさんだ印象はなく、どんな状況でも「日常」はそのままつづいていく。将校の昇進パーティーだが、その昇進を家族の全員が喜んでいるわけでもない(母親が怒っている、嘆いている)、というところに、この映画の視点がある。(将校の部下も反ナチスであることが、途中で描かれる。)人間の感性・思想は「一枚岩」ではない、ということは今でこそ当たり前だが、ヒトラー独裁政権下でも、そうした「日常」がある、とこの映画は描く。
悲劇は、この「日常」から起きる。主人公ブルームはナチス将校の家庭の8歳の少年。彼は家の外で起きていることがわからない。戦争をしていることは知っているが、それがどういうことか分からない。ブルームにとっての「日常」は友だちと遊ぶこと、遊びだけが「日常」だ。
その少年ブルームが「収容所」のフェンス越しに8歳の少年シュムールと出会う。収容所をブルームは「農場」と思い込んでいる。シュルームは、農家の少年だと思い込んでいる。父の昇格に伴い、ベルリンを離れ、「友だち」が誰もいないブルームは、シュムールと友だちになる。友だちといっても、フェンス越しにお菓子を渡し、会話をするだけである。ブルームは収容所で起きていることを正確には知らない。そのうえ、家で覗き見したナチスの宣伝映画をうのみにして、父親はユダヤ人に親切にしていると思い込んでいる。シュムールも収容所で起きていること、その事実をはっきりとは知らない。誰かがどこかへ行ったまま帰ってこない、という現象を漠然と知っているだけだ。
そして、ブルームが引っ越すという、その日。シュムールのいなくなった父を探すために、ブルームは「縞模様のパジャマ」を着て(ユダヤの少年に変装して)収容所に潜りこむ。収容所が何かを知っていれば、シュルームが脱走するのだが、そこで行われていないブルーム、宣伝映画をうのみにしたブルームは、収容所の中へユダヤの少年としてはいりこく。そこで、悲劇が起こる。最後の最後まで、何が起きているのかわからないまま、「行進」し、「シャワー」を浴びる。
ブルームがいないことに気づいた母が、そして父である将校が、懸命に探すが、収容所にたどり着いたとき、既にブルームは虐殺され、「パジャマ」だけが大量に部屋に残されている。どのパジャマをブルームが着ていたかもわからない、無数のパジャマが。
この理不尽な悲劇。無垢、無知ゆえに善意の少年が無残な死を迎えるという悲劇の理不尽性。
だが、理不尽であるだけに、私はかなり疑問を感じた。これでは、悲劇が少年一家に収斂してしまう。無垢な少年の悲劇は事実だけれど、無垢な少年がかわいそうでは、ホロコーストの事実が矮小化されないだろうか。製作者は、無垢な少年さえも巻き込んでしまうのが戦争だ、と主張するだろうけれど、違和感が残るのである。
事実をどこまで子供に教えるか――というのは難しい問題だ。子供には残酷な事実は教えない、残酷さに耐えられる年齢になるまでは事実を隠す、というのは一つの「教育」方法だろう。その結果が招いた悲劇――そう捉えなおしてみても、違和感は消えない。
この映画は、ドイツ人の涙を絞るだろうけれど、ユダヤ人にとっては、どううつるのだろう。ブルームがかわいそう、という気持ちはかわらないだろうけれど、そのかわいそうという気持ちで、ユダヤ人が味わった苦悩がいやされることはないだろう。ブルームは死んだ。だが、同時に死んだユダヤ人はブルームの家族全員よりもはるかに多い。家族の死を嘆く時間もなく、絶望する時間もなく、ただ苦しみのなかで死んでいった。誰もいなくなった小屋(小屋にしか見えない)のベッドにつるされた無数の縞のパジャマ。無念の、無数の人々の、描かれなかった「日常」はどうなるのだろう。その人たちは、かわいそうではないのか。
どうしても、疑問というか、怒りのようなものが残る。
そのことを別にすれば、この戦争中も、きちんと「日常」を維持するナチス将校の家庭。つましいというよりは豪華で美的にととのえられた「生活」。そして、戦争とは無関係に美しい田舎の緑。小川の流れ。透明な空気。そういう「非情」(人間の人情とは無縁の、という意味)な自然と人間の対比――そこに、悲しみが刻まれる映像の美しさは、胸に迫る。そういう自然をきちんと描いている点は、とても素晴らしいと思う。ブルームが、収容所まで行くシーン、そして最後に将校の父が、母が必死にブルームの追跡をするときの自然がまったく同じという「悲劇」――これは、ギリシャ悲劇のように美しい。
たいへん丁寧につくられた映画だ。ナチス将校の家庭の描写からはじまるが、どっしりしたベルリンの家の雰囲気がとてもいい。街並みの描写も美しい。戦争中だが、すさんだ印象はなく、どんな状況でも「日常」はそのままつづいていく。将校の昇進パーティーだが、その昇進を家族の全員が喜んでいるわけでもない(母親が怒っている、嘆いている)、というところに、この映画の視点がある。(将校の部下も反ナチスであることが、途中で描かれる。)人間の感性・思想は「一枚岩」ではない、ということは今でこそ当たり前だが、ヒトラー独裁政権下でも、そうした「日常」がある、とこの映画は描く。
悲劇は、この「日常」から起きる。主人公ブルームはナチス将校の家庭の8歳の少年。彼は家の外で起きていることがわからない。戦争をしていることは知っているが、それがどういうことか分からない。ブルームにとっての「日常」は友だちと遊ぶこと、遊びだけが「日常」だ。
その少年ブルームが「収容所」のフェンス越しに8歳の少年シュムールと出会う。収容所をブルームは「農場」と思い込んでいる。シュルームは、農家の少年だと思い込んでいる。父の昇格に伴い、ベルリンを離れ、「友だち」が誰もいないブルームは、シュムールと友だちになる。友だちといっても、フェンス越しにお菓子を渡し、会話をするだけである。ブルームは収容所で起きていることを正確には知らない。そのうえ、家で覗き見したナチスの宣伝映画をうのみにして、父親はユダヤ人に親切にしていると思い込んでいる。シュムールも収容所で起きていること、その事実をはっきりとは知らない。誰かがどこかへ行ったまま帰ってこない、という現象を漠然と知っているだけだ。
そして、ブルームが引っ越すという、その日。シュムールのいなくなった父を探すために、ブルームは「縞模様のパジャマ」を着て(ユダヤの少年に変装して)収容所に潜りこむ。収容所が何かを知っていれば、シュルームが脱走するのだが、そこで行われていないブルーム、宣伝映画をうのみにしたブルームは、収容所の中へユダヤの少年としてはいりこく。そこで、悲劇が起こる。最後の最後まで、何が起きているのかわからないまま、「行進」し、「シャワー」を浴びる。
ブルームがいないことに気づいた母が、そして父である将校が、懸命に探すが、収容所にたどり着いたとき、既にブルームは虐殺され、「パジャマ」だけが大量に部屋に残されている。どのパジャマをブルームが着ていたかもわからない、無数のパジャマが。
この理不尽な悲劇。無垢、無知ゆえに善意の少年が無残な死を迎えるという悲劇の理不尽性。
だが、理不尽であるだけに、私はかなり疑問を感じた。これでは、悲劇が少年一家に収斂してしまう。無垢な少年の悲劇は事実だけれど、無垢な少年がかわいそうでは、ホロコーストの事実が矮小化されないだろうか。製作者は、無垢な少年さえも巻き込んでしまうのが戦争だ、と主張するだろうけれど、違和感が残るのである。
事実をどこまで子供に教えるか――というのは難しい問題だ。子供には残酷な事実は教えない、残酷さに耐えられる年齢になるまでは事実を隠す、というのは一つの「教育」方法だろう。その結果が招いた悲劇――そう捉えなおしてみても、違和感は消えない。
この映画は、ドイツ人の涙を絞るだろうけれど、ユダヤ人にとっては、どううつるのだろう。ブルームがかわいそう、という気持ちはかわらないだろうけれど、そのかわいそうという気持ちで、ユダヤ人が味わった苦悩がいやされることはないだろう。ブルームは死んだ。だが、同時に死んだユダヤ人はブルームの家族全員よりもはるかに多い。家族の死を嘆く時間もなく、絶望する時間もなく、ただ苦しみのなかで死んでいった。誰もいなくなった小屋(小屋にしか見えない)のベッドにつるされた無数の縞のパジャマ。無念の、無数の人々の、描かれなかった「日常」はどうなるのだろう。その人たちは、かわいそうではないのか。
どうしても、疑問というか、怒りのようなものが残る。
そのことを別にすれば、この戦争中も、きちんと「日常」を維持するナチス将校の家庭。つましいというよりは豪華で美的にととのえられた「生活」。そして、戦争とは無関係に美しい田舎の緑。小川の流れ。透明な空気。そういう「非情」(人間の人情とは無縁の、という意味)な自然と人間の対比――そこに、悲しみが刻まれる映像の美しさは、胸に迫る。そういう自然をきちんと描いている点は、とても素晴らしいと思う。ブルームが、収容所まで行くシーン、そして最後に将校の父が、母が必死にブルームの追跡をするときの自然がまったく同じという「悲劇」――これは、ギリシャ悲劇のように美しい。
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