『旅人かへらず』のつづき。
一六二
秋の夜の雨
とび石の臼にたまり
菊のにほひする
昔のはるかなるにほひ
西脇順三郎は「が」という助詞が嫌いなのかもしれない。「が」を鼻濁音で発音したのか、鼻濁音ではない音で発音したのか。もしかすると、鼻濁音ではなかったのかもしれない。鼻濁音ではない「が」の音は、私にはときとき「か」に聞こえる。九州に住むようになって長いので、だいぶなれたが、破裂する「が」の音はときどきぞっとする。
この詩の場合、
秋の夜の雨(が)
とび石の臼にたまり
菊のにほひ(が)する
昔のはるかなるにほひ
と、「が」があった場合、どうなるだろう。鼻濁音なら問題がないが、破裂する音だとかなりとげとげしい。そういうとき、西脇は好んで「の」をつかうように私には思える。
秋の夜の雨(の)
とび石の臼にたまり
菊のにほひ(の)する
昔のはるかなるにほひ
音がなめらかになる。しかし、ここでは、西脇は「の」を書かずにいる。
なぜだろう。
「に」の音を活かしたかったのだろう、と思う。「にほひ」の「に」というよりも、助詞の「に」、「石の臼に」の「に」。
「の」をつかうと「に」が「な行」に埋もれてしまって、聞こえなくなる。だから「の」を省略している。
そひて「に」のなかにある母音「い」の音にも気を配っている。「にほひ」の「ひ」は発音は「い」。子音は消えてしまって、母音だけが残っている。その、不思議な音の放り出され方。その放り出された「い」と「石の臼に」の「に」が響きあう。「いし」の「い」の音もいっしょになって響く。
一六三
(略)
女が人形になるせつな
人形が女になるせつな
肉体から抜け出た瞬間の魂
夜明に薔薇のからむ窓の
開かれる瞬間
あの手の指のまがり
歩み出す足の未だ地を離れず
何事か想ふ女の魂
水霊のあがり
花咲く野に踏み入る心
暁の行く石の中かすかに
「肉体から」からつづく3行。この3行のなかの「か」の音が私はとても好きだ。「開かれる」ということばがあるけれど、とても開かれた音だ、「か」は。「からむ」ということばさえ、窓と結びついて、開放的になる。そして、実際「開かれる瞬間」と解放される。しかも「開く」瞬間ではなく、あくまで「開かれる」瞬間。その「開く」「開かれる」の違いは、動詞の主語の影響を受けた動詞の活用というよりも、「か」という音を含むか含まないかの違いである。
この開放的な「か」のあとでは「あの手の指のまがり」の「まがり」の「が」は鼻濁音ではないかもしれないという気持ちになる。鼻濁音だと「あ」の音は、口の外へは出ずに、喉の奥へ引き込んで行く。
いや、だからこそ、鼻濁音なのだ--という感じもする。口の外へは出ずに、喉の奥に入り込んで行く感じと「歩み出す足の未だ地を離れず」がしっくりくる。いったんは、開放的になるが、思い止まり、足を地につける。その、密着した感じと鼻濁音「が」ののとの奥へと引き込む母音の響きがどこかでつながる。
この感じは、「水霊のあがり/花咲く野に踏み入る心」にもつながる。「野に踏み入る」の「入る」。「踏み出す」でもいいのに、「踏み入る」ということばを選ぶ。そこには、出て行くと同時に、内部に入り込むという相反する動きが重なる。
野に「踏み出す」と「踏み入る」。「踏み出す」をつかわず「踏み入る」ということばをつかうとき、そこに内省的な響きが生まれる。その、内省的な響きは--「かすか」である。
あ、ここに、また「か」がよみがえってくる。
ここに書かれていることには、もちろん「意味」はあるのだが、私には、「意味」以上に、音の揺らぎが楽しい。いろいろ、考えさせられる。
西脇順三郎全集〈第11巻〉 (1983年)西脇 順三郎筑摩書房このアイテムの詳細を見る |