詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則『ちかしい喉』(1)

2009-08-06 11:20:53 | 詩集
松岡政則『ちかしい喉』(1)(思潮社、07月15日発行)

 松岡政則『ちかしい喉』には複数の「音」がある。「声」がある。もちろん、その声は肉体の奥で深く結びついているのだか、ほんとうはひとつといえるのだけれど、とりあえずは複数の声がある--という視点から読んでいく。
 ひとつは、「ふるさと」の「土」の声である。
 「どうよ。」のなかほど。

くたびれたら菓子パン食ってそこいらで、寝る
どくん、どくんと
母胎に還っていくように、寝る
もう何代も前から受け継いでいることのような気がするし
そうしないと躰が自分のものではなくなってしまうような気がするし
うごっ、ぐわっ、ごぼっ、
夜にはそちこちから音がもれてきて
六千もの星星からもいろんなものが降りてきて
艸(くさ)も押し寄せてくるわ、樹木も酔ってくるわ、
そうやってにぎやかないのちの闇に
一晩中さわられながら寝るのだし
時々ぶつかって行くこともあるし
お山の朝が甘いことも知っている

 「どくん、どくん」というのは大地に身を横たえたときに聞こえる松岡自身の心臓の鼓動だけれど、それは松岡自身のものでありながら、松岡のものではない。乙丘の鼓動と呼応する大地そのものの鼓動である。いや、逆に言うべきなのだろう。大地が「どくん、どくん」と脈打つ。その鼓動に揺さぶられて、松岡の心臓が「どくん、どくん」と反応する。そうして、松岡自身が「大地」になる。
 その「肉体」はもちろん松岡のものではあるけれど、松岡のものではない。「何代も前から受け継いでいるような気がする」と松岡は書いているが、そうなのだ、何代も前から「受け継いだ」もの、ほんとうは、その「土地」のものなのだ。
 大地に触れ、大地に還る。「母胎」へ還るだけではなく、「母胎」の「母胎」の「母胎」のさらに延々とつながる「母胎」、「大地」そのものへ還るのである。松岡そのものが「大地」という母胎になる。
 そうやって、自分自身の肉体を超えていくことが、実は「躰」を「自分のもの(松岡のもの)」にするということなのだ。自分を超越して存在する肉体にならない限り、「躰が自分のものではなくなってしまうような気がする」--この感覚。これが、松岡の、声のひとつである。

うごっ、ぐわっ、ごぼっ、
夜にはそちこちから音がもれてきて

 松岡の肉体は「大地」そのものになっているのだから「そちこち」とは実は松岡の肉体、肉体にしみついた精神・思想そのものであり、その音はどこから聞こえてこようと松岡自身が発するものなのである。
 星も草木も、森羅万象すべてが松岡の肉体になる。
 私は松岡について何も知らないが、こういう感覚は、森の中で存分に遊んだ人間に特有の感覚であると思う。コンクリートの街中で生まれ、育ち、遊んだ人間にはない感覚だと思う。

 「古郷(ふるごう)の月」にも、同じ感覚が出てくる。

のの様を拝みんさい
満月になると
こどもらは外に連れ出され月を拝まされた
なんまんだぶ、なんまんだぶ、
そうやってよく拝んでおけば
死んでからもここの艸でいられるという
そういう土風(くにぶり)だった

 「死んでからもここの艸でいられる」という思想。この「大地」と一体でいられるという思想。人間である必要はない。この大地に根を張る、ということが必要なのだという思想が、人間のあいだで共有されるのではなく、「土風」、つまり「大地」として共有される。

だが
この土地にはわたしはもう守れない
のの様にも守れない
そういう躰になった
ムラのみどりの雨をうたがい
粗で、遊なものをうたがい
そういう躰になった

 2連目で、松岡は松岡自身をそう定義しているが、その肉体には、なお「大地」と呼応する力が残っている。いつでも「大地」になってしまう--大地からの脱出を松岡は試みたのかもしれないけれど、「大地」になる力が残っている。
 最終連がとても美しい。肉体に残っている力が、ふるえるように大地に反応している。

静かだった
こういうのが静かというのだった
どくん、どくんと
躰ごと脈うって
この冴えわたる月光の下
いまわたしにひいやりと抜け出ていく者らよ
歩くことに淫した群青の者らよ



ちかしい喉
松岡 政則
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(49)

2009-08-06 07:32:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

九〇
渡し場に
しやがむ女の
淋しき

 「し」の音のくりかえしが美しい。「しゃがむ」という短いことば、俗な響きが、なぜか美しい。
 西脇にかかると、どんなことばも美しい音になる。

九二
ある頃の秋の日
恋人と結婚するために還俗した
ジエジュエトの坊さんから
ラテン語を習つてゐた
ダンテの「王国論」をふところに入れ
三軒茶屋の方へ歩いた
あの醤油臭いうどん
こはれて紙をはりつけたガラス瓶
その中に入れて売つてゐるバット
コスモスの花が咲く
安ぶしんの貸家

 「還俗」--これは、もしかすると西脇のことばそのものを定義するときに有効な表現かもしれない。
 西脇のことばの清潔さ、それは「聖」をいったん知った上で「俗」へもどってきたときの美しさに思える。そうした西脇に触れると、「俗」が一瞬にして「聖」へと浄化していく感じがする。
 「俗」は「俗人」が書いては「俗」にもならないのかもしれない。
 「あの醤油臭いうどん」の「あの」が、その前までの「聖」を一気に「俗」な現実に引き戻す。「あの」が含んでしまう「時間」が、ことばを濃厚にする。
 それからつづく「俗な現実」、日常のリアリティー(?)が、コスモスの花によって、洗われ、つづく「安ぶしんの借家」の「ぶしん」のひらがな表記が、なぜか、とてもうれしい。漢字だと「意味」になってしまう。ひらがなは、その意味をほぐしていく。音の中でほどかれる肉体というものを感じる。頭で「意味」を考ええるのではなく、のど、口蓋、舌が、音といっしょに洗われる。

九四
「失はれた浄土」は盲人の書いた地獄
へくそかづらの淡いとき色も
見えないただ
葡萄の蔓
へうたん

がその庭の飾りで
ふるえてゐる

 「へくそかづら」。この汚いことば(?)の美しい音。素朴な音。永遠の音。この美しさに、西脇自身もとまどっているのかもしれない。
 「へくそかづら」という音のまがり、ねじくれが、形なって葡萄の蔓になり、その曲線から「へうたん」が導き出される。--こういう行を読むと、たしかに西脇は視覚の人だという気持ちにもなる。西脇を視覚の人、西脇の詩を絵画的と呼びたくなる。
 でも、私にとっては、西脇は「音」「音楽」の詩人である。
 「見えないただ」という行。「見えない/ただ」ではなく「見えないただ」という呼吸のとり方、それから「葡萄の蔓/へうたん/麦」というリズムの刻み方が、とてもおもしろい。
 変化していくリズムを立て直す(?)ような、「が」を行頭におく「がその庭の飾りで」ということばの運び方、そして「ふるえてゐる」という落ち着かせ方--その音の動きが、私には、やはり「音楽」としかいいようがない。





雑談の夜明け (講談社学術文庫)
西脇 順三郎
講談社

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高橋睦郎『永遠まで』(6)

2009-08-06 00:16:46 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(6)(思潮社、2009年07月25日発行)

 死者の生を歩きなおす。生まれ変わる小夜子となって、高橋が、小夜子を生きる。そのとき、「時間」を歩くのだが、そこには「歩く」(生きる)という時間があるだけで、ここが「過去」、ここが「いま」、ここが「未来」という点と線で、直線的に描ける時間は存在しない。

私はくりかえし歩き
くりかえし歩を返した
長いステージ それは
世界を幾巻きも
その時間は一秒
それとも千年
私のことをいつまでも若いと
人は首をかしげる
どうしたら老いないないのか
教えてほしいと言う
老いないのではない
老いられないのだ
自分に顔がなく
体がないと気付いた者に
どうして老いることができよう

 「一秒」と「千年」の区別がつかない。それは、小夜子となって歩く高橋にとって、過去も未来もなく、ただ「いま」があるだけだということだ。「時間」はある点と別の点を結んだ直線ではなく、つねに「いま」があるだけなのだ。
 この「いま」を「永遠」とも呼ぶ。
 歩いても歩いても、あるゴールにたどりつくわけではないから、そこには「経過」というものがない。「経過」がなければ「老いる」という年齢の変化、年齢の経過もありえない。
 永遠を歩くものは「老いる」ということができない。
 いつまでも「自分」ではなく、「他人」として存在しつづける。そこに「いのち」がある。生まれ変わる「いのち」がただわき出る泉のようにあふれる。輝く。

 詩人は老いることができない。小夜子の死を生きなおす高橋は老いることができない。こういう哲学に達してしまったら、ことばは、いったいどこへ行けばいいのだろう。
 老いることができない詩人、つまり死ぬことのできない詩人は、最後をどうやって祝福すればいいのだろう。
 詩は、とても美しく、光そのものになっていく。最終連。

蒙古斑の幼女のお尻
のような すべすべの
満月がのぼる
いつか風が出て
満月の表面に
蒙古斑のような
さざなみをつくる
さざなみがくりかえし
月を洗い 洗いながした後
夜明けが立ちあがる
私は夜明けに溶け
私は夜明けになる
かつて着たことのある夜明けに
夜明けになった私を着るのは
誰だろう

 夜明けになった小夜子を、高橋は着た。そして、小夜子になって、小夜子を通って、夜明けになった。その小夜子とも、高橋ともつかない「いのち」の夜明け--それが、いま、読者に、こうやって差し出されている。



百人一句―俳句とは何か (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論社

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