詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(63)

2009-08-20 07:43:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『旅人かへらず』のつづき。

一五一
折にふれ人知れず
争ふ夫婦の舌のとがり
永遠の暗黒にもどり
古の土の思ひ
物いはず
落葉をふむ
互いにはぐくむ庭に
ひよどりの鳴く

 1行目の「折にふれ」がさまざまな音楽に変奏されていく。「折り」は「舌のとがり」「暗黒にもどり」の「とがり」「もどり」。そして最終行に突然復活する「ひよどり」。
 「とがり」「もどり」は「が」を鼻濁音で発音すると、ときには「とまり」「もどり」のようになるから、そこには「ま行(?)」の口蓋、鼻腔の感覚が交錯する。(鼻濁音を上手に言えない幼い小さい子どもが「手紙」を「てまみ」は発音することを思い出してほしい。)文字で見るだけではわからない音がある。(とは言うものの、私は西脇の詩を音読はしたことがない。しかし、黙読のとき、自然に、口蓋、鼻腔が反応する。それほど西脇のことばは「音」が美しいのだと思う。)
 夫婦喧嘩(?)の様子を描いているようで、それはみせかけ。音を動かしてみたかったのだけだ。「折にふれ人知れず/争ふ夫婦」などという奇妙な表現は「わざと」でないと出てこないだろう。
 「ふれ」の「ふ」を中心にした「は行」は「ふれ」「ふうふ」「あらそふ」「いにしへ」「おもひ」「いはず」「ふむ」「はぐくむ」「ひよどり」とにぎやかである。
 「ひよどり」のなかには「どり」(り)と「は行」がそろっているのも愉しい。

一五四
座敷の廊下を行くと
とざされたうす明りの
障子に映る花瓶に立てられた
山茶花の影の淋しき

 3行目「障子に映る花瓶に立てられた」のリズムが、なんとも不思議である。私なら「障子に映る/花瓶に立てられた」と書いてしまいそうである。さらに言えば「障子に映る」は2行目と、「花瓶に立てられた」は4行目と一緒にしたい意識がある。私の無意識の文法は、そんなふうに行のことばを割り振っている。その無意識の割り振りを破壊して、西脇のことばは動く。私の文法意識は破壊される。この瞬間が、くすぐったくて、愉しい。
 こういうリズムのあとでは「さざんか」という「ん」を含む音のすばやさが気持ちがいい。「障子に映る花瓶に立てられた」ということばが「わざと」(むりやり?)凝縮されて1行に押し込められているのだから、次のことばもぎゅっと凝縮された漢字がいい。長音のある花だときっと「影」は映らないし、「淋しさ」もぼやけるだろうと思う。

文学論 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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伊藤悠子「海草を干すように」

2009-08-20 00:41:44 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「海草を干すように」(「ふらんす堂通信」121 、2009年07月25日発行)

 伊藤悠子「海草を干すように」に、左古真由美『あんびじぶる』に通じるものを感じた。

なにげなく なによりも 自分たち自身に なにげなく思えるだけの時間
をかけて 知らない土地へと 自分たちを移していけないものか いつし
か 移っていたということはあり得ないか 自分とそしていつも連れてい
るこの小さな子という自分たち二人を 見知らぬ土地へと転がしていく方
策を 静かな鳥のように海を見つめながら考えている

遠くの浜で
漁師が二人海草を干している
一人は背が低く女かもしれない
二人は夫婦かもしれない
移っていくことを生業として
移っていくことを考える
たとえば海草を干すようにして移っていくのだ
浜に
今日は今日一日分の海草を干す
明日は今日終わった処にロープを張る
小さな子に渡してもらった海草を干していく
あさっては明日の終わった処にロープを張る
小さな子は手伝いが好きで
「はい」「はい」と渡す
海草を干したロープが
浜に続いていく
えんえんと

 伊藤にももちろん「心眼」というものがあるのだが、伊藤は「こころの目」よりも「肉眼」を信じているようである。見えないものを書こうとはしない。見えるものを書く。ただし、その見えるものを、少しずつ「移していく」。海草を干すロープのように。どこまで進んだかをきちんと印をつけながら、少しずつ少しずつ、進んで行く。そして、その少しずつを延々とつづけていたら、いつのまにか「いま」「ここ」が「いま」「ここ」ではなく、「見知らぬ土地」だった--そういうことばの動かし方をする。
 その、見えるものをきちんと見て、それを引っぱっていく(移していく、と伊藤は書いているが)力に、私は、詩を感じる。



詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂

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左子真由美『あんびじぶる』

2009-08-20 00:18:21 | 詩集
左子真由美『あんびじぶる』(竹林館、2009年08月14日発行)

 アンビジブル--みえないもの。たとえば、「輪郭」。「輪郭」そのものは見えるけれど、その輪郭のなかに見えないものがある。「輪郭」という詩の全行。

りんごをなぞるように
きみのりんかくをなぞる
ふしぎだ
せかいと
きみとに
さかいめがあるなんて

 清岡卓行の「石膏」の「ああ/きみに肉体があるとはふしぎだ」を思い出すが、大きな違いがある。左子は「きみ」に肉体があることを不思議とは感じていない。「さかいめ」に不思議さを感じている。この「さかいめ」は左子がことばにするまで存在しなかったものである。ことばによってはじめて見えてきたもの、つまりそれまでは見えなかったものである。
 左子のいう「みえないもの」とは、そういう類のものである。

 「名前」という作品。その全行。

区別するためではなく
よりわけるためでもなくて
呼ぶという行為よりは
もっと深いわけがあって

ひとは名付けられる
ひとつの身体に
ひとつの名前
呼ばれるたびに思い出すために
世界にたったひとつの
命であること

いつも 朝が
まっさらな朝であるように
すみずみにまで
血が流れはじめる
そのときだ

名前を呼ばれると
わたしの身体は
ぴくん と跳ねて
地球という椅子から
起立する

 「名前」。これはもちろん視力では「見えない」。だが、左子が主題にしている「見えない」とは視力で見える・見えないのことではない。「輪郭」もそうだが、視力には輪郭そのものは見える。視力には輪郭は見えるけれど、その輪郭が「せかい」と「きみ」の「さかいめ」とは見ない。それを「せかい」との「さかいめ」と見るのは、意識である。
 「肉眼」ではなく「心眼」。
 肉眼が見落としていたものを、こころの目が拾い上げる。ことばのなかに。そうすることで、見える--意識できるようになるものがある。
 「名前」では、それは「命」。
 だが、もっと正確にいうと「世界にたったひとつの/命であること」の「こと」。左子が見ようとしているもの、ことばで見えるようにしようとしているものは「いの」ではなく、「命であること」の「こと」なのだ。それは「名詞」ではなく、一種の動きである。運動である。
 重要なのは、その前の行だ。

呼ばれるたびに思い出すため

 呼ばれて思い出す。呼ばれるとは、自分ではない誰か、である。「名前」でいえば、その名前をつけてくれたひと、親である。親に呼ばれて思い出す。「命」とは、親から子へとつながる「こと」、親から子へと渡されるもの、その「渡す」という「こと」のなかにあるものだ。
 「たったひとつの/命」は、ほんとうは「たったひとつ」ではない。かならず、それに先立つ「いのち」がある。
 そして、いつものは忘れているそのつながりは、「呼ばれること」によって見えてくる。呼ばれる「こと」によって、「いのち」がつながりである「こと」を思い出すのだ。思い出さなければならないのだ。
 「いのち」に血が流れはじめるのは、「よばれる」ことによってである。「呼ばれる」そのときからである。

名前を呼ばれると
わたしの身体は
ぴくん と跳ねて
地球という椅子から
起立する

 最終連で、左子は、そう書いているが、身体は「椅子から/起立する」ことはあっても、実は「地球という椅子から」起立することはない。「地球という椅子」は意識のなかにしかない。意識によって定義される椅子である。
 見えなかった「いのち」の「つながり」、「つながり」が「いのちであること」が見えるこころの目にだけ「地球という椅子」が見えるのである。

 見えないものを見る。見えるようにする。ことばによって。それは一種の「賭け」である。左子は「賭け」という作品で「肉体」をもつことを「賭け」であると書いているが、そこに書かれている「肉体」と「ことば」を入れ換えると、左子の「見えないものを見る」という「こと」が、そのまま説明したことになると思う。全行引用する。ぜひ、「肉体」と「ことば」を入れ換えて読んでみてほしい。

肉体は
さみしい遭難者
ちいさなランプを灯す
イカ釣り船のようだ

肉体を持つことは
ことばを持つことに似ている
それは
取り返しのつかない
ひとつの賭けなのである

深い夜の底で
わたしはさみしい賭博者になり
ちいさなランプを灯して
なけなしの金をはたき
擦り切れた人生までをはたいてみる

神は
わたしたちに
肉体を与えてしまった
ちいさなランプひとつを
舳先に掲げさせて

 2連目。表現を入れ換えて、「ことばを持つことは/肉体を持つことに似ている/それは/取り返しのつかない/ひとつの賭けなのである」としてみる。そうすると、そこに「いのち」、「こと」としての「いのち」が見えてくる。ことばを持つことは「いのち」をもつことと、同じ。それは、誰かから、渡され、引き継ぎ、自分の力で育てていかなければならない。ことばと「いのち」はそのとき、同じものになる。少なくとも左子にとっては同じものだ。渡された「いのち」を育てるように、渡された「ことば」を育てる。見えないものが、見えるようにするために。そして、見えないものを見えるようにするために、詩がある。





愛の手帖―佐子真由美詩集
左子 真由美
竹林館

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