詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松川穂波『ウルム心』(2)

2009-08-17 09:38:32 | 詩集
松川穂波『ウルム心』(2)(思潮社、2009年07月10日発行)

 「世界」を「部品」に分解(解体?)してしまう視線。そして、その解体からもう一度、隠れていた「世界」を築き上げる視線。こういう強靱な視線は、詩よりも散文に適しているかもしれない。解体から再構築へ進むとき、どこかでぐいとすべてを引き受ける度量のようなものが必要なのだが、そういうものを松川はそなえている。自己主張ではなく、相手に(部品に)思う存分動き回らせ、それをつかず離れず支える距離感がいい。
 「いつものバーへ」の途中の部分。風邪をひいて病院へ行った。その描写。

巨体に黒い眼鏡をかけた陽気な二代目院長は ただの風邪ですよ と言って
かしこまるわたしを安心させた そしてインフルエンザの発見とその歴史につ
いて 身振りをまじえて話しはじめた ころころとした指が顕微鏡になり 死
体を埋めるスコップになった やがて 話題を第一次世界大戦にうつし(二
代目院長はウイルスより戦争の方がお好きなようだ) ドイツ軍の塹壕のな
かの兵士が十をかまえるポーズをとったとき 女性看護師が次の患者のカルテ
を そっとさしだして 戦争はいきりり終結

 とてもいきいきしている。松川の描く主人公(?)というか、「わたし」は何もせず、受け身で、現実を解体してながめているような感じがあるのだが、他人(?)というか、この詩の場合、医者だが、直接日常にかかわってこない人は、倦怠感とは無縁の、積極性に満ちた人間である。その積極性が、ある意味では松川の世界の解体に力を貸しているのかもしれない。「世界」の構造からはみだして生きていこうとする力--それを受け取るとき、そこに「世界」をつくっている「部品」には、「部品」ではおさまりきれない何かがあると感じ、それをていねいにみつめてみようとする意識が松川にあるのかもしれない。
 この二代目院長には、話のつづきがある。そこもおもしろい。

わたしは 財布を待合室に置き忘れたことを思い出した 自然に小走りになっ
て もとの道を戻った 受付に走り込むと さっき診察をうけたばかりの二代
目院長がタヌキのように座っている わたしが何もいわないさきから にこに
こしながら ころころした指で わたしの財布を差し出す「はい これ」ああ
医者にしておくには惜しい男だ 深く礼を言い せわしげなふりをして立ち去
る ゆっくりしていると またウイルスの いや次の戦争が始まりそうだった
から 微熱は消えていた

 前半の描写に比べると、ちょっと密度が落ちている。--けれど、その少し密度が落ちている部分がとても微妙なのだ。「微熱は消えていた」とあるように、松川は「健康」になっている。そうなると、世界の解体が微妙におとなしくなる。
 松川の世界は「微熱」と一緒にある、ということかもしれない。松川のことばの運動の距離感は「微熱」の距離感かもしれない。
 微熱があるとき、変な話だが(あるいは、強引な話だが)、目なんかはウルム。そして、そういうウルム目で世界をみると、なんとなく、世界も少し世界そのものから分離しているというか、離脱しているように感じられることがある。世界につながっているのだけれど、ひとつひとつが「部品」となって、そこから少し浮いて見えるように感じるられることがある。
 「ウルム窓」とは「ウルム目」のことだ。「目は心の窓」だからね。

 この微熱の目、微熱のこころ--そのことを、というか、微熱のなかで何かを感じている「わたし」と、そのことを意識する「わたし」のことを、「竹林」という作品は描いている。

竹林のなかには
竹が立っている
竹でないものも
竹の姿で立っている
頬をおしあてると
竹は ひんやりした碧の冷たさ
竹の姿をしたものは
あえかな震えを伝えてよこす

 「頬をおしあてると/竹は ひんやりした碧の冷たさ」は「わたし」に「微熱」があるとき、いっそう鮮烈に感じられるだろう。そして、ここでとてもおもしろいのは、「わたし」が竹そのものではなく、「竹の姿をしたもの」(竹ではなく「部品」になってしまった竹を「竹の姿をしたもの」は呼んでいるのだと思う)に反応していることである。
 ここには朔太郎の「竹」に対する敬意がある。
 「あえかな震え」という表現に、それが色濃くでている。

風が渡れば
竹は
かしこい生徒たちになって
しずかに はしゃぐ
竹の姿をしたものは
少し遅れて
はしゃぎすぎるから
(わたしには)すぐ わかる

 「しずかに はしゃぐ」という矛盾の美しさ。そして、そのあとの「少し遅れて」という「ずれ」の指摘。世界の構造から、「少し遅れ」るとき「部品」は「部品」らしくなる。時流(?)から少し遅れて動く--その動きのなかに、「部品」の懸命さが浮かび上がるのである。こういうものを松川はていねいに、すくいあげる。
 そういうものは誰にでもわかるかどうかは判然としないが

(わたしには)すぐわかる

 そう。松川は、そういうものを明確に見て取るのである。「ウルム心」、ウルム目は、健康な(?)目よりも敏感にはんうのするのだ。
 とぎれとぎれの引用で申し訳ないが、詩は、つづいていく。

曇天をつき破って
さーっと陽が漏ると
竹林のなかは 浄土のように白く光る
いつか切られる日
竹は すっくと静かである
(中空は すでに孕まれて)
ゆっくりと笑いながら天頂から倒れてくる
竹の姿をしたものは
そのとき
どこかに消える
(嗚咽のような葉ずれがして)

竹林のなかは
ざわめく碧の蜃気楼
わたしと わたしでないものが
わたしの姿で横切っていく
竹の姿をしたものがついてくる

 最終連に登場する「わたしと わたしでないもの」。ここに「微熱」がある。「微熱」が「わたしと わたしでないもの」をつくる。
 微熱を、「意識の覚醒」と呼んでもいいかもしれない。それまで眠っていた意識が揺り動かされて、ふと目覚める。それは軽い覚醒である。軽いから重要ではない、というのではない。始まり、あるいは覚醒の始まり以前の始まりのような、小さな、微細なものであるけれど、そこから、振幅が大きくなり、世界がゆらぐことがあるのだから。
 微熱のなかで、「わたしと わたしでないものが/わたしの姿で」動くとき、それにあわせて、世界の「部品」が「部品」の姿で動きはじめる--それを松川は書いている。

 これは、ほんとうにおもしろい詩集だ。



バラの熱―詩集
松川 穂波
白地社

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誰も書かなかった西脇順三郎(60)

2009-08-17 07:06:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 『旅人かへらず』のつづき。

一四〇
秋の夜の悲しき手を
引きよせ
くぬぎの葉ずれをかなでさせ
かよわい心はせかる
星の光りを汲まんと
高くもたげる盃の花咲く
むくげの生籬をあけ
静かなる訪れをまつ
待ち人の淋しき

 前半が、私は好きである。「くぬぎの葉ずれをかなでさせ/かよわい心はせかる」。ここにはかさかさという音が隠れている。「悲しき手」「かなで」「かよわい」よりも、「せかる」の「か」が「かさこそ」という音を浮かび上がらせる。「せか」るの「せ」が「さ行」を呼び覚まし、「かさかさ」になるのだろう。

一四一
野に摘む花に
心の影うつる
そのうす紫の

 この断片では「う」の音がとても印象的だ。「うつる」「うす」紫--その「う」の原点は「摘む」になる。「う」は子音の影に隠れているけれど、その静かな響きが「うつる」「うす」紫の「う」を、底からていねいに支えている。

 絵画的イメージよりも、音の呼び合う感じの方が私には強く感じられる。





幻影の人 西脇順三郎を語る

恒文社

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高橋睦郎『永遠まで』(17)

2009-08-17 00:02:55 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(17)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「思うこと 思いつづけること」は四川大地震の死者たちに捧げられた詩である。その4連目。

飲めず、食えず、眠ることのできないあなたがたと、飲み、食い、
眠らずにはいられない私どもが和むには……しかし、私どもがあな
たがたと和むことは、けっしてありえないだろう。その厳然たる事
実を思うこと、避けることなく思いつづけること。

 生きている人間は思いつづけなければならない。そして、思いつづけるために書く。ことばにする。思うだけではなく、きちんとことばにして、書く。書き留める。そして、書きつづける。
 これは四川大地震の犠牲者に対してだけではなく、高橋が一貫してとりつづけている態度である。この詩集を貫いている姿勢である。
 最終連で、もう一度、繰り返している。

いまはそのことを思わなければならない。心を尽して思わなければ
ならない。あなたがたが関知しようとしまいと、つづけられる限り
思いつづけなければならない。それが私どもがこちら側にいるこ
と。そして、あなたがたが向う側にいるということ。等しく、ひと
りひとり、ひりひりと孤独であるということ。

 最後のことばは複雑である。死者は孤独である。その死者を思いつづけるとき、「私」も孤独である。しかし、そこに、何らかの通い合うものがないのか。--高橋は、ない、と言っているように思う。何も通い合わない。けれど、思わなければならない。
 生きている私たちが死者を思ったからといって、死者が孤独から解放されるわけではない。死者は孤独である。だからこそ、その死者に匹敵する孤独を獲得するために、詩人はことばを書く。死者の孤独を生きるために書く。
 そうやって、高橋は「死者」そのものになろうとしているようにも思える。

 この詩集におさめられた多くの追悼詩--そのなかで、高橋は、死者そのものになろうとしていた。死者を生きようとしていた。その多くは高橋の知人であったが、この「思うこと 思いつづけること」には、そういう知人は出てこない。だから、この詩では、高橋は死者の具体的な生については触れていない。生きてきた「過去」については触れず、死の瞬間、死というものだけを浮かび上がらせ、死者そのものになろうとしている。
 抽象的である。抽象的である分、高橋の思想が抽象化され、一般化されているような印象が残る。
 







永遠まで
高橋 睦郎
思潮社

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コメント (1)
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