松岡政則『ちかしい喉』(1)(思潮社、07月15日発行)
松岡政則『ちかしい喉』には複数の「音」がある。「声」がある。もちろん、その声は肉体の奥で深く結びついているのだか、ほんとうはひとつといえるのだけれど、とりあえずは複数の声がある--という視点から読んでいく。
ひとつは、「ふるさと」の「土」の声である。
「どうよ。」のなかほど。
「どくん、どくん」というのは大地に身を横たえたときに聞こえる松岡自身の心臓の鼓動だけれど、それは松岡自身のものでありながら、松岡のものではない。乙丘の鼓動と呼応する大地そのものの鼓動である。いや、逆に言うべきなのだろう。大地が「どくん、どくん」と脈打つ。その鼓動に揺さぶられて、松岡の心臓が「どくん、どくん」と反応する。そうして、松岡自身が「大地」になる。
その「肉体」はもちろん松岡のものではあるけれど、松岡のものではない。「何代も前から受け継いでいるような気がする」と松岡は書いているが、そうなのだ、何代も前から「受け継いだ」もの、ほんとうは、その「土地」のものなのだ。
大地に触れ、大地に還る。「母胎」へ還るだけではなく、「母胎」の「母胎」の「母胎」のさらに延々とつながる「母胎」、「大地」そのものへ還るのである。松岡そのものが「大地」という母胎になる。
そうやって、自分自身の肉体を超えていくことが、実は「躰」を「自分のもの(松岡のもの)」にするということなのだ。自分を超越して存在する肉体にならない限り、「躰が自分のものではなくなってしまうような気がする」--この感覚。これが、松岡の、声のひとつである。
松岡の肉体は「大地」そのものになっているのだから「そちこち」とは実は松岡の肉体、肉体にしみついた精神・思想そのものであり、その音はどこから聞こえてこようと松岡自身が発するものなのである。
星も草木も、森羅万象すべてが松岡の肉体になる。
私は松岡について何も知らないが、こういう感覚は、森の中で存分に遊んだ人間に特有の感覚であると思う。コンクリートの街中で生まれ、育ち、遊んだ人間にはない感覚だと思う。
「古郷(ふるごう)の月」にも、同じ感覚が出てくる。
「死んでからもここの艸でいられる」という思想。この「大地」と一体でいられるという思想。人間である必要はない。この大地に根を張る、ということが必要なのだという思想が、人間のあいだで共有されるのではなく、「土風」、つまり「大地」として共有される。
2連目で、松岡は松岡自身をそう定義しているが、その肉体には、なお「大地」と呼応する力が残っている。いつでも「大地」になってしまう--大地からの脱出を松岡は試みたのかもしれないけれど、「大地」になる力が残っている。
最終連がとても美しい。肉体に残っている力が、ふるえるように大地に反応している。
松岡政則『ちかしい喉』には複数の「音」がある。「声」がある。もちろん、その声は肉体の奥で深く結びついているのだか、ほんとうはひとつといえるのだけれど、とりあえずは複数の声がある--という視点から読んでいく。
ひとつは、「ふるさと」の「土」の声である。
「どうよ。」のなかほど。
くたびれたら菓子パン食ってそこいらで、寝る
どくん、どくんと
母胎に還っていくように、寝る
もう何代も前から受け継いでいることのような気がするし
そうしないと躰が自分のものではなくなってしまうような気がするし
うごっ、ぐわっ、ごぼっ、
夜にはそちこちから音がもれてきて
六千もの星星からもいろんなものが降りてきて
艸(くさ)も押し寄せてくるわ、樹木も酔ってくるわ、
そうやってにぎやかないのちの闇に
一晩中さわられながら寝るのだし
時々ぶつかって行くこともあるし
お山の朝が甘いことも知っている
「どくん、どくん」というのは大地に身を横たえたときに聞こえる松岡自身の心臓の鼓動だけれど、それは松岡自身のものでありながら、松岡のものではない。乙丘の鼓動と呼応する大地そのものの鼓動である。いや、逆に言うべきなのだろう。大地が「どくん、どくん」と脈打つ。その鼓動に揺さぶられて、松岡の心臓が「どくん、どくん」と反応する。そうして、松岡自身が「大地」になる。
その「肉体」はもちろん松岡のものではあるけれど、松岡のものではない。「何代も前から受け継いでいるような気がする」と松岡は書いているが、そうなのだ、何代も前から「受け継いだ」もの、ほんとうは、その「土地」のものなのだ。
大地に触れ、大地に還る。「母胎」へ還るだけではなく、「母胎」の「母胎」の「母胎」のさらに延々とつながる「母胎」、「大地」そのものへ還るのである。松岡そのものが「大地」という母胎になる。
そうやって、自分自身の肉体を超えていくことが、実は「躰」を「自分のもの(松岡のもの)」にするということなのだ。自分を超越して存在する肉体にならない限り、「躰が自分のものではなくなってしまうような気がする」--この感覚。これが、松岡の、声のひとつである。
うごっ、ぐわっ、ごぼっ、
夜にはそちこちから音がもれてきて
松岡の肉体は「大地」そのものになっているのだから「そちこち」とは実は松岡の肉体、肉体にしみついた精神・思想そのものであり、その音はどこから聞こえてこようと松岡自身が発するものなのである。
星も草木も、森羅万象すべてが松岡の肉体になる。
私は松岡について何も知らないが、こういう感覚は、森の中で存分に遊んだ人間に特有の感覚であると思う。コンクリートの街中で生まれ、育ち、遊んだ人間にはない感覚だと思う。
「古郷(ふるごう)の月」にも、同じ感覚が出てくる。
のの様を拝みんさい
満月になると
こどもらは外に連れ出され月を拝まされた
なんまんだぶ、なんまんだぶ、
そうやってよく拝んでおけば
死んでからもここの艸でいられるという
そういう土風(くにぶり)だった
「死んでからもここの艸でいられる」という思想。この「大地」と一体でいられるという思想。人間である必要はない。この大地に根を張る、ということが必要なのだという思想が、人間のあいだで共有されるのではなく、「土風」、つまり「大地」として共有される。
だが
この土地にはわたしはもう守れない
のの様にも守れない
そういう躰になった
ムラのみどりの雨をうたがい
粗で、遊なものをうたがい
そういう躰になった
2連目で、松岡は松岡自身をそう定義しているが、その肉体には、なお「大地」と呼応する力が残っている。いつでも「大地」になってしまう--大地からの脱出を松岡は試みたのかもしれないけれど、「大地」になる力が残っている。
最終連がとても美しい。肉体に残っている力が、ふるえるように大地に反応している。
静かだった
こういうのが静かというのだった
どくん、どくんと
躰ごと脈うって
この冴えわたる月光の下
いまわたしにひいやりと抜け出ていく者らよ
歩くことに淫した群青の者らよ
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